出会い
「突然だが、今日でワンダーフォーゲル部は廃部だ」
呼び出された生徒指導室に入って早々、僕の所属するワンダーフォーゲル部の顧問である安西応史郎は、ヤンキーのごとく雑に金色に染め上げた髪を触りながら、授業中に雑談しているときのような軽いノリで僕に廃部を告げた。
「そうですか」
「なんだ、リアクションの薄い奴だなぁ。もっと驚けよ、廃部だぞ廃部」
「多少驚きはしましたけど、ある程度想定はしてましたから。なにせもう五月になったというのに新入部員はゼロ。それどころか去年から今日に至るまで、ずっと部員が僕ひとりだけでしたので」
「ま、それも理由っちゃ理由なんだが、一番の理由は他にあるんだ」
「それっていったい」
「実はな、今日で顧問であるこの俺が学校を辞めるんだ」
「えっ、辞めちゃうんですか」
春休み中でなく五月になってからなんて、よほどの事情があるのだろうか。
「俺は常日頃お前らに言ってきたよな。『夢にきらめけ! 夢イズドリーム!』だって。しかしそう言っている俺自身は自分の夢を追いかけられているのかって、最近考えるようになってな」
「つまり、なにか夢があってそのために教師を辞めると?」
「ザッツライト!」
わずかに生えた前髪を指先で掻きあげ、顧問はどや顔でこちらを見てくる。腹が立つ顔だな、しかし。
「で、なんだと思う。俺のビッグドリームは?」
「そうですね……退職する必要があるということは、政治家とか」
「ほう、中々いい勘してるじゃないか。だがな、俺の夢はそんなもんでは収まらないくらい、もっとはるかにでかいんだ」
「へぇ」
なんかもったいぶっているので時間がかかりそうだな。このままだと正解するまでずっと答えさせられそうだし、沈黙することで主導権を向こうに渡し、さっさと話を進めてもらおうことにしよう。
ちょっとの間ができた後、こちらの思惑通りに顧問はやや怒り気味の口調で捲し立てた。
「いやいや、へぇじゃねえよ。もっと食いついてこいや! 一体全体そんなビッグな夢ってのはなんなんですかって」
「はぁ、で、結局なんなんですか。そのビッグな夢ってのは」
「そこまで言われちゃしょうがないなぁ。耳の穴かっぽじってよーく聞けよ。俺の夢はズバリ……アメリカの大統領になることだ! どうだ、実に俺様らしいビッグな夢だろ」
「はぁ……」
前々から俺はドラマに出てくるような型破りな教師になりたいんだと公言していて、『腐ったみかんは俺がぶっ潰す!』とか、『助けるという字は目に力と書く。つまり目力が大事なんだ!』とか、意味不明なことをまるで名言でも言っているかの如く叫んでいたが、今日は一段と酷いな。
色々言いたいことはあるのだけれど、どんな物事に対しても頭ごなしに否定するのはどうかと思う。
というわけでまずは、アメリカの大統領になるための条件を整理するとしよう。
「えーっと、アメリカの大統領になるための条件は――第一に三十五歳以上であること、第二にアメリカ生まれであること、そして第三にアメリカ在住十四年以上であることですよね。三十五歳に関しては現時点で四十歳は優に超えていそうなので問題ないでしょうし、在住歴もいま現在達していなくてもこれから現地で職に就ければ達成できるでしょう。こんなこと言い出すからには当然アメリカ生まれでしょうし、一応大統領になる条件は満たしていますね」
まあ満たしているからなんだという話ではあるが。
「なに言ってんだお前は。俺はまだ三十歳にもなってないし、アメリカに住んだこともない。というか生まれてからこの方、一度も日本から出たことがないぞ」
「えっ、それじゃあアメリカの大統領にはなれないじゃないですか」
「あーああーあ、いつも言ってるだろうが。無理とかダメとかできないとか、そういう言葉は可能性を摘むことになるって。世の中には不可能なことなんてないんだ」
「とはいっても先生は条件を満たしてないから――」
「シャラーップ! ぶち殺すぞファッキン小僧が!」
とても教師とは思えない言葉で僕の言葉を遮ると、先生はドラマに出てくる破天荒(誤用)教師のようなノリでさらに続けた。
「夢ってのは些細な困難なんてどうにかできちまうくらいすげぇものなんだ。俺はアメリカの大統領になる条件なんてまったく知らないないし興味もないが、俺は俺を信じてる。そして信じて諦めさえしなければ夢は必ず叶うんだ。分かったかシャバ僧!」
まさか大統領になるための条件すら知らなかったとは。気持ちだけではどうにもならないのは明白だが、ヘディングやアニメなんかは他国に先駆け早々と規制をする割に、政治家に献金さえすれば何人死のうが銃は持ち放題、どんな像でも立て放題の国なので、仮に先生が大金持ちになって優位にロビー活動できるだけの力を手に入れることができたら、大統領になれるかもしれない。
もっとも、その前に人類が滅亡する可能性の方がよっほど高いだろうけど。
「よく分からないけど分かりました。ちなみに、最低限向こうでの仕事の当てぐらいはあるんですよね」
「そんなものはない! お前って奴はどうしてそんなに現実主義者なんだ。俺は悲しいぞ」
「えっ、だってそれじゃあ、どうやって暮らしていくつもりなんですか」
「いいか、人間ってのは夢さえ抱いていればどんな環境だろうと生きていけるんだ。食べ物がなくても夢という名のエネルギーが動力源となって無限に動けるし、溢れ出るオーラにどんどん同士が集まって、自然とその他諸々の問題も解決する。それが夢の力だ!」
「そんなむちゃくちゃな……」
「というわけで今日でPTA――パワフルティーチャー安西としての活動はおしまいだ。これからはTPO――トッププレジデント応史郎になるべく、さっそくいまから帰って渡航の準備をはじめる。今度会うときはホワイトハウスでだ」
元顧問となった安西応史郎は、椅子から乱暴に立ち上がると僕の肩に手を置き、「あばよ」と言って生徒指導室から去っていった。
ホワイトハウスどころか入管の監房入りにならなければいいのだが。
ひとりになった僕は、ゴールの枠内にシュートがいかなかったサッカーの試合のように、ハイライトシーンがほとんどないこの一年の活動を振り返ってみることにした。
……。あっという間に終わってしまった。時間にして十秒もなかったんじゃないだろうか。
なんとなく入ってはみたが、ほとんど部室で勉強してただけだったな。まさか一度も屋外で活動することなく終わるとは。
ほんの少しの感傷に別れを告げると、今日の活動はなくなったので(今日だけでなく今後もだが)さっさと帰るべく、僕も生徒指導室を後にした。
廊下に出ると元顧問が、「こんな世の中じゃ、ポイズン!」とかなんとか叫びながら下の階へと消えていくのが見えた。僕も下駄箱に向かうべく足を進めようとしたところで、ふいに誰もいないはずの背後から声がした。
「本当は大統領になるためではなく、クビになったから辞めるみたいですよ」
「えっ!?」
驚いて振り返った先には、身長はおそらく百六十センチほど、長めの黒髪を後ろで結んで漆黒のニーソックスを履いたかわいらしい女子がいた。
いったいいつの間に現れたのだろうか。まったく気配を感じなかったぞ。
話の方は内容からして元顧問のことを言っているとみて間違いない。
「クビって、どうして」
「なんでも自分のクラスに不登校の生徒がいたので、登校させるためにその子の家に乗り込んでいったらしいんです。で、『俺がお前の心の壁をぶち壊してやる!』と叫びながら部屋の壁を電動ドリルで破壊したとのことです」
「ああ……そう」
さすがはCTA――クレイジーティーチャー安西。去年まで僕のクラスの担任をしていたから身に染みて分かる。あの人ならやりかねないと。
「その結果、在宅していた両親によって即座に警察に通報されたそうです。学校側が弁護士を用意してなんとか示談に持ち込んだようですが、校長や理事長が相当ご立腹だったらしく」
「クビになったと」
「ええ」
「どうりで今日はいつにも増して正気とは思えない発言をしてたわけだ」
しかしどうしてこの子はここまで内情を詳しく知っているのだろう。
そしてなにより、どうしてわざわざそれを僕に教えてくれたのだろうか。客観的に考えて見ず知らずの男子に放課後の生徒指導室の前でいきなり話しかけるのは、なんらかの興味を示している証拠だ。
つまり、つまりだ。いま眼前にいるクマのぬいぐるみのようにキラキラした大きな黒目に、他人には絶対媚びませんと言わんばかりのツンとした口を携えた名も知らぬ女子は、僕に気があるのかもしれない。
いや待てよ。もしも僕のことが好きだとするのなら、愛嬌のある笑顔のひとつでも浮かべるか、緊張してはにかみながら話しかけてくるのが道理というものじゃないだろうか。
しかしこの子はといえば、愛嬌どころか敬語で話しかけてきてどことなく壁を感じさせるし、はにかむどころか淡々と事のあらましを語っていた。好きな男を前にした女子というよりは、警察に事情を訊かれた目撃者のようだったじゃないか。
となると、もしかして僕に話しかけてきたのは、罰ゲームの類なのではないだろうか。突然かわいい女子に話しかけられてドギマギする僕の姿を、物陰から見て大笑いしている輩がいるのかもしれない。
すぐさま周囲に視線を向けるが、それらしい気配はない。なんだ、杞憂か。いや待て、ブレザーの胸ポケットかどこかに超小型カメラが取りつけてあって、遠くで観察している可能性もあるじゃないか。
今度は視線を彼女の制服に向け、なにかレンズらしきものがあるのではないかと凝視する……あれ? おかしいな。レンズを探しているはずが、気が付くと視線はブレザーの上からでも巨きいのが分かる、彼女の胸の方にいってしまう。まるで万有引力のようではないか。
「やれやれ、そんなに露骨に胸ばっかりジロジロ見るのはいかがなものかと思いますよ」
「あっ、いや、これは……ごめんなさい!」
僕は即座に彼女から視線を逸らした。もしカメラがついているのなら、さぞや大笑いされていることだろう。別に馬鹿にされるのは構わないが、相手の思惑に嵌められるというのは少々気分が悪い。まあ自業自得なんだけど。
先ほどまではかわいらしいクマのぬいぐるみのイメージだったが、いまとなっては蕎麦屋の前に鎮座する信楽焼の狸のように見えてきた目の前の女子に、僕は決して浮かれていないことを示すべく、意識的に少し冷めた口調で言い放った。
「それで、君は先生が辞めることを伝えるためだけに、わざわざ僕に会いに来たの?」
「そんなわけないじゃないですか。いまのは単なる世間話です。本当の用件は他にありますから、ここではなんなのでついてきてください」
彼女は僕の揺さぶりに動揺する気配など少しも見せず、先ほどまでと変わらぬ高慢な敬語で告げた。
どうやら撮影されている可能性は低そうだが、ついてこいとはいったい……。もしかして美人局なのか!? ウキウキ気分でついていくとそこには屈強な男が待っていて、間抜けな僕は金をせびられるといった具合だ。
恐喝がいかに不毛で理不尽かを説いても理解してもらえなければ意味がないし、警察に通報したとしても、法律なんて知ったこっちゃねぇ、少年院なんてクソくらえだと報復される恐れがある。
となれば、ここで取るべき選択はただひとつ。
「悪いんだけど、今日は用事があるからもう帰る――」
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。わたしはスギサキといいます。よく間違えられるので最初に言っておくと、名字が杉で名前が咲季です。親しみをこめて杉咲季さんって呼んでください」
「いや、フルネームにさん付けってまったく親しみを感じないんだけど……。そんなことより、僕は――」
「もちろん知ってますよ。わたしと同じ二年生の大慈弥丁さん。クラスは一組でほんの数分前までワンダーフォーゲル部の唯一の部員。テストの点数は常に学年五番以内で、友人関係は広く浅く、昼食は基本的にはコンビニで買ってきたパンを食べている。入学式の際、いきなりおならについて語りだして周囲を騒然とさせたとか、利き腕は右で視力は右が1.5で左が2.0だとか色々な情報がありますが、とりあえずこのくらいにしておくとしましょう。今後は親しみをこめて大慈弥さんと呼ばせてもらいます」
「な、なんでそんなに僕のことを……」
ここまで僕について知っているということは、つまり、やはり、この愛くるしい瞳をした巨乳の女の子は、僕のことを好きに違いない! そうでなければ説明がつかないではないか。
いやしかし待て、待つんだ僕。中一の春を思い出すんだ。同じクラスの女子に誕生日を訊かれて、これは僕のことを好きに違いないと思って告白したら、『どんな運勢かを占いたかっただけで、別に大慈弥にだけ誕生日を訊いてたわけじゃないんだけど』と言われてフラれたじゃないか。
名前や部活なんてちょっと僕に張り付いていれば知ることができるはずだから、その情報を餌に距離を縮めて、ステロイド漬けのマッチョマンの元へつれていこうとしているのかもしれない。
チラッと彼女の様子を窺うが、どこからどう見ても真顔なので、まったく狙いが読み取れない。
「廃部を告げられていなければ今日はワンダーフォーゲル部の活動日ですから、もちろん時間はありますよね。場所はすぐそこなんで」
「……分かった。一緒に行くよ」
答えを書きかえるかどうか迷っている、残り時間一分前のテストのごとく考えに考えた末、僕は罠を警戒しつつも彼女の思惑を知りたい気持ちが勝り、とりあえずついていくことを選択した。