失敗と復活
ひとりになった僕は、仕方がないので帰宅するべく自宅へ向けてとぼとぼと前進をはじめた。頭の中では杉咲季さんのデータを基に話を振ったのに、なぜまともな会話にならなかったのかを考えていた。
もちろん僕の女子との会話スキルが低いのも原因の一端ではあるだろう。しかし、それにしてもあまりに手応えがなかった。
もしかすると杉咲季さんの調査に誤りがあったんじゃ――
「いえいえ、わたしの調査に間違いはないはずです」
「うわっ、えっ、す、杉咲季さん?」
いったいどこから現れたのだろうか。初めて生徒指導室の前で会ったときのように、彼女はいつの間にか僕の背後に立っていた。
「確かに地磁気さんたちは、休み時間にファッションや動画の話を多くしていました。それは間違いないです。上手くいかなかったのは、大慈弥さんが突然服をはだけさせたり、かわいい女子が大好きだと宣言をして、気持ち悪がられたからではないですか」
「もしかして、ずっと見てた?」
「はい」
だったら少しくらいフォローしてくれてもいいじゃないか。
まあ確かに僕の話題の振り方が良くなかったのは否めないが、それにしたって全く手応えがなかった。まるでファッションや動画に興味がないような感じさえしたほどだ。
ん、ちょっと待てよ。
ここで僕はひとつの仮説を立てた。もしかしたら地磁気は周りに合わせているだけで、本当は他に好きなことがあるのではないかと。これだったら僕の感覚とも杉咲季さんの情報とも齟齬は生じない。
紺ハイソを履いてもらうのに直接関係するかは分からないが、少しでもきっかけを得られる可能性がある以上、探ってみる価値はありそうだ。
「それで杉咲季さんはこれからどうするの? 地磁気はどっか行っちゃったし、僕はもう帰るけど」
「どうするとは? もしかしてわたしが大慈弥さんのことを心配して、後を尾けてきたと思ったんですか」
「違うの?」
「違います。わたしはレアモンスターのスポットとして有名なこの辺りに、歩鬼門業をしにきただけです。あなたたちと一緒の電車に乗ったのは、単なる偶然に過ぎません」
「あっそ、そいつは悪かったね。それじゃあ、いいモンスターと出会えることを願ってるよ」
僕は地磁気さんに背を向けると、早足に自宅を目指した。
翌日の朝、僕は普段より一時間近く早く起きて、自宅から三分ほどのところにある地磁気家に向かった。昨日の仮説を確かめるため、一緒に会話をしながら登校して探りを入れようというわけだ。
地磁気の登校時間を把握していないのでこんな時間から待つことになったのだが、果たしていつ頃出てくるのやら。
近所の人に怪しまれないよう、歩鬼門業や弩羅苦ヱ戦争玖をしているかのようにスマホをいじりながらウロウロして時間を潰すが、ちっとも家から出てこない。
結局彼女が現れたのは、僕の到着から四十分も経ってからだった。これだったらもう三十分は寝ていられたのに。
あくびが出そうになるのを堪えると、僕は自身の中に内包しているはずの爽やかさを呼び起こしながら話しかけた。
「や、やぁ、おはよう」
「……はぁ? なんでひのとんがウチの前にいんの」
ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んだ地磁気は、何度繋いでもすぐにWi-Fiが切れてしまうときのように、露骨に不機嫌そうな顔をしながら言った。
もちろん本当のことは言えないので、別の話題を振ってはぐらかすことにしよう。
「せっかくご近所さんなんだし、たまには一緒に登校でもしようと思ってさ。それよりどんな曲訊いてるの? EDMとか?」
僕は昨日ネットで仕入れた、いま流行っているらしい音楽のジャンルを口に出す。実際に流行っているのかどうかは知らないが、会話のきっかけになればそれでいいのだ。一夜漬けで得た知識だが、アニソンだろうが洋楽だろうが対応してみせるぞ。
だが地磁気は僕の質問に答えることなく、無言のまま駅の方へ歩き出してしまった。
えっ、そんな馬鹿な。別に『お風呂で体のどこから洗うの?』とか『今日のパンツは何色かな?』とか訊いたわけじゃないぞ。
多分カナル型のイヤホンが耳の奥まで入っていたので、こちらの質問がよく聞き取れなかったのだろう。
そう思うことで泣きそうな気持ちを紛らわすと、僕は地磁気の後を追った。
「この間の数学の小テストどうだった。分からないところとかあった?」
横に並ぶと昨日のうちに用意しておいたいくつかの質問の中から、勉強の話題をチョイスして訊ねた。
地磁気が勉強に対してそこまで熱心だという印象はないが、おそらく大学進学を考えているだろうから、まったくの無反応ということはないはずだ。
今度無視されたらさすがに立ち直れないぞと思っていると、地磁気はイヤホンを耳から外した。話を聞いてくれる気になったのかもしれない。
「あったけど」
「それじゃあ僕が教えようか」
「いい、友達に訊くから」
「いやいや遠慮しないで。僕は全部分かったから、どうやって解けばいいのかばっちり丁寧に教えるよ」
「なにそれ、自慢?」
「自慢じゃないよ。ただ僕の方が分かりやすく教えられると思う――」
「だから友達に訊くからいいって言ってるじゃん。別にひのとんに教えてって頼んでないし、余計なお世話」
「いやでも……あっ、いや、そうだよね。ごめん……」
不発だ。本当はもう少ししつこくいきたいところだが、なにせ昨日の今日なのでそこまで図太くなれない。
無言のまま改札を抜けて電車に乗り込むと、座席に座った地磁気の隣に僕も腰かけて、最近近所にできた生食パン屋の話やコンビニスイーツの話、はたまた意外な角度から攻めてみようと将棋の棋聖戦の話を振ってはみたが、昨日に続いてどの話題も彼女の芯を食うことはなかった。
きっと朝は低血圧で不機嫌なのだろう。だったら昨日はどうなるんだって? きっと夕方は眠くて不機嫌なんだ。そうに違いない。
学校に着いてからもなにかヒントはないかとコントラクトブリッジの入門書に目をやりつつ、それとなく視線を地磁気の方に向けていた。
杉咲季さんのデータ通り、男子と違って女子はそんなに個室があるんだという人数でトイレへ向かい、教室ではスマホを見ながら「やばーい」とか「すごっ!」とか言っていた。
僕といるときと違って、ボブカット軍団の中にいるときは笑顔でいることが多い。多いのだがどこか表情が硬いような気がしないでもない。
結局放課後になるまで地磁気の様子を観察し続けたが、特に真新しい発見はなかったし、校内で彼女がひとりになることはなかったので、一切話しかけることもできなかった。
終礼が終わると地磁気たちはすぐに教室を出たので、僕も後を追った。
今日は放課後にどこか寄るらしく、昨日とは違って群れたまま靴箱へ向かっていく。
さすがに出先にまでついていってひとりになるのを待つというのは、ストーカーの領分だろう。
今日はもうなにもできないと判断し、普通に帰ろうと思ったところに、突如地磁気が踵を返してやってきた。
ボブカット軍団の死角になる空き教室まで連れていかれると、彼女は時間がないときに探し物が見つからないときのような苛立った表情で僕を問い詰めた。
「ねえ、なんなの昨日から? 久しぶりに話しかけてきたと思ったららしくない質問ばっかしてきたり、ずっとこっち見てきたり」
「あっ、いや、それはその……」
どうやら昨日に続いて僕の視線はバレていたらしい。それどころかいきなり話しかけたことも不審に思われていたようだ。
もしも僕がスパイだったらきっとすぐに敵に見つかって、拷問の憂き目にさらされることになるんだろうな。
「なんか用があるならはっきり言いなよ」
言えるわけないだろ、紺のハイソックスを履いてくれなんて。
「なんもないならもう話しかけてこないで! それとジロジロ見てくんのもやめて!」
「ああっ……ううっ……」
なにも言い返せずに情けなく呻き声をあげる僕に、地磁気は憐憫の目を向けたかと思うと、なぜか涙目になりながら教室を出ていった。
えっ? 泣きたいのは僕の方だよ。というかもうちょっと泣いてるし。
「いやいや、散々な言われようでしたね」
「えっ?」
百八十度回転して涙で霞む視界を声の方に向けると、そこにはやはりいつからいたのかまるで分からないが、とにかく杉咲季さんがいた。
「傍から見ていても中々の惨状でしたよ。地磁気さんは昔からあんなにストロングスタイルな方だったんですか」
そう言いながら杉咲季さんはポケットティッシュを手渡してくれた。数枚を手に取り涙を拭いて鼻をかむと、僕は涙声で言った。
「……そんなに話したことはないから断言はできないけど、もっと柔らかかった気がするんだよね。きついことは言うんだけどあくまで笑える範囲でというか。それと友達といるときの感じがいまも明るいには明るいんだけど、なんていうかその明るさがちょっとおとなしいというか。昔はもっとこう、元気に明るい感じだったと思うんだよね。まあ大人になりつつあるってことなのかもしれないけど」
「なるほど。でしたらそういった大慈弥さんが感じた違和感には、なにか意味があるのでは」
「なんでそう思うの?」
「別に理由なんてないですよ。なんとなくです」
なんだよ、それ。
「でもこれで分かったでしょ。やっぱり僕には紺のハイソックスを履いてもらうことなんてできないって。もうお手上げだよ、あそこまで拒絶されたんじゃ」
僕の問いかけに杉咲季さんはなにも言わず、ただじっとこちらを見ていた。沈黙が気まずくて、僕はさらに言葉を続けた。
「杉咲季さんなら知ってると思うけど、僕は中学時代にも今回のように話術でなんとかしてくれって頼まれたことがあるんだ。もちろん内容は紺ハイソを履かせてくれなんて意味不明なものじゃなくって、彼女が別れたがってるのを留意してほしいっていう平凡なものだったけど」
「いえ、初耳ですね。わたしは別に週刊誌の記者ではないので、大慈弥さんの中学時代のことまで一々調べ上げたりしていません。あなたがディベートで活躍していた件は、ネットで名前を検索したら出てきたから知っていただけのことです」
「そっか」
「それで、結局どうなったんですか」
「……ダメだった。彼の良さをなるべく端的に説明して、別れない方がいいって勧めたんだけど……翻意はしてくれなかった」
「それは最初から誰が引き受けようが無理な案件だった、というだけのことではないですか」
「そうかもね。でも、自分の力を過信していたのは間違いなくて、無責任に安請け合いしてしまった自分がどうしても許せなかったんだ。だからもうディベートも辞めて、自分の力じゃどうにも出来ないことは頼まれても絶対に引き受けないようにしようって決めたんだ。今回だって脅しに屈せず断るべきだったんだ、本当なら……やっぱり僕じゃ――」
「そのとき、どうして大慈弥さんはその彼に協力する気になったのですか」
「どうしてって、だから僕は自分の話術に自信があったから……」
「確かにそれは大いにあるんでしょう。でもきっとそれだけではないはずです。少なくてもわたしはそう思っています」
「えっ、どうして杉咲季さんがそんなこと――」
「とにかく、まだあきらめるには早いです。大慈弥さんならできると思ったから、わたしはお願いをしたんです。もしも自分の力を疑うのなら、それはわたしの眼力を疑うのと同義です。謝ってもらえますか」
「なにその無茶苦茶な謝罪要求!? しないよ謝罪なんて」
「それだけ返せるなら十分です。おもちゃを買ってもらえず売り場で駄々をこねる子供のように泣いている暇があったら、屋上での痴態をさらされないように頑張ってください」
「別に僕が頑張らなくても、杉咲季さんが動画を消してくれればいいだけなんだけどね」
「ははは、なに冗談言ってるんですか。大慈弥さんって面白いんですね」
「ひとつも面白くないけど!」
「それでは、わたしはこの辺で。まだ時間はありますので、引き続きよろしくお願いします」
「……分かった。僕なんかじゃどうにもできないとは思うけど、やれるだけのことはやってみるよ」
部屋を出ていこうとする杉咲季さんの背中に、僕は言葉を付け足した。
「杉咲季さんのおかげで少し元気出たよ、ありがとう」
「……そうですか」
一度足を止めた杉咲季さんはいつもよりか幾分低い声音で返事をしたかと思うと、再度足を動かし教室を出ていった。
これで本当にこの教室には僕ひとりだけとなったわけだが、僕だっていつまでもここに残っていてもしょうがない。大きく深呼吸して過去の後悔を胸の奥にしまい込むと、教室を後にした。