紺ハイソ
てっきり校外に行くのかと思っていたら、彼女が足を止めたのは生徒指導室から数分のところにある視聴覚室だった。躊躇することなくドアを開けて中に入る彼女に僕も続くと、そこにはふたりの男の姿があった。
くそっ! やっぱり罠だったか! だから嫌だって言ったんだ。言ってたよね?
とっさに踵を返して部屋を出ようとした僕に、室内から男の甲高い声が届いた。
「ようこそ俺たちの救世主。話は我が妹から聞いたと思うが、どうだい、引き受けてもらえるだろうか」
「引き受けるって、なにを?」
僕はドアノブに手をかけたまま声の方に向き直る。まじまじと見てみると、ふたりの男のうちひとりは豆苗のように細身の銀縁眼鏡で、もうひとりは電車の座席を二つ分は使いそうな巨漢の黒ぶち眼鏡だった。
中肉中背の僕がいうのもなんだが、どう見てもふたりとも屈強ではない。だからといって油断をする気はないが。もしかしたらなんらかの格闘技経験者の可能性もあるし、巨漢の方に体格を生かしたボディプレスをかまされたらお手上げだ。警戒心は緩めないでおこう。
「なんだいマイシスター、話してないのか?」
「わたしの役割は彼をここにつれてくることでしたよね。偉そうにしてないで説明は自分でしてください。ついでに毎日指にささくれができればいいと思います」
「なんて恐ろしいことをいうんだ。そんなことになったら、絆創膏がいくらあっても足りないじゃないか」
ガリガリの男は両手の指を見ながら震えると、今度は視線を僕に向けてきた。
「それじゃあ、まずは自己紹介といこう。俺は咲季ちゃんの双子の兄で杉彰影、アッキーと呼んでくれ。そっちの大きいのは檜飛露喜、俺のクラスメイトで幼馴染だ」
巨漢檜は小さく手を挙げ、「よろしゅう」と言った。
「で、さっそく本題に入ろうと思うんだが、その前にひとつクイズといこう。俺たち三人はとある部に所属していてこの部屋を部室として使っているんだけど、ジミーはここが何部の活動拠点か分かるかな」
いきなり名字をモジってジミー呼びしてくるなんて、ずいぶん馴れ馴れしい奴だな。まあいいけど。
「視聴覚室ってことは、プロジェクターを利用する映研とか?」
「ノンノン、正解は漫研だ。視聴覚室を利用しているのは単にあてがわれただけだよ」
となると、なぜ僕が漫研に呼び出されたのかという疑問が当然浮かぶわけだが、これは漫画でよくある、才能を買われて部に勧誘される展開なのではないだろうか。
自宅から秋葉原まで自転車で通っていたら驚異的な脚力がつき、自転車部にスカウトされるとか、ゴールボードに頭をぶつけるくらい跳躍してバスケ部に誘われるといった具合にだ。
まったく心当たりはないが、もしかしたら僕には自分では気づいていない絵のセンス、あるいはストーリーテラーの才能があるのかもしれない。
ここで基礎を学んで出版社へ持ち込み、在学中にデビューをして、ゆくゆくは人気アンケートで一番になって声優志望のクラスメイトの女子と結婚するという、ハッピーエンドな未来が待っているのかもしれない。
ここは勘づいているのをおくびにも出さず、あえて分かっていないふりをして答えてあげるのがスマートな対応というものだろう。というわけで、できるだけとぼけた口調で僕は言った。
「で、漫研が僕になんの頼みがあるっていうんだ。も、もしかして、入部してほしいとか言わないよな」
「逆だよ逆。いまから言う条件を呑んでくれたら、俺たちがワンダーフォーゲル部に入ってあげようって話さ。もちろん顧問にも許可は得てる」
ああなるほど、そっちのパターンね。さようなら、売れっ子漫画家になった僕。
「つまり、ワンダーフォーゲル部の廃部を阻止してやるから、代わりに言うことを聞けと」
「そういうことだ」
別にワンダーフォーゲル部に未練はないので条件とやらを呑む気はない。が、ここまで話を聞いた以上、一応訊ねておこう。
「で、条件ってのは」
「ズバリ言おう。ジミーにはとある女子に紺のハイソックスを履かせてほしいんだ」
「……えっ?」
所属していた部が廃部になったり、顧問がアメリカ大統領を目指すから教師を辞めると言ったり、しまいには女子に紺のハイソックスを履かせてくれと頼まれたり……なんなんだ今日は、厄日か?
「ここで突然のクイズ第二問だ。我が校の校則第三章第二条、これの内容を答えてくれ」
杉兄は僕の疑問を一切解消することなく、さらに疑問を増やす問いかけをしてくる。
しかしこれ以上パニックを起こしてもしょうがない。頭を切り替え、努めて冷静に対応することにしよう。
「『服装の規定一・上はワイシャツかポロシャツ、下は学校指定のズボンまたはスカートを着用すること。始業式や終業式など式典の際にはネクタイまたはボウタイを着用をすること』だろ」
第一ボタンまでしっかりと留めたワイシャツの上に、かっちりとネクタイを締めた杉兄を見ながら僕は答えた。
「ふふっ、さすがだ、さすがだよジミー! 普通の人間は校則の何章になにが書いてあるかなんて一々覚えちゃいないよ。咲季ちゃんから聞いた通り、休み時間に生徒手帳を読み込んでいるだけのことはあるようだな」
確かにルールブックや規則書を読むのが趣味なので、休み時間に生徒手帳を熟読していたりするが、そんなところまで見られていたなんて。やはり杉咲季さんは僕のことを好きなんじゃ――
「うちの妹はちょっと変わっててさ、人間観察が趣味というか日課で、学校中の人の様子をつぶさにチェックしては、情報を収集しているんだ」
なるほど、それで元顧問がクビになったことや僕のあれやこれも知っていたわけか。納得はしたけど少し残念ではある。
「いやいや、彰影みたいな変態に変わっているなんて言われたくないんですが。あなたの使う皿だけ洗ってもぬめりが落ちなければいいと思います」
「なんて恐ろしいことを言うんだ。そんなことになったら気持ちが悪くて食欲が減衰するから、ただでさえ細い俺の体がさらにガリガリになってしまうじゃないか」
杉兄は貧相な自分の体を抱き、ブルブルと身を震わせると話を再開した。
「それでだ、そんな細かいところまで観察している咲季ちゃんが学内の色んな人を見てきた中で、今回のミッションにもっとも相応しい人物だと導き出したのが――ジミー、君だったってわけさ」
「ミッションって、さっき言ってた紺のハイソックスをとある女子に履かせるってやつだよな。いったいなんでまたそんな奇妙なことを」
「悪いがいまはその質問に答えることはできない。ただ、このミッションが成功するか否かで今後の学園生活が大きく変化するということだけは、はっきりと明言しておこう」
はっきりと明言という頭痛が痛いばりの二重表現を用いた杉兄の表情には、言葉を体現するかのような絶対の自信が満ち溢れていて、なにが目的かはまるで分らないが、少なくともこいつが本気だと言うことだけははっきりと理解できた。
「それじゃあ、僕が適任ってのは? どこをどうしたら自分が紺のハイソックスを履かせるのに向いているのか、皆目見当もつかないんだけど」
「なあジミー、たとえば君がなんの策も用いず、正面から女子に紺のハイソックスを履いてくれって頼んだらどうなると思う?」
「えっ、そりゃまあ……気持ち悪がられたり、不気味に思われるんじゃないか」
「だよな。いきなりそんなこと言われて了承してくれる女子なんてこの世に存在するわけがない。ましてや俺や檜は咲季ちゃん以外の女子とまともに話をしたのは小学校のときが最後だから、そもそも話しかけることすらままならないんだ」
「さすがにそこまでじゃないけど、僕も女子と話すのはそんなに得意な方じゃないぞ。だったら同性の分、まだ杉咲季さんが頼んだ方が――」
「おやおや、なんでわたしがそんな馬鹿なお願いをしなくちゃならないんですか。意味分からな過ぎてゲロ吐きそうです」
「というより、サッキーが女子に好かれとらんから、無理っちゅうだけのことちゃう?」
「やれやれ、体型を揶揄するのがコンプラに引っかかる世の中でなければ、黙れ豚野郎とでも言っているところなんですが」
「いやもう言うてる! けどまあ、かわいい女子になじられるっちゅうのはやっぱりええもんやな。わいはコンプラなんて気にせんからこれからもどんどんなじってやー」
なんだこいつ……。
「まあ待て、仮に同性である咲季ちゃんが頼んだとしても、やはり紺色のハイソックスを履いてもらうのは難しいだろう。考えてもみてくれよ、ジミーは僕が紺ハイソを履いてくれって頼んだら履いてくれるか?」
「いや、履かないな」
「だろ。というわけで、まともにいっても無理な以上、こちらの目的を知られることなく、あくまで自発的に履くように仕向ける必要があるのは分かってもらえたと思う。そこでジミーの出番ってわけだ。中学時代、ディベートの全国大会で優勝し、個人としてもベストディベータ―に選ばれた、ジミーのな」
「……それも杉咲季さんの情報か」
「もちろん。ジミーの卓越した話術を駆使すれば、絶対にミッションを達成できるはずだ。成功した暁には俺たちがワンダーフォーゲル部に入って、顧問も漫研の先生に頼み、廃部を阻止すると約束する。だから頼む。どうか俺たちに協力してくれ!」
杉兄は彼女の父親に『娘さんを僕にください』という彼氏のように、気持ちを前面に押し出しながら言った。
いったいなにがここまでこいつを突き動かすのかはさっぱり分からないが、少なくとも冗談で言っているのではないというのは確かなようだ。
なんとか期待に応えてあげたいという気持ちが僕の中にあるのも嘘じゃない。だけど……
「悪いけど、それはできない」
「えっ!? な、なぜだ。ワンダーフォーゲル部が廃部になってもいいのか」
「ああ、それは別に。なんの未練もないし」
「そ、そんな……」
「できれば協力してやりたいけど、口先だけで紺色のハイソックスを履かせるなんて、僕の力じゃできないよ。もっと他にふさわしい人がいるはずだから、その人に頼んだらいい。もちろん、いま聞いたことは他言しないから安心してくれ。それじゃ」
椅子から立ち上がり部屋から出ようとした僕の前に杉兄が回り込んできた。
「な、なんだよ……悪いけど僕は――」
「頼む! そこをなんとか! ひとりでやれとは言わない。もちろん俺たちもできる限りの協力をする。作戦に必要な経費はいくらでも払うし、もしミッションが成功したらなんでも言うことを聞く。だからお願いだ! 引き受けてくれ!」
細い体のどこから湧き上がってくるのかと思ってしまうくらい、力のこもった言葉を僕に投げつけると、杉兄は床に火花を起こさんばかりの勢いでおでこをこすりつけ、土下座の体勢を取った。
「ワイからもお願いや!」
隣に檜もやってきて、巨体を沈めて同じく土下座した。
必死さが胸に迫る光景だ。頼みの内容が女子に紺ハイソックスを履かせてほしいという間の抜けたものでなければ泣いていたかもしれない。
「やめてくれよ、土下座なんて」
「いいややめない。ジミーがオーケーしてくれるまで、俺はこの場を動かない!」
土下座したまま僕の足をがっちりと掴み、杉兄は懇願を続ける。まずい、このままでは気迫に押し切られて承諾してしまいかねない。それだけはなんとしても避けなければ。
「と、とにかく、僕はもう行くから。それじゃあ」
「あっ、ま、待ってくれ!」
「そんな殺生やぁ!」
どうにかこうにか杉兄と檜を振り切ると、僕は小走りで出口へと向かった。杉咲季さんからの視線を感じた気がして彼女の方を見たが、地面に伏しているふたりとは違いちっとも慌てている様子はなく、なにを考えているのかはさっぱり分からなかった。
こうして僕は視聴覚室を後にし、この話はここで終わった。
――はずだったのだが、あれからわずか一日足らずの昼休みの屋上にて、僕は再び紺色のハイソックスを履かせるように要求されているというわけだ。
昨日とは違い、お願いではなく脅しでだが。
そもそも僕のようなモブキャラ気質の生徒が屋上でブツクサ独り言を言いながら弁当を食べている映像を、いったい誰が見たいというのだろうか。どうせ僕に興味なんてないんだから、毎日何百万も生まれゆく動画の最下層のもののように、誰の記憶にも残ることはないのではないか。
それにみんなだってあれくらいのこと、部屋にひとりでいるときとか言ってるよね。ゲームとかしてるとき。ねぇ?
頭の中で問いかけてはみるが、もちろん誰からも返事はない。
脅しに屈することなく、はっきりとノーを突きつければいいわけだが、ダメだやっぱり恥ずかしいぃ! さっき客観的に見た僕の不気味面動画が痛すぎた。あれを学校中の人に見られるかと思うと、衝動的に屋上から飛び降りたくなってしまう。
では説得するのはどうだろう。盗撮なんて許される行為ではないし、仮に動画をばら撒いたことで僕が心身喪失状態になったりしたらどうするんだと。でもこんな強引な手段を取る以上、きっとなにを言っても聞き入れてはくれないだろうな。
じゃあ観念して彼らに協力するのか。だけど僕には……。答えを出せずに逡巡していると、杉咲季さんが口を開いた。
「大慈弥さん。仮に失敗したとしても、わたしたちはあなたのことを責める気も非難する気も一切ありません。もし彰影たちがそのような暴挙にでた際は、わたしが責任をもって処分します」
「処分って、なにを……」
「それはご想像にお任せします。ただひとつ言えるのは、わたしがこの学校内で色々な生徒を見てきた中で、今回の件に一番ふさわしいのは大慈弥さんだった。これだけは間違いないです。どうかわたしの眼力を信じて、協力してもらえないでしょうか」
「……分かったよ。そこまで言われたんじゃ引き受けるしかないな。まったく自信はないけどできるだけのことはさせてもらうよ。これからよろしくね、杉咲季さん」
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
一切笑顔がなかったり、口調に抑揚がなかったりと、どうにも態度からは感謝の気持ちが伝わってこないが、まあいい。
こうして僕は大いなる不安と少しだけ火の点いた心を抱えつつ、紺色のハイソックスを履かせるという、杉咲季さんたちの謎の目的に協力することになったのだった。