乙女心
店側の厚意で十分ほど休ませてもらい、グロッキー状態ながらもなんとか店を出ることに成功した。ちなみに僕たちがあれだけ苦労したチャレンジメニューは、成功率八割越えの初心者用だったらしい。どうかしてるとしか思えない。
亀のようにゆっくりゆっくりと駅の方へ歩みを進めていく。次はどこに行こうかなんて口が裂けても言える状態ではなかった。
「やっぱり先輩はすごいです。あれだけの量を食べられるなんて」
「僕も自分自身に驚いてるよ。火事場の馬鹿力ってのも侮れないものだね」
「わたしももうちょっと食べられれば良かったんですけど。でもやっぱり、食事はおいしく食べるのが一番ですね」
「ハハ、そうだね」
苦笑すると沙羅ちゃんが前方に誰か発見したらしく、「ねえねえ先輩先輩、あれ見てください!」と興奮しながら僕の肩をゆすってきた。
ちょっ、やめて、吐いちゃうから!
どうにかこうにか吐き気を堪え、沙羅ちゃんの視線の先を見てみると、そこにいたのは以前動画で見た彼女だった。
「あれって、ヒメタカさんだよね? 動画つくってる」
「そうですそうです」
遠目からでもスタイルが抜群に良いというのが分かり、長さがアシンメトリーになっているワンピースという出で立ちが、脚線美を引き立てていた。この距離からでも存在感が際立っているなんて、さすがに人気者は違うな。
日曜に私服で学校付近にいるということは家が近くなのか、あるいは忘れ物でも取りに来たのだろうか。
「やっぱりかっこかわいいですねぇ」
「そうだねぇ。そんなにはしゃいでるところを見ると、沙羅ちゃんはヒメタカさんのこと好きなんだ」
「そりゃもう大、大、大、好きです。大ファンです!」
元気よく言ったかと思うと、突然沙羅ちゃんは黙りこくってしまった。
「沙羅ちゃん?」
「……ねえ先輩、やっぱり男の人ってヒメタカさんみたいに痩せてる女の子の方がかわいいって思いますか?」
「そうだなぁ……かわいいっていうのがぬいぐるみや小動物を見たときに感じる庇護欲をくすぐられるという意味合いのかわいいでなく、恋愛感情や欲情を刺激された際に感じる意味合いのかわいいだって言うんなら、実際に統計を取ったりデータを見たわけじゃないからはっきりとは言えないけど、世の中に存在するアイドルや女優、そして巷の女子なんかを見る限り、大抵の場合は平均より痩せている人の方がかわいいと言われていると思う。このことを鑑みると、痩せている方が魅力的に感じる確率は高いと言えるね。第二に――」
「もういいです! 先輩、さようなら!」
僕の説明を遮り、沙羅ちゃんは急に声を荒げたかと思うと早足に去って行ってしまった。
「えっ、あっ、ちょっと――うぷ……」
突然の事態であることに加えて、ヘリウムが充満した風船のように腹が膨れていることもあり、僕は後を追うことができない。
いったいなにが彼女の怒りを沸点にまで到達させてしまったのだろうか。
「やれやれ、大慈弥さんは乙女心というものがまるで分かっていないようですね」
そう言っていきなり目の前に現れた杉咲季さんに驚いた僕は、この短時間で早何度目かの吐き気に見舞われた。やばいぞ、今回は勝てないかもしれない。
「とりあえず、これをどうぞ」
苦闘する僕に、杉咲季さんはミネラルウォーターと胃腸薬を手渡してくれた。
礼を言う余裕もなくすぐさまそれを体内に流し込むと、ギリギリのところで堪えることに成功した。
少々落ち着いたところで、「ありがとう、助かったよ」と言いながら彼女のことを改めて見てみると、日曜日ということでいつもの制服姿ではなく私服姿、ものすごく熱を吸収しそうな漆黒のワンピースを着ていた。普段は後ろで束ねている黒髪も、今日は肩甲骨の辺りで揺れている。
「やっぱり来てたんだね」
「やっぱりというのがなにを指すのか分かりませんが、わたしが偶然入ったラーメン屋に大慈弥さんたちがいたのは事実です」
「まあいいや。それより、僕が乙女心を分かってないっていうのは、いったいどういうことかな?」
「丼さんは痩せてる女子の方がかわいいかという問いに対し、否定をしてほしかったんです」
「否定を? どうして? 世の男が痩せてる女子をかわいく思うかどうかを訊かれたわけだから、なるべく客観的な見解を示すべきじゃないか」
「違います。あの質問で丼さんは大慈弥さんのくどい講釈を聞きたかったわけではないのです。なぜなら答えは、『痩せていても太っていても関係ない』とはじめから決まっていたのですから」
「いや、意味が分からない。はじめから答えが決まってるんだったら訊かなきゃいいじゃないか」
「それが乙女心を分かっていないというのです。彼女は自身の体型を気にしてはいるものの、ダイエットをしてまで痩せたいわけではない。つまり、いまの体型の自分を肯定してほしかったのです」
「なんでそんなことが分かるの? 痩せたいと思っているかもしれないじゃないか」
「考えてもみてください。もし本気で痩せたければ、大慈弥さんの偽お土産を嬉しそうに受け取ったり、大食いにチャレンジしようなんて思わないはずです」
「なるほど……一理ある」
うーむ、僕のような彼女いない歴=年齢の童貞には、乙女心という奴を理解するのは難しいな。
突然キレられたのは、歩道を歩いていたのに後ろから自転車のチリンチリンを鳴らされたときくらい理不尽だと思っていたが、どうやら気付かぬうちに車道に出てしまっていたらしい。
しかしそのおかげで、本来の目的である紺ハイソを履いてもらうための道筋が浮かび上がってきたのだから、結果オーライといえるのではないだろうか。
あそこをああしてああすれば……いける、かもしれない。問題はいまの僕に彼女を追いかけるだけの力が残っているかどうかだが、この機を逃せばもう沙羅ちゃんとの関係を修復するのは難しいかもしれない。行くしかないぞ。
「ありがとう、杉咲季さんのアドバイスのおかげでなんとかなるかもしれない。いまから沙羅ちゃんのところへ行ってくるよ」
僕は杉咲季さんに礼を言い、パンパンに膨れ上がったお腹をさすると、残った力を振り絞って走り出した。
人波を避け、時折吐きそうになるのを堪えつつ、ちょうど待ち合わせ場所だった公園の前で彼女の姿を捉えることができた。
「沙羅ちゃん!」
僕の呼びかけに彼女が振り返る。
「せ、先輩……」
「ちょっと話を聞いてほしいんだ、そこの公園で。いいかな」
「……はい」