異世界前提
「無人島に一つだけ持っていくなら、という設問というか思考実験というか、永遠のテーマとも言える命題について、君はどう答える?」
「命題って言う程のものじゃないと思いますけど」
正直な感想を答えれば、先輩は目を落としていた文庫本を閉じて長机の上に置いた。
やれやれ、とでも言いたげに先輩は微笑みながら首を振り、制服のスカートから伸びる、黒いストッキングに覆われた細い足をゆっくりと組む。
先輩がよくやる見慣れた所作であるため、それにはなんの違和感も覚えない。が、その端的に言えば偉そうな態度を前にしても、特に嫌な気分になったりしないというのは常々不思議に思うところだった。
気取ってるとか、高飛車とか高慢ちきとか、額に皺が寄ってしまうような感情を抱いてもいいはずなんだけど、そういう刺々しい負の想いが腹の底を渦巻いたことは一度もない。
自信と余裕に満ち満ちた凛々しい顔や、立ち居振る舞いの端々から香る上品さが、先輩のどんな行動をも、自然なものとして僕に認識させているのだろうか。
もしくは、出会ってたかだか半年で情けなくも後輩根性が染み付いてしまったか。
前者でも後者でも、どちらも問題ありな気がした。
「意地悪な答え方をしないでくれ。感想を聞きたいわけじゃなくて純粋に、君なら無人島に何を持っていくのか、という話だよ」
先輩が困ったように笑う。しかし大して困ってないだろうなと思ってしまうのは、机に肘を付いて両手の指を絡ませる、司令官さながらの姿勢が様になっているからかもしれない。
「持っていくもの……」
僕も先輩に倣って、読んでいた小説を手放す。先輩のこの会話の切り出し方は、一言二言交わしてまた読書に戻る流れではないと経験が知っていた。
しかし、質問内容について反芻してみるが、朧気なイメージしか浮かばず、上手く想像の世界へ没入することが出来ない。よく耳にするテーマではあるが、意外と真剣に考えたことはなかったことに気付く。
小さな島を思い浮かべ、鳥になったつもりで空から見下ろす。辺りには見渡す限りの大海原が広がっていて、他の島はもちろん、船の一隻すら見当たらない。島の真ん中には申し訳程度の森林があって、外周は砂浜に囲まれている。
……以上で想像は打ち止めだった。青と緑と白だけで世界が構成されてしまう。幼児向けの塗り絵に丁度いい難易度だ。
そもそも無人島というものに馴染みがなく、どの程度の大きさが普通なのか、世界にはどれだけの無人島が実在するのか、それすら知らない。そして調べようとも思わない。
つまりは、知識と真剣味が不足しているのだった。
「何持っていっても死ぬんじゃないですかね」
とりあえず、真剣じゃないなりにも考えた結果を口にした。
あからさまに不満そうに、先輩が唇を尖らせる。大人びた態度を常としているが、人前でこうしてコロコロと表情を変えることに抵抗がないというのも、憎めない要因の一つかもしれない。
「君は本当に捻くれているね……この問いの本質はそこじゃないだろう。――いや、正答がないから永遠のテーマとなっているわけであって、その答え方も一つの選択肢なのかもね。実際、無人島に道具一つで放り出されたら、人はそうやって投げやりな思考になるのかもしれないな」
僕への文句もそこそこに、何かに勝手に腑に落ちた先輩がうんうんと頷く。
気に入って貰えたようだが、一周回って鋭い答えかのように分析されても、中身はすっからかんなので反応に困る。温度差が激しくて若干居心地が悪い。
ここから話を広げることなんて僕に期待しているはずはないけれど、無茶振りされても怖いので矛先をずらす。
「先輩なら何を持っていくんですか?」
「うん? 私の答えなんてどうでもいいじゃないか」
「おい」
思わず後輩らしからぬ声が口から飛び出る。だが罪悪感なんてものは欠片も生まれないのだった。
「別に知りたくもないのに質問してあげたんですけど」
「酷い言い様だ」
冷たい視線を送ってはみたが、先輩に動じた様子は微塵もない。僕に後輩根性が染み付いてしまっているように、先輩も、先輩としての強さのようなものを手に入れているのだろうか。
なんにせよ、こんなことで強さを発揮しないで欲しい。
「最初に言った通り、永遠のテーマだからね。それだけ使い古された話題ということでもあるんだよ。だから最適解が何かというのも議論し尽くされているし、その解を小耳に挟んだこともあってね」
先輩がそれらしいことを口にする。言葉遊びや回りくどい言い回しが好きな先輩らしいと言えばらしいが……うん、ただの言い訳、言い包めだった。
「解を知った状態で答えても面白くないだろう?」
面白そうに微笑んで言われても、流れるように出てくる言葉の羅列を信用しようとは思えない。確かに内容は真っ当なものに聞こえるが、展開に淀みがなさ過ぎて、事前に理由を用意していたんじゃないかという疑いがチラつく。
「面白さなんて求めてませんよ」
「そんな君に、面白い議題を用意してあるんだ」
「聞いてました?」
「それでは今日の君の使命となる、本命の命題を発表しよう。」
聞いてないな。
しかし今のは言葉遊びのつもりだろうか。命懸けで考えろということなら、是非お断りしたい。そもそも命題って使い方あってるのか?
「じゃじゃーん」
溜息を吐きたくなる気怠い戸惑いを、先輩が一人で盛り上がって吹き飛ばしていく。唐突なキャラに合わない言動はちょっと可愛いと思ってしまうのでやめて欲しい。
先輩が目の前ある文庫本を手に取って、表紙を僕に向けていた。会話が始まったときに机の上に置いた、まだ読んでいる途中であろう本だ。
「異世界に転生する、という前提で話を進める」
また言葉遊びが挟まる。今度はちゃんと韻を踏んでいた。
表紙には男女二人が描かれていた。アニメチックな絵柄で、所謂ライトノベルと呼称されるジャンルだ。男が剣を、女が杖を所持していて、草原と馬車――漠然と中世ヨーロッパを思い浮かべるような景色を背にしている。少なくとも、舞台は日本ではないように見える。
そこまで把握して察しがつく。カラフルな表紙と、頭の中の三色で構成された無人島が混じり合う。
「一つだけ職業を選択するとしたら、君は何を選ぶ?」
視力はそこまで良い方ではなくて、タイトルを確認しようと目を細める。
小さな文字が長々と綴られていて、よく見えなかった。
文芸部の部室は狭い。図書室に隣接するこの一室は、元々は図書室用の倉庫として設計されたものらしく、僕らが普段授業を受ける教室に比べて、三分の一程度の広さしかない。
大きめの長机。天井に届きそうなほど高いが横幅のない本棚。そして部屋の角には、倉庫にあった物をそのまま流用したであろう、キャスター付きの古びたホワイトボードが置かれている。
長方形たちが、狭い部屋を更に息苦しくしていた。場所を取らないのは折り畳めるパイプ椅子ぐらいだろうか。
狭苦しく殺風景。未だにふとした瞬間、そんな感想を想う。
しかし文芸部なのだから、これぐらいが丁度良いのかもしれなかった。他の学校の文芸部事情は知らないが、少なくとも僕と先輩は、本を読んで感想を話し合う程度の活動しかしていない。顧問は僕たちの活動を見守ることも口出しすることもないし、僕と先輩以外の部員は籍を置いているだけの幽霊である。
本棚に並べられた本も、ほとんどが先輩の私物だ。
半分ほどしか埋まっていない本棚が、文芸部の歴史の浅さを感じさせた。
「前提がぶっ飛んでますね」
正直な感想を告げる。
先輩がそれなりにぶっ飛んでるのはもう理解しているし、こういう議論染みたことを好むのも知っている。似たような導入でいつの間にか議論に付き合わされていた経験も、過去に何度かある。
が、だからといってその経験値が、僕の思考までをも飛翔させるかと言えばそんなことはないのだった。
「そんなことを言ったら、無人島だって中々ぶっ飛んだ前提じゃないか」
「僕は最初から容認してませんけど」
「むむ。そうだったか?」
おかしいな、と小首を傾げるのもそこそこに先輩が立ち上がる。
部屋の隅まで歩くと、使い込まれたホワイトボードに手を掛けた。
「無人島も、異世界みたいなものさ」
先輩が歌うように言いながら、長机の正面へと配置するためにホワイトボードを引っ張る。古くなっているキャスターが、キィキィと耳障りな高音を奏でた。
耳に意識が向いて、そういえば放課後だったことを思い出す。運動部の掛け声が締め切った窓を薄くすり抜けて、廊下からは誰かが小走りに駆ける靴音が聞こえた。
……これを言ったら先輩に揶揄われそうだから言わないけれど。
不思議なことに先輩と話していると、時間や周囲の音を忘れてしまう。
「無人島は船で行けますけど、異世界はどうやって行くんですか」
しかし滅茶苦茶な会話は早めに終わらせるに限るのだった。
そこには明確な違いがあるぞと鋭く指摘しておく。
確かに現実離れしているという点では似通っているかもしれないが、どうせ離れてるんだったらどれだけ遠ざかろうと一緒だ、とはならない。
現実離れな妄想でも、現実味は必要だ。
「知らないのかい? トラックに轢かれるか暴漢にナイフで刺されるかすれば、簡単に行けるそうだよ」
「えぇ……」
現実味とか、そういう次元の話ではないらしい。
異世界転生モノは二、三冊読んだ程度の知識しかなく、こうも自信満々に出られると強く反論できない。思い返せば、僕が数年前に読んだ作品もそんな展開から転生していた気はするけども、今も無数に溢れる作品群の全部が全部、同じ様な転生の仕方をしているなんてことは流石にないと思いたい。
……ないよね?
「まあそれは冗談みたいなものだが……異世界にはもう着いたものとして、都合良く話を進めていこう。いいじゃないか、無人島だって好きな物を持ちこめるという都合の良い前提があるんだから、大目に見て欲しいね」
先輩は黒のボードマーカーのキャップを取って、僕に背を向けた。
ホワイトボードの左上に小さく横書きで、《死》と《異世界》の二つの単語が書かれる。文字の大きさが均等で、とめ・はね・はらいがしっかりした美しい字だ。ホワイトボードにここまで綺麗に字が書ける人を、僕は先輩以外で見たことがない。
《死》から《異世界》へ、矢印が伸びる。楕円でそれらを囲むと、先輩は満足そうに僕へ向き直った。
死ぬことはマルというよりバツなのではと思ったけど、そんな小言が先輩の考えを改めるはずもないので言わないでおく。
こういうモードに入った先輩は絶対に折れない。ぐだぐだと抵抗しても、結局は先輩に付き合うことになるのだから、それなら僕が早めに折れた方が賢明だった。
「ジョブ……っていうのは、ファンタジー世界における役職ですよね? 戦士とか魔法使いみたいな」
「その通り」
先輩は深く頷くと、再びホワイトボードにマーカーを走らせた。女の子らしい華奢な背中が、書き込む内容を隠す。
「異世界に転生したなら、冒険者として旅をするのが基本的な流れのようだからね――おっと、この前提にも文句を言うのはやめてくれよ? その世界の住人ではない私たちが、冒険をするにあたって最適な職業はどれだ、という話なんだから」
「もう突っ込む気力もなくなってます」
「それは困る。議論をする気力は維持してもらわないと」
話しながらも器用に書き終えた先輩が、踊るように身を翻してボードの正面から退いた。
そこには《タンク》《アタッカー》《ヒーラー》《サポーター》と、ゲームなどでよく見かける用語が四つ、ボードの左側に縦に並べて書かれていた。
職業というよりは戦闘時の役割を示したそれらは漠然としていて、どれか一つをその中から選んでも、そこから更に無数に枝分かれする余地を残しているように思う。
そんな僕の懸念を見透かしたように、先輩が付け加える。
「まずはこの四つの中から選んで、方針を決める形が良いかな。……意味は似通っていても、作品ごとに使用されている呼称が違ったりするから、その中でも個人的に、一番しっくり来るものをチョイスしたんだが……伝わっているかい?」
先輩が心配そうに眉をひそめる。僕だけではなく先輩にも懸念が存在するようだった。
先輩の顔からホワイトボードへ、もう一度視線を移す。上から順に、ゲームや小説の知識と照らし合わせていこうと思った。
《タンク》は味方がダメージを負わないように、敵の注意を引き付ける防御型の前衛。攻撃を一身に受けることになるため、それに耐え得る鎧や盾を装備する。故に耐久力は高いが、危険度の高い役職とも言えるだろう。
《アタッカー》は敵へダメージを与えるための、攻撃型の前衛――いや、その単語を一見すると剣のような近接武器を装備する者を想像してしまうけど、弓や魔法なんかの中後衛もアタッカーに分類するのかもしれない。距離は関係なく、敵に痛手を負わせるための役職の総称。
《ヒーラー》は戦線を維持するために、傷付いた味方を癒す後衛。タンクやアタッカーの状態に気を配りつつも、敵に狙われやすいため、自らの安全を含めた危機管理能力が求められる。回復魔法を使用するイメージがあるが、魔法のない世界観ではどうなるのだろうか。その場合はそもそもヒーラーという概念が存在しないかもしれない。
そして、最後の《サポーター》だが、
「サポーターって、あんまり見ないですね」
「そうなのかい?」
意外だったのか、先輩が微かに目を丸くする。
ゲームで何度か目にしたことがある程度だろうか。おそらくバフやデバフで味方をサポートする支援職のことを指す呼称だとは思うが、作品によって解釈の違いが出てきそうだ。タンクやアタッカーなどの前衛ですらサポート技の一つや二つ持っていることも多いので、わざわざ《サポーター》という区分がなされていない場合の方が多い気がする。
「私の好きな有名作品で使われていたから、一般的なものだと思い込んでいたよ」
「いや、僕もほとんどゲームの知識しかないんで……。サポーターを主役として扱う作品が、今のトレンドだったりするんですか?」
僕の見聞が不足しているだけの可能性は大いにある。今のご時世、異世界に転生する作品は飽和するほどに溢れ返っているはずだ。伝説の剣を台座から引き抜かなくとも、勇者のように世界を救うことが出来るのだろう。
だけど先輩は、首を横に振った。
「最近ハマったばかりでまだ十冊程度しか読んでいないから断言は出来ないけれど、そういうわけじゃない、と思う。奇を衒ったものが多い気はするがね」
奇を衒ったものとは、勇者らしくない勇者、という意味だろうか。
先輩の返答になんとなく納得する。読んだことはなくとも、本屋やネットで有名作のタイトルぐらいは目にしたことがあって、そのどれもが確かに、唯一無二の特殊なスキルを持っていたりスライムや蜘蛛に生まれ変わったりと、奇抜な設定を売りにしていたりする。
……タイトルしか知らないのに設定を語れるというのもおかしな話だ。これが長文タイトルの利点か。
しかし十冊程度しか読んでいないと先輩は言うが、部活中にしか本を読まない僕からすれば、同ジャンルを十冊は十分な数を読んでいるように思う。読書家な先輩にとっては十冊なんて、今までの人生で読み終えた総数の十分の一――いや、百分の一にも満たなかったりするのだろうか。
「その作品のサポーターってどんな役割でした?」
「簡潔に言えば、裏方だね。敵に直接攻撃するシーンなんてほとんどなくて、特殊な魔法で仲間の身体能力を強化したり、敵の動きを阻害して仲間にトドメを刺してもらったり。そういう補助的な目立たない仕事をこなしていたかな。あとは暗闇を照らす魔法とか、寒さを緩和する魔法なんていうのもあって、すごい便利なんだよ」
先輩の説明は力説とまではいかないが、微かに熱が籠っているように聞こえた。
好きなキャラがそのサポーターだったのだろうか。窮地に立たされた仲間を救うためにサポート魔法が大活躍したとか、そういう名シーンを思い出して胸を熱くしているのかもしれない。
「やっぱりメインはバフとデバフですか」
ゲームに登場するサポーターとある程度は一緒なようで安心を得る。これなら認識に食い違いのない状態で話を進められそうだ。
しかし先輩の知識には結構偏りがあるみたいで、
「ばふとでばふ?」
先輩が聞き返してきた。輪郭のはっきりしない発音は、間に助詞が挟まっていることにすら気付いていなさそうだ。
「バフ、と、デバフ、です」
「バフ。デバフ。……なんだいそれは?」
発音は形を成したが、先輩は全くピンと来ていない様子だ。
バフもデバフも、元々は僕みたいなコアゲーマーの間で使われるスラングみたいなものだったと聞いたことがある。今でこそライト層にも認知されているが、普段やっているゲームのジャンルによっては知らないという人も未だにいる。なら、ゲームにほとんど触れたことのない読書派である先輩が、専門的な用語を知らないのも無理はない。
解説しておいた方が、議論が滞ることなく進みそうな気がした。
「強化と弱体化の英語――いや、正式な英語じゃないんだっけ……。ともかく、バフが強化で、デバフが弱体化という意味です。さっきの先輩の説明から引用するなら、仲間の身体能力を強化するのがバフで、敵の動きを阻害するのがデバフですね。ちなみに、サポーターのことをバッファーって呼ぶ場合もあります」
「なるほど」
先輩は深く頷いたが、釈然としないのかムムムと唸る。
「しかし、私が読んできた小説の中では一度も使われていなかったな」
「まあ、ゲーム用語ですからね。そういう効果を持った魔法やアイテムが登場して、それを見た主人公がゲーム知識を持っている場合とかじゃないと単語自体が出てこないでしょうし。それ以外で使っても、ファンタジーな世界観にそぐわないんじゃないですか? ゲームの世界に転生するパターンなら頻出しそうですけど」
僕が読んだことのある作品も、バフ・デバフなんて用語は一度も使われていなかった。と言っても内容を細かに思い出せそうなのは一冊だけで、それ以外はタイトルすら忘却している。
普通の高校生が異世界へ転生してしまう話だった。だけど転生した先では名前以外の現実世界の記憶を失っていて、ここは自分のいるべき世界じゃないという疎外感だけを胸に、冒険者としてなんとか生きていく。時折思い出す現実世界の記憶が、本当に自分のものだという確証も持てないまま。
空虚な雰囲気を感じさせる設定が好みで、読後は良質な満足感に浸った覚えがある。続巻の発売が中々に遅くて追うのをやめてしまったけれど。
もしかしたら巻数が進めば、主人公が実はゲーム好きで、ゲーム知識を思い出して活用するという展開もあったのかもしれない。
帰りに本屋でも寄ろうと思った。
そのためには、部活を長引かせないことが肝心だ。
「サポーターは……やめといた方がいい気がしますけど」
若干脱線しかけた話を本題へ戻す。サポーターに好感触を抱いているようなので、これ以上期待が膨らむ前にやんわりと否定しておく。
流石にショックを受けるほどの愛着が湧いているわけではないらしく、
「何故だい?」
先輩が理由を求めてくる。好奇心に輝く瞳が僕を向いた。
自分の考えが否定される理由を聞くのって、怖くないのだろうか。
「そういう系の職業って、仲間がいないと弱いです」
「おお、直球だね」
「本屋に行きたいのでさっさと終わらせようと思って」
「これまた直球だね……」
先輩が呆れるように苦笑いを浮かべて、お手上げだと言わんばかりに両手を広げる。
降参のポーズに促されて、否定のための説明を続けた。
「文字通り、仲間をサポートする役目ですからね。仲間がいないとバフが活きないし、敵にデバフをかけても倒してくれるアタッカーがいなかったら意味がないです。当然仲間がいるなら別ですけど……右も左も分からない異世界に放り出されてすぐ仲間が出来るなんて、そんな上手くはいかないでしょう。それとも、しばらくは順調に進む前提でいきます?」
肯定も否定も許される対等な立場での議論といえど、議題提供者が先輩なのだから、前提条件の追加も変更も先輩に決定権がある。
ただでさえぶっ飛んでいる議題がこれ以上無茶苦茶にならないよう祈っていると、少し考えた先輩がゆっくりと首を横に振った。
「いや、前提は一人旅にしよう。最終的に仲間を作るにしても、それまでは一人で生きていく必要があるんだから」
素直でまともな裁決に、先輩の本質を垣間見る。
先輩は酔狂な変わり者ではあるけれど、同時に常識人でもあるのだ。フォルムは尖っているが、よく見れば先は丸く研磨されている。
「よし。ではサポーターに関して意見を一つ」
先輩が話を戻す。一人旅というサポーターには辛い環境と相成ったが、先輩にはまだ何か思うところがあるようだ
「自分にバフをかけて、デバフをかけた敵を自分で攻撃すれば、十分強そうに思えるんだが」
先輩の反論、その内容に少し驚く。
ソロプレイで黙々とレベル上げをするサポーターの姿が想起させられるような、とてもゲーム的な発想だと思った。サポーターが一人で敵と対峙するなら必然的に、先輩の述べた戦い方が一番効率的なものとなるだろう。
バフとデバフの利点をきちんと理解している。普段ゲームをやらないのにこういった戦法を思い付けるのは、読書量の賜物かもしれない。
しかし、今僕たちが行っているのは議論だ。利点に着目するのなら、欠点だって見逃してはいけない。
「先輩の好きな作品に登場したバフ・デバフって魔法なんですよね?」
「ああ、魔法だね」
「詠唱とかしてませんでした?」
「していたとも。その呪文の詠唱がまた格好良くて――」
盛り上がる気配を見せた先輩の声が、中途半端に途切れた。
どうやら僕の伝えたいことを察したようだ。
「なるほど」
みっともなく口が開いていたのも一瞬で、先輩の右拳が左の掌をポンと叩く。
「詠唱の時間を稼いでくれる仲間が必要なのか」
「そういうことです」
素早い気付きに頷きを返せば、視線が上がったときには、先輩は関心したような表情で僕を見つめていた。
「ゲームだと常識みたいなものなんですよ。魔法って便利ですから、代わりに明確な欠点が用意されてるというか……強力な効果っていうリターンと、詠唱っていうリスクが釣り合うようになってます。基本的には、ですけど」
僕の鋭い考察からの発見、みたいに扱われてもバツが悪いので、早々に僕の手柄ではないことを説明しておく。
魔法の弱点なんて古今東西決まりきっているものなのだ。ヒーローの変身を待ってくれるような、空気の読める敵が相手なら別だが。
「まあ今の議題はゲームの話じゃないですし、実際の魔法は詠唱が早かったり、もしくは詠唱の必要がなかったりするのかもしれないですけど……」
言ってて思ったが、実際の魔法とはなんだ。何故僕は魔法の話で現実味を語っているのか。
先輩のお遊びに付き合って、順調に脳が溶けてきている。いつものことなので気にしないでおこう。
「詠唱がない……それでも駄目かい?」
先輩が一縷の望みを口にするが、僕の口振りからそれが通りそうにないことは承知の上だろう。
「駄目というか……駄目であるべきというか。それでアタッカーよりダメージが出せたら、アタッカーの立つ瀬がなくなりますから。異世界がサポーターだらけになっちゃいますよ」
どこかが突出しているということは、どこがが凹んでいるということである。
そうやってバランスが保たれている――はずなんだけど、稀にバランスが完全に崩壊している世界がゲームにはあったりする。四人パーティを編成したとして、四人全員同じ職業を選択した方が強かったりするような。
しかもゲームによってはそういう不均衡さが、面白さに変換される場合も往々にしてあるのだからタチが悪い。
「主人公ってバランスを壊すような能力を持ってることが多いですけど、僕たちの議題の転生はそういう感じじゃないですよね?」
異世界に転生した主人公たちは、大抵が特殊なスキルや類稀なる才能に恵まれると聞く。
フィクションなのだから主人公が活躍できるような設定が用意されているのは自然なことに思えるが、最近の作品は、苦労もなくスキルや才能を手に入れた主人公の活躍を、周囲の異世界人が誉めそやすという展開が増えていて、そういう流行りを揶揄する風潮もあるらしい。
その批判は、バランスが壊れることを嫌っているのか、労せず幸せを掴むことが許せないのか、どちらなのだろう。
「そうだね。私たちは物語の主人公じゃないんだから、過剰な力はなしでいこう。あくまでも一般的な身体能力と、その異世界で一般的なスキルを前提としないと、何を選ぼうが匙加減で良し悪しが決まってしまう」
この職業とこのスキルの組み合わせが強い、なんて言い出したらキリがない。
それは先輩も理解しているようで、サポーターが選択肢から外れてしまう前提条件の追加であろうと、反対するつもりはないようだ。
「そうか……サポーター、飛び抜けて便利だと思ったのに」
聞き分けは良かろうと多少の未練はあるらしく、先輩がぼやく。
やっぱり先輩の第一候補はサポーターだったようだ。
「なんか先輩ってサポーター向いてそうですね」
「それは私が、周囲に気を配れる優しい人間って意味かい?」
「いや、人を上手く操るのが得意そうだなって」
サポーターの立ち位置はおそらく中衛か後衛。味方と敵を視界に収めることが出来て、バフとデバフにより自分の好きなタイミングで攻め手を作ることが可能だ。だから指示を出し易く、味方を自在に動かせる。個人的にサポーターは、司令塔にうってつけな性質をしていると思う。
「言い方に何か棘を感じるんだが……」
「頭が良いって意味ですよ」
僕からの誉め言葉はお気に召さないようだ。今だって今までだって、右往左往と何度も動かされてきた人間からの意見なんだから素直に受け取って欲しい。
釈然としない表情を浮かべながらも、先輩は再び僕に背を向けてホワイトボードの前に立つ。
マーカーがキュッキュと二回小気味良い音を鳴らすと、先に書かれていた《サポーター》の文字には容赦なく、大きなバツ印が重ねられていた。
「ところで、サポーターに当て嵌まる職業ってどんなのがあるんだい? 一応、後学のために知っておきたいな」
先輩はそう僕に訊いて、追加で《サポーター》の右隣りに短い横線を書いた。
最初に書いた四つの役職の横に、該当する職業をどんどん書き足していくつもりだったみたいだ。そこから今回の議題の答えを一つ選択する形を取りたかったのだろう。
段取りを狂わせてしまったことに微量の罪悪感を抱きつつ、解消のためにも僕の持ち得る知識を伝えることにする。
「バフ・デバフ中心の魔法使い以外だと……呪術師、エンチャンター、あとは吟遊詩人とか踊り子ですかね」
ゲームでよく見かける職業を――と思ったけど、ゲームでもあんまり見かけないな。サポーター自体が少ないという話を今しがたしたばかりだった。
「呪術師しかピンと来るものがないんだが……」
つまり今挙げた職業たちを目にする機会もそう多くないので、先輩が知らないのも無理はない。
困惑しながらも、《サポーター》の横に四つの職業を書き切る。マーカーの先っぽで、呪いとは無縁そうな綺麗に整った《呪術師》の文字を指す。
「デバフを主体とした職業って認識で合ってるかな? 敵に呪いをかけるみたいな」
「そうですね。デバフ中心の魔法使いってイメージです。大雑把に言っちゃえば、魔力を操るか呪力を操るか程度の違いしかないんじゃないですかね」
魔力も呪力も、現実世界を生きる僕たちからすれば馴染みのないエネルギーだ。無知故かもしれないが、そこに大きな差異は見出せない。
「それはなんとなく分かるが、問題は残りの三つだよ。エンチャンターなんて初めて聞いたし、吟遊詩人と踊り子に至っては、仕事って意味での〝職業〟としか想像出来ない」
新たなゲーム用語の登場に、先輩が頭を抱える。いや、ゲーム用語っぽくないから混乱が生まれているのか。
「エンチャンターは、呪術師とは逆でバフに特化してる感じですね。でも普通のサポーターとは違って、人じゃなくて装備やアイテムに特殊な効果を付与する、エンチャントっていう技を使います。一風変わった魔法使いだと思って貰えれば」
武器に属性を纏わせて、物理攻撃の通らない敵に対しての対抗手段として用いるのが、基本的なエンチャントの使い方だろうか。だが主に近接武器に使うという性質上、エンチャントという技もまた、前衛職が自分自身で習得しているゲームも少なくない。代用が効くなら専門職の必要性が損なわれるというのは、それこそ現実世界の仕事のようだなと思った。バイトすらしたことないけど。
まずはゲームらしさのある横文字の職業についての説明を終える。
だが、問題は残りの二つだ。
「吟遊詩人と踊り子に関しては……ちょっと説明が難しいですね」
「珍しい職業なのかい?」
「珍しいと言えば珍しい気もしますけど……有名なゲームで昔から使われてる職業なので、認知度は高いと思います」
ファイナルファンタジーもドラゴンクエストも遊んだことがない、と以前先輩から聞いたことがある。そういう人にとっては、歌と踊りで戦うなんて不思議で仕方ないのだろう。
ちなみに、これは僕だけじゃないと信じたいんだけど――いくらゲームに慣れ親しんでいる身であろうと、歌と踊りで戦う姿には、時折疑問を覚えたりするものだ。
だからこの二つに関しては、自信満々に解説なんてし辛くてしょうがない。
僕も全てのゲームを網羅しているわけではないから、知識に偏りがあるだろうし。
「吟遊詩人は歌で、踊り子は踊りで仲間を支援するんですけど……納得いきます?」
「いくわけないだろう」
予想通りの反応を頂戴する。先輩は溜息を吐きながらも、今しがた挙げた四つの職業をボードに記入していく。もう選考外の職業だというのに丁寧なことだが、僕はそれに丁寧な説明を返せそうにない。
「そういうものだと思ってもらうしか」
「むむ……ゲーム業界の闇は深いということか」
見当外れな浅い疑いを口走りながら、先輩が思案に耽る。
先輩の頭の中では、剣や魔法で必死に戦う仲間の横で、歌うか踊るかしている陽気な冒険者の姿が浮かんでいるのかもしれない。確かに自分の転生後の姿がそれだとしたら、納得するわけにはいかないだろう。
「まあ魔法とかがある世界なんで、歌と踊りを詠唱の代わりにして魔力を操ってるって考えれば、仲間にバフをかけることが出来てもおかしくない……のかな」
「魔法、便利過ぎないかい?」
「そういうもの、ということで」
きっと便利過ぎるから、魔法と呼ぶのだ。なのでファンタジー世界の不思議現象を全て背負ってもらう。
しかし背負ってもらったところ悪いが、
「でも魔法系は全部、選択肢から外れるでしょうね」
それでも選考外となってしまうのは、便利過ぎるがためか。
さっき話したことと同じだ。どこかが突出しているということは、どこがが凹んでいる。
クソゲーならともかく、バランスの保たれた世界が前提なら、便利さを揺るがす何かがそこには存在して然るべきだ。
先輩もそれは既に理解しているようだった。
「詠唱がネックになってくるわけか」
「はい」
僕の返事に、先輩が頷きを返してボードを向く。
これには特に反論はないらしく、先輩が板書(ホワイトボードでも板書と言うのか?)を再開する。《サポーター》に書いたのと寸分違わぬ大きさの二本線が《ヒーラー》を交差して貫いた。
《ヒーラー》の回復手段は、基本的には魔法によるものだろう。仲間がいなければ能力は最大限に活かせず、魔法だから詠唱による隙がある。ここまでの会話で述べた弱点がしっかりと当て嵌まっているんだから、満場一致でバツだ。
続けて先輩は、《アタッカー》の横に線を引いて《魔法使い》と書いた。おそらく、散々語ったバフ・デバフを主体とした魔法使いのことではなく、炎や雷で敵を攻撃するような正統派タイプの魔法使いを示している。
《魔法使い》にもバツを付けるために先輩の右手が伸びて――寸前で止まった。
「攻撃に特化した魔法使いはどうなる?」
振り返らずにボードをじっと見据えたまま、先輩が確認を求めてくる。マーカーを持った右手が手持ち無沙汰を解消するように動きを再開して、《魔法使い》のすぐ右上に小さく《攻》の文字が書かれた。
便利さの代償として、詠唱という制約がある。
それはつまり、見方を変えて逆から辿れば、詠唱という制約があるなら、それに見合うだけの対価が存在するということだ。
支援魔法で火力を出すには仲間が必要であると仮定したが、攻撃魔法の威力に仲間の有無は関係ない。むしろ制約がある分、アタッカーよりも火力はあるはずだ、と先輩は言いたいのだろう。
「駄目だと思います」
申し訳ないが先輩の考えを一蹴する。さっきから否定してばかりで心苦しい気持ちはあるが、先輩は僕に気遣いなんてものを求めない。他人の意見をこれでもかと真正面から受け止めようとする人だ。
それは他人の意見を尊重するという意味ではなく。それこそ他人に気を遣うという意味でもなく。
例えば文芸部の活動で、先輩が絶賛する小説を、薦められて読む機会が少なからずある。
そういうとき、読み終えて『面白かった』と感想を伝えれば当然先輩は喜ぶのだけど、『つまらなかった』と言ったときの方が先輩は目を輝かせるのだ。
自分と他人の相違を恐れず味わえる。そんな才能を先輩は持っている。
レビューサイトとかを楽しめそうな人だなと思う。僕は自分が面白いと感じたものが扱き下ろされているとムカつくので、他人のレビューなんて極力目にしたくない。
「結局は火力云々より、詠唱に隙があるっていうのが一番の問題ですからね。一度でも敵に近付かれたら詠唱する暇なくやられそうですし、仲間がいないとやっぱり危険ですよ。……僕は好きなんですけどね、魔法使い」
結局は詠唱の有無に帰結する。個人的には好みな職業だが、異世界を一人で生き抜くことを考えると、敵の接近を許しただけで不利に陥ってしまう職業を選ぶ気にはなれない。
「君が魔法使い……うん、向いてそうだ」
先輩が値踏みするように僕を見て、評価を下す。先程の意趣返しだとすれば、棘のある言葉を頂戴することになる。
「……その心は」
「頭が良さそうだから」
人差し指で頭をとんとんする人間を、フィクション以外で初めて目撃する。余裕のある微笑みがその動作を堂に入ったものに見せて、不思議と苛立ちを感じさせない。
「良さそう、って……中途半端な評価ですね」
「断言出来るほどに、君のことを知っているわけではないからね。『先輩に振り回されるだけのただの後輩です』という顔をしているが、君は、君が思う以上に謎の多い後輩だよ?」
困ったように笑うその表情は大人びていて、悔しいが少し先輩らしさを感じてしまう。だが振り回している自覚があったのなら、先輩らしくもっと後輩を労わって欲しい。
先輩は僕のことを謎が多いと形容したが、自分のことをなんでも明け透けに話す先輩に比べたら、誰だって謎多き人物になってしまうというだけではないだろうか。
「誉め言葉として受け取っておきます」
普段のやり取りでは主導権を握られることが多いが、掌の上で転がされているわけでもないと知って、先輩に対抗する武器を手に入れたような気持ちになった。
矮小な喜びを悟られないよう、話を戻す。
「それで話の続きですけど、魔法って使える回数に限りがあったりするから、それも選び辛い要員の一つですよね」
「ああ、確かにあるね。あれはゲームでも当たり前なのかい?」
「ほとんどのゲームはありますね。マジックポイントっていう数値が決められてて、それがなくなると魔法が使えなくなります。小説だと……魔力が尽きるとか、マナが枯れるとか、そういう表現の仕方になってるんじゃないですか?」
僕が読んだ小説では、空気中のマナが云々、と描写されていた覚えがある。キャラに限界が設定されているのではなく、場所と状況によって限界が変わるパターンだ。
個人的には、《魔力》よりも《マナ》という響きの方が好きだったりする。意味も使われ方もあまり大差ないだろうけど、前者よりもなんだか神秘的に思える。
作者が考えた造語とかも格好いいけれど、しっくりと来ない響きだった場合、もやもやとした想いが旅の終わりまで続くのだから考え物だ。
僕の行く異世界が、綺麗な響きを宿していることを祈る。
いやまあ、行かないんだけど。
「なるほど……そこはゲームも小説も一緒なんだね。それが一般的な設定だと言うなら、連続使用には限りがある前提で話を進めた方が良さそうだ。……しかしそう考えると、魔法職はとことん一人旅に向いてないね」
「そうなんですよね……」
先輩の出した結論に、思わず溜息交じりな感慨深い声が漏れてしまった。
職業を自分で選択するタイプのゲームをした際、他の職業に比べて弱過ぎるとか、何か致命的なバグがあるとか、そういう余程の要因がなければ、僕は大抵の場合魔法職を選ぶ。
理由は、格好良いから。楽しいから。せっかくのゲームなんだから現実では在り得ない戦い方をしたいから。そんなところだ。
攻撃は派手だし、チームで戦えば強いし、人気な職業の一つだと思う。
しかしこと育成に関しては、苦労しがちで難易度が高くなってしまう場合が多く、そのせいで魔法職全般を敬遠する者も一定数いるだろう。
何故難易度が高くなるのか……それは序盤のレベル上げが、他の職業より辛いからだ。
一人用のロールプレイングゲームなら、物語が進んで仲間が加入するまでは一人で行動することになる。オンラインゲームなら、友達を誘って同時に始めでもしない限り、しばらくは一人でプレイすることを余儀なくされるだろう。
つまり、詠唱の隙を埋めることが出来ない。前衛がいて初めて真価を発揮するというのに、序盤ではそれも望めない。
そこへ更に、マジックポイントという制限が追い打ちを掛ける。
レベルが上がっていない状態の初期値のマジックポイントでは、仮に魔法を心置きなく連発出来る状況――敵の攻撃が届かない安全地帯から一方的に撃つとか――を確保したとしても、すぐにガス欠が起きてしまう可能性がある。マジックポイントの回復手段は時間による自然回復かアイテムを使用することだが、ゲームスタートしたばかりで回復アイテムが十分に揃っているはずもなく、購入するための資金もない。
そうなると節約のために杖で殴ったりするのだけれど、魔法職故に物理的な攻撃力は弱く、ついでに体力も防御力も低い。敵の攻撃を少しでも喰らえば痛手になり、その痛手を回復するためのアイテムが必要になる。
大器晩成と言えば聞こえはいいが、大器になるには手間が掛かり、時間が掛かり、金が掛かる。
そんな、過去に育てた魔法使いたちの二重苦三重苦を思い出しての溜息だったが、先輩はホワイトボードに集中していて気付かなかったようだ。お陰で話が逸れてしまうことはなさそうだ。
「サポーターとヒーラー、アタッカーとしての魔法使い……この辺りが軒並み駄目となると、もう前衛職しか残ってないじゃないか」
頬を膨らませた先輩の手で、《魔法使い》に今度こそバツが描かれる。
残ったのは《魔法使い》を除いた《アタッカー》と、今のところ一切触れられていない《タンク》。この二種の中から、職業を選別することになりそうだ。
「一応アタッカーに、狩人――弓使いとかありますけどね」
選択肢にもう一つの遠距離アタッカーを加えておいた。けれどここまでの流れ的に、良い評価を得られそうにない。
先輩が顎に手をやり考え込む。
「弓か……これまた、敵の接近を許してはいけない職業だね」
「ですね。魔法職よりはマシだと思いますけど」
弓を構えて撃つまでの動作を詠唱と捉えるなら、魔法よりかは隙がなさそうに思える。俊敏に動けるイメージもあるので、敵にある程度近付かれても魔法職よりは臨機応変に対応出来そうだ。
「でも弓って難しそうですよね」
そもそも、弓ってちゃんと当てられるのだろうか。ゲームでは命中率が高い職業として設定されていることが多い気がするが、遠くの動く的に矢を当てるというのは至難の業としか思えない。命中率を上げるための一番簡単な方法は的に近付くことだが、それでは遠距離攻撃の長所を潰してしまう。
弓だけでなく、魔法もそうだ。ゲームでも、なんとなく絶対命中するものとして扱われていることが多いけど、実際には当てる技術というものが必要になるのかもしれない。
「弓道なら習い事で少し触ったことはあるが……あれは止まった的にすら中々当てられないからね。的に模様があるせいで真ん中に当てれば高得点という先入観があると思うけれど、プロの試合でもない限りは、的のどこに当てても得点に差はない。つまり、それだけ当てるのが難しいってことなんだよ」
左手にマーカーを握り込んだ先輩が足を大きく開き、僕に向けて弓を構える動作を取る。流麗な動きは確かに経験を感じさせて、弦に引っ張られて力強くたわむ弓が見えるかのようだった。
この学校にも弓道部はあったはずだが、先輩は現在こうして文芸部の部長をしている。弓道にはあまり熱中出来なかったのだろうか。先輩はかなり良いとこのお嬢様なので、色々な習い事を広く浅くやらされたのかもしれない。
先輩が矢と弦を掴んでいるはずの右手を離す。残心ぐらいしか専門用語を知らない僕には、射た後の動作が正しいものかは分からない。ただ先輩のことだから、想像の中の矢は僕をしっかり貫いているんだろうなと思った。習い事の先生は、人を射るなとは教え忘れたらしい。
「じゃあ素人には尚更向いてない、と」
「そうなるね」
残心を解いた先輩がマーカーを右手に持ち替えて、《魔法使い》の横に《弓使い》と書いた。当然、バツと一緒に。
弓は扱いが難しいという結論に相成ったが、戦闘の素人である僕たちにとっては、近接武器の扱いだって容易ではないに決まっている。だがこの議論は、何がマシか、という話だ。
例えば異世界に降り立って最初に戦うモンスターが、動きが鈍く、さして攻撃性もない、ゲームの最序盤でお馴染みのスライムだったとしよう。そんな初心者用モンスターが相手でも、止まっている的に当てるのすら難しいという経験者の声を考慮すれば、素人の弓ではまともに攻撃を与えることも出来ないということになる。
対して剣や槍などの近接武器なら、当てることは可能に思える。剣も槍も当然触った経験はなく、腰の入った斬撃なんかを繰り出せる気はしないけれど、幼い頃に木の棒を伝説の剣に見立てて遊んだことはあるし、体育の授業でバットを振った経験もある。弓を引くという特殊な動作に比べれば、大半の人間にとっては、細長い物を振るという動作の方が馴染み深いのではないだろうか。
先輩なら弓道だけでなく、剣道や薙刀なんかも心得がありそうだ。スライムなんて一振りで両断してしまうかもしれない。
「となると残るは、魔法使いと弓使い以外のアタッカーと、タンクか……。剣士、槍使い、斧使い……武闘家、とかかな?」
先輩が呟きながら、《弓使い》の後ろに続々と職業を書き足していく。
素早いマーカー捌きに、発言が遅れてしまう。この速度で何故、原稿用紙のマス目が見えているかのような、均等で美しい字を書けるのか不思議でならない。
「あー、武器を使う系は纏めてもいいんじゃないですかね、《戦士》とかで。武闘家は……ちょっと別物な気がしますけど」
「ふむ……《剣士》と《戦士》は確かに、小説でも一緒に登場することはない気がするね。素人がどの武器を使ってもあまり変わらないだろうし、その案でいこうか」
僕へ振り返った先輩は既に《武闘家》まで書き切ってしまっていたが、同意を示してくれるようだ。《剣士》、《槍使い》、《斧使い》を一つの楕円で囲って、上へと線を引っ張る。ホワイトボードの上辺ギリギリに、《戦士》の二文字が書かれた。
どの職業も近接職としての役目はほぼ一緒だし、これでいいと思う。攻撃力やリーチ、扱い易さに差があるのは分かるが、無数に存在する武器を一つ一つ、素人知識で語り合っても埒が明かない。
ゲームでは、ボールやブーメランやけん玉が武器扱いされることもあるのだ。全部を精査していたら、泥沼に嵌るだろう。
「武闘家が別物っていうのは、悪い意味で?」
先輩がマーカーを構えながら聞いてくる。僕の言いたいことは既に察しているようだった。
「素手とか無理でしょう」
「あっはっは。それはそうだ」
快活な笑い声を部室に響かせて、先輩は躊躇いなく《武闘家》にバツを重ねた。
武器を持たずに素手で戦う姿というのは、これまたゲーム経験者なら誰もが一度は思うことだと信じたいのだが、『剣とか使った方がいいんじゃないか?』と疑問を感じてしまうのだ。
厳密には何も装備していないわけではなく、手甲や鉤爪なんかを両拳に装着していたりもするけれど、それでも剣の方が扱い易くて威力も出るんじゃないかと、素人目線ながら邪推してしまう。
ゲームで武闘家は、手数が多いとか素早いとか、そういう風に長所が主張されていることが多い。だけど剣道三倍段という言葉もあるように、普通ならば剣と拳では戦闘力にかなりの差が生まれるはずだ。三段分の差を埋めるだけの長所があるとは流石に思えない。……まあゲームなのだから、差は埋められているものなのだけど。
気分の問題とも言える。異世界のモンスターに拳で殴り掛かる自分が、想像出来ないのだ。
つまり結論はこうなる。
「では異世界に転生したら戦士を選ぶべきということで」
「決定! ――っていやいや、タンクが触れられてすらいないんだが」
バレてしまった。しかし一瞬でも騙せたということは、先輩の中でも戦士が最適解として有力なのだろう。
「言いそびれてましたけど、タンクもサポート職みたいなものなんで……」
仲間のために敵を引き付け、耐え忍ぶ。そうやって自身を犠牲に出来るのは、仲間が敵を倒してくれると信じているからだ。
仲間がいないという前提では、信頼は意味を成さず真価を発揮しない。
「それにタンクって職業的には戦士だと思いますよ。布や革じゃない金属の鎧を着込んでて、大きめの盾を持ってる戦士。軽装備か重装備かの違いしかなさそうですけどね」
あえて職業を区別するなら、《騎士》だろうか。でもその響きには、板金鎧を装備しているイメージは湧くけれど、盾を装備しているかは五分五分といったところだ。両手で大きめの剣を構えているイメージもあるし、漢字にも含まれているように、馬に乗っているイメージもある。どちらかというと攻撃に比重を置いた職業のように、僕は感じてしまう。
個人的には《聖騎士》と言われれば、盾を持ったタンクを想像する。《聖》の文字が頭に付いただけでイメージが守護や回復に寄ってしまうのは、どのゲームの影響だろうか。
むくれた先輩が、疑いを口にする。
「君、早く終わらせようとしてないかい?」
「もう五時になるんで」
スマホの画面を先輩に見せた。四つの数字が、後五分で下校のチャイムが鳴ることを先輩に伝える。
いつの間にか窓からは夕陽が射し込んでいて、ホワイトボードや先輩の白い肌を、橙色に染め上げている。外からは未だに運動部の声が聞こえてくるが、カラスの鳴き声も混じるせいか、活気よりも寂寥を強く感じた。
仮にも部活動中なのだから、チャイムが鳴ったからといってすぐに帰らなければいけないわけじゃないが、終わりを意識するには良い頃合いだと思う。
「むむむ……結論は戦士か……。タンク、漢らしくて格好良いから、せめて掘り下げてあげたかったが」
残念そうにしながらも、先輩の右手はしっかりと働く。《タンク》から伸びた横線の先に《戦士》、その後ろに丸括弧で囲った《盾》の字を小さく書いた。そしてもちろん、選ばれなかったことを示すバツを付ける。
「僕もタンクは好きですよ。パーティ組むなら絶対欲しいです」
何も恨みがあってタンクの議論を省略したわけではない。むしろ魔法使いをよくプレイする身としては、後衛を守ってくれるタンクの存在には感謝するばかりである。
その仕事がパーティにもたらす恩恵は地味ではないが、一目見て分かる派手さもないため脚光を浴び辛い。だけど、それを知りながらもタンクをこなしてくれる人たちがいるから、後衛の僕たちは伸び伸びとプレイ出来るのだ。
議題が『異世界に転生したらどういうパーティ編成にする?』だったら、タンクは絶対に選んでいた。省略なんてとんでもない。タンクの重要度とありがたみを懇切丁寧に説く展開になっていただろう。
先輩も似た様なことを思い付いたのか、パンと手を叩いて楽しそうに言った。
「そうだ、最後にもう一つ。一人で転生なら戦士という結論に至ったけれど」
先輩が話を切り出しながら、《結論:戦士》と右下の空いたスペースにでかでかと書き殴り、おまけで下線を二本引いて強調する。手の勢いと字の大きさの割には、達筆具合を欠片も失っていないのが面白い。
「私とパーティを組むとしたら、どの職業にする?」
先輩が長机に両手を付いて、前傾姿勢で新たな議題を追加する。
さっき時刻について話したのをもう忘れたのかと呆れそうになったが、先輩は鳥頭の馬鹿ではないし、定時退社を許さないようなパワハラ上司でもない。
考察なども要らず、ある程度適当な答えでいいということだろう。
「先輩とパーティって、二人だけですか?」
「そう。一緒に異世界に転生して、少なくとも仲間が加入するまでは二人きりだね」
「一緒に転生とか偶然過ぎませんか」
「一緒にトラックに轢かれて、一緒に暴漢のナイフに刺されれば、一緒に転生することぐらいあるさ」
「いやいや」
あまりにも都合良く事が進み過ぎているように思えるが、最近の作品はそのぐらい普通なのだろうか。というか先輩の今の言い方だと、トラックに轢かれた後で更にナイフで刺されるかのように聞こえる。それだけ体を張れば、人生都合良くいくのだという先輩の教えかもしれなかった。
「君はやっぱり攻撃型の魔法使いかい?」
先程までの議論の内容を踏まえて、先輩が僕の選択を予測する。
僕の好みだけで答えるならそうなるが、この議題は先輩の好みも考慮しなければいけない。
「二人だけだったら迷いますね。先輩はサポート型の魔法使いでしょう?」
仲間がいる環境なら、先輩の大好きなサポーターが活かせる。二人だけだと少々効果が薄いかもしれないが、なしではないはずだ。
「勿論! ……と言いたいところだけれど、それでは前衛がいなくなってしまう。君が魔法使いをやるなら、私はタンクにしようかな」
先輩が後衛を譲ってくれる。タンクも好きだと言っていたから、前衛になっても特に不満はないだろうが……僕だってタンクは好きだし、何より先輩に前衛をやらせるわけにはいかない。
「それなら僕がやりますよ、タンク」
タンクの経験はほとんどないが、後ろからその背中を眺めていた時間は長い。勝手は分かると思うし、この前提で異世界に転生する場合の最優先事項を全うするには、タンクの方が適している。
「先輩を守るなら、タンクの方がやり易そうです」
「む。もしかして女の子を守るのは男の役目だとか、なんとも前時代的なことを考えていないかい? こう見えても私は弓道以外にも様々な武道の経験があるんだ。ゲームばかりしている君よりは動ける自信が――」
先輩としての矜持が傷付けられたのか、僕の発言に対しての憤りをがみがみと捲し立てる。
やはり弓道の他にも習い事をしていたようだ。まあ習い事云々を別としても、僕がゲームばかりで運動不足なのは事実で、対して先輩はスポーツ万能だと風の噂で聞いたことがある。大きくも太くもない僕の未成熟な身体では、取っ組み合いの喧嘩も勝てるか怪しい。
だけど、そんなものは関係ない。
「好きな女の子を守るのは、男として当然でしょう」
いつまでも続きそうな文句に割り込んで言えば、僕を手助けするようにチャイムが鳴った。
ぼんやりとしつつも重厚な音の波が場を支配して、先輩の口が開いたまま動きを止める。
三十秒程してようやく、余韻も含めてチャイムの響きが消える。
先輩はその間、ずっと黙っていた。珍しいことに、いつもは真っ直ぐな視線を送る瞳が、顔ごと僕から逸らされている。窓の外を眺めるにしては中途半端な視線のやり場に、目的を見出せない。真意を汲み取ろうと観察してみると、口元が何かを言いたそうに、開いては閉じを繰り返しているのが分かる。
少しだけれど、時間が進んだからだろうか。夕陽の赤みが増している気がした。
「先輩?」
呼び掛けてみる。発言に対してなんの反応もないのでは、議論が終わらない。
僕がタンクの戦士で、先輩がサポーターの魔法使い。で決定か?
「君は、本っ当にもう……」
ようやく先輩が反応を見せる。頭に手を当ててかぶりを振って、溜息のような長い長い息を吐いた。
「君は、僕っていう一人称と、女の子みたいな可愛い顔をやめた方がいいと思う」
「はい?」
先輩が絞り出すように発した言葉は、議題とはなんら関係のない、僕への無茶苦茶な要求だった。
「言動と性格と外見が合ってなさ過ぎる! 前に告白されたときも思ったが、よくもまあ平然とした顔で好きとか言えたなっ!」
長机を両手で叩いて、廊下にも届きそうな声量で先輩が喚き散らす。肩がわなわなと震えている様子に、武道の嗜みがあるという情報が脳裏をよぎって少し身を引く。パイプ椅子の背もたれに、逃げるなと囁かれた気がした。
「そりゃあ好きなんだから言いますよ……というか、一人称はともかくとして、顔はどうしようもないでしょうが。それなりにコンプレックス感じてるんで、あまり触れないで下さいよ」
先輩の言葉に、思いの外心を抉られる。
男らしくない外見にコンプレックスを感じてるというのは嘘ではないが、実はそこまで気にしていなかったりする。女の子に見えるということは、それなりに整った顔立ちをしているのだと密かに自信に繋がっていたりするからだ。しかし、それが先輩の好みの顔とは違うというなら、捨て置けるはずもない大問題である。
「う……そ、それは確かに、配慮に欠けていた。すまない」
怒気もどこへやら、勢いを失った先輩が謝罪を述べる。
人との違いを愛する先輩だが、人として間違っていることを許せないのもまた先輩だ。
自分の行いには特に厳しく、もうちょっと楽にしていいのでは、とたまに心配になるが、そういう生真面目なところが好きになった要因でもあるのだから、変わってしまうのももったいない。
「私は君の顔、す、……き、嫌いではないぞ」
「じゃあそろそろ付き合ってくれます?」
「何が『じゃあ』だ! 草食獣に擬態した肉食系男子めっ!」
なんとなく良い雰囲気だと思ったので流されてくれるかと期待したが、駄目らしい。しかし僕の顔が先輩にとってマイナスポイントではないと分かっただけでも良しとしよう。ただのお世辞でないことを祈る。
「まったく……私には婚約者がいるから君とは付き合えない、と伝えただろうに」
先輩がホワイトボードを押して、部室の角へと追いやる。五時も過ぎたことだし、今日の部活動はここまでのようだ。
「婚約者とかそれこそ前時代的過ぎます。古いですよ」
「そんなの皆分かってるさ。だから、婚約みたいな古臭い慣わしは廃止しようって派閥も最近は多くてね。案外、結婚せずに済みそうではある」
「なら付き合ってくれてもいいじゃないですか」
「良くない。将来どうなるかはさておき、今は絶賛婚約中の身なんだ。他の誰かと交際なんてしたら、浮気になってしまう」
生真面目な先輩が、生真面目なことを言った。思わず苦笑してしまって、怒られるかなと先輩を見ると、僕と同じ様な笑みを浮かべていた。
長机の上に放置したままだった読みかけの小説を、先輩が部室の本棚へ仕舞う。
本棚に並ぶのはほとんどが先輩の私物で、ライトノベル系統ばかりだ。こういう本を読んでいるのが家族に見つかるとお小言を頂戴するらしく、家には持って帰れないのだとか。
「ほら、帰ろう。書店に行きたいんだろう?」
先輩が学校指定のバッグと、部室の鍵を持つ。戸締りをした後、鍵は職員室に返さないといけない。僕も読んでいた小説を本棚に置かせてもらって、おそらく先輩のより軽いであろうスカスカのバッグを担いだ。
「一緒に来てくれるんですか?」
「そうは言ってないんだが……まあ、別に構わないよ」
全然狙ったわけでもないのに、僥倖にも放課後書店デートの約束を取り付けることに成功する。『デートですね』とか言って揶揄いたいのは山々だが、先輩にとっては浮気に該当する、人として間違った行為だ。やっぱやめるとか言われても僕が損をするだけなので黙っておこう。
一緒に鍵を返し終えて校舎を出れば、運動部の掛け声が目立って聞こえた。窓ガラス越しではくぐもった音も、ひらけた正門前でははっきりと輪郭を得る。夕陽もカラスの鳴き声も変わらずそこにあるのに、今度は寂寥よりも活気を感じる。
音がどうこうよりも、浮かれた気分の問題な気もするが。
先輩と並んで、下らない会話を交わしながら駅前の大きな書店へ向かう。
途中、街を歩いていれば当然車が目に入る。数え切れない台数が僕らの横を、法定速度を遵守して事故なく通り過ぎて行く。
「そういえば、トラックに轢かれたら異世界に行けるんでしたっけ」
「おいおい。縁起でもないことは言わないでくれ」
会話の方向性に先輩が難色を示す。
「先輩が言ったんじゃないですか」
「あれは安全な室内だからいいんだ。往来で言われると想像してしまって、流石に怖いよ」
先輩がわざとらしく身震いしてみせる。そうしている間にも車はどんどん行き交って、僕たちを置き去りにしていく。
「トラックに轢かれれば絶対に異世界に行けるっていう前提なら、もし今トラックが突っ込んで来たら、先輩はどうします?」
僕の質問に、先輩が驚いた顔を見せる。
それは縁起でもない会話を方向修正しなかったことにではなく、別のことに対しての驚きだと一目で分かった。
「……君は、私がトラックを避けないと思ってるのかい?」
「……異世界、行きたそうだなって」
僕の返答に、先輩が顎に手を当てて考え込む。目の前の横断歩道の信号が赤に変わって、危ないと思ったけれど、警告するまでもなく先輩が足を止める。
ちゃんと周りが見えている。そこまで動揺していないのは、自覚があったからかもしれない。
「異世界……あぁ、うん……確かに、そうか……」
うわ言のように先輩が呟く。人と喋っているのに自分の世界に入り込んでしまうのは、先輩にしては珍しい。
車道の信号機に目をやれば、まだ青いままだった。車の交通量が多い場所なので、歩道の信号が切り替わるにはまだかかりそうだ。
「無人島とか、異世界とか、そういう現実味のない話をしてたんで」
珍しいとは思っていたのだ。議論をすること自体は先輩の気まぐれによって往々にしてあるが、ここまで現実味のない、本当に正しい答えというものが曖昧で不明瞭な議題は、先輩の好みではないと。
だから、何か家とかで嫌なことがあって、現実逃避しているんだと思った。
厳しい家庭なのだから門限もあるだろうに、こうして僕に付き合っているのも、そういうことなんじゃないかと勘繰ってしまう。
もしかしたら文芸部のあの部室も、先輩にとっては心安らぐ異世界なのかもしれない。
先輩も当然分かっている。
異世界なんてない。
魔法なんてない。
魔物はいないし、勇者もいない。
トラックは突っ込んで来ないし、ナイフを振り回す暴漢なんていない。
……最後の二つは、なくはないか。まあそれは置いといて。
僕たちは、転生なんかしないのだ。
先輩が顔を上げる。
「恥ずかしいな……後輩にそんな風に思われていたなんて」
乾いた笑いが先輩から零れる。夕焼けに濡れた景色に物憂げな笑顔が似合っていて、なんだか嫌だなと思った。
先輩は強いから、笑って我慢が出来る。どこまでも生真面目で面倒くさい人だから、都合の良い前提があったって、周りに迷惑が掛かる選択は選ばない。
そんなところが愛くるしいと思う反面、個人的にはあまり好きではない。
「心配しないでくれ。現実と妄想の区別ぐらいつくし、自ら死を選ぶなんて――」
「あー、いや、そうじゃなくて」
先輩の話を遮る。そういうことを語りたいわけじゃないし、そんなのどうだっていい。
本当なら、悩み事を聞いてあげたり、慰めの言葉を掛けてあげるべき場面なんだろうけど、僕はそこまで器用じゃない。
部活動の最中なら〝部長〟に従い〝部員〟を全うするが、それ以外は歳が一つ違うだけの、ただの高校生同士だ。タメ口を利かなければそれでいい。
言いたいことを言うだけだ。
「トラックが突っ込んできて、先輩が避けなくても、まあいいんです」
「えぇ……」
先輩があからさまに引く。もしかしたら、先輩想いの優しい後輩を少しは期待していたのかもしれない。
「僕が勝手に、先輩が死なないように守りますから」
先輩の気持ちも行動も、僕には関係ない。僕がそうしたいから、そうする。
勉強や運動、その他のあらゆる面で僕に勝る先輩に、唯一見習って欲しい考え方だ。
車の動きがいつの間にか停滞していて、見上げると車道の信号機が赤に変わっていた。もう間もなく、僕たちの待つ信号機も、進んでいいよと色を変えるだろう。
「転生したくてもさせませんよって話です。ごめんなさい」
心にもない謝罪をして前を向くと、青色の許可が下りたので歩き出そうとした。けれど先輩は呆然と僕を見るばかりで、足を動かそうとしない。
「なん、で……そこまで?」
辛うじてといった具合で発した声は、車のエンジン音どころか、信号機が奏でるメロディにすら掻き消されそうだ。
本当に不思議そうになんでと問われても困ってしまう。好きだから以外にあるのだろうか。
横断歩道の途中で止まるわけにはいかない。歩き出す前に考えて、あ、と丁度良い理由を直近の記憶から見つける。
「二人で一緒にいるときは、僕の役目はタンクだってさっき決まったんで。だから幾らでも、転生したいなら死にたいと思っていいし、周囲から反感を買うような愚痴を言ってもいいし、子供みたいに泣いてもいいです。いつでも傍で守りますよ」
後半はタンクの仕事とは関係ない気もするが、生意気ながら後輩の見解を述べるとすれば、先輩はそういうストレスの発散を覚えた方がいい。
我慢して現実逃避するぐらいなら、現実の僕にぶつかってきて欲しい。
「ほら、行きますよ」
先輩の手を取って引っ張る。信号が赤に変わる前に横断歩道を渡り切りたかった。なので、手を繋ぎたかったなんてやましい気持ちは一切ない。全然ない。
「……っ」
歩き出せば、先輩から声が漏れた。
繋いだ手が震えていて、一瞬泣いたのかと思ったけども、
「くふっ」
どうやら吹き出しただけのようだった。
「くは、あっはっはっはははは!」
堪え切れなかったようで、先輩が豪快に、壮快に、痛快に笑う。ピヨピヨと間抜けなメロディを奏でる信号機の音を、掻き消してしまいそうなほどだった。
夕焼けと、横断歩道と、手を繋ぐ男女。
ノスタルジックな雰囲気に、大口を開けた笑い方はとてもじゃないが似合っていないけど、こっちの方がいいなと思った。
「泣くの期待したんですけど」
「泣いてるさ。ほら、涙」
早足で隣に並んだ先輩が、空いている手の人差し指で目尻を下げて、僕に顔を向ける。夕陽を受けた目元が一瞬だけ煌めいて、確かに濡れていることを証明するが、僕が想像していた涙ではない。
「君の望む泣き方は、これからの君の仕事っぷり次第かな」
先輩が僕を追い抜く。前衛と後衛が入れ替わってしまう。
「トラックからもナイフからも、守ってみせますよ」
大股歩きで、先輩を追い抜き返した。正しい立ち位置で、仕事の出来る男をアピールする。
「前に出たからといってトラックは防げないし、君の細腕じゃナイフも怪しいんだが……」
「……そこはサポーターにカバーして貰うということで」
「急に頼りないな……」
先輩が怪訝な目線を僕に送る。気付かないふりをして、堂々と先輩の前を歩く。
緩んだ口元を見られたくなかった。口角が上がって、せっかく嫌いじゃないと言ってくれた顔が、だらしのないものに変わってしまう。
二人で一緒にいるという前提を、先輩は否定しない。手の温もりが、それを証明してくれている。
その事実だけで、どんな攻撃にも耐えられそうな気がした。
転生と前提で韻を踏んだ。ただそれだけ。
読んでくださり感謝。