第1話 刃と琴弾き
憧れたか? 世界に名を馳せる他人の才能に。
思ったか? お前もそのようになれるはずだと。
このざまは何だ? お前はどこにいる?
それがなりたかったお前か?
お前は何も為さない。ただ人の群れに溶け込み、仲間が出来たように錯覚しただけだ。
誰もお前を見ていない。お前の身に着ける宝石しか見ていないのだ。そしてそれすらも、一度泥が付けば石ころ同然だ。
お前は誰からも必要とされない。お前はこの世から消えても差し支えない。
だからお前も期待するな。
甘美なる夢を。
生きる希望を。
墓参からの帰り道、空虚な時間。
もはや悲しみはなく、ただただ真っ白な時間の中を、彼は歩いていた。昼間だというのに風は冷たく、辺りに人影はいなかった。
何も考えない。という事すら考えない。彼は時々どうしようもなく、そうしようと意識する。
少し遅めな両脚の調子に、ひたすら潜り込んでいく感覚。そのまま沈み込んで、自分が消えていく錯覚に陥る。
このまま溶けて、モノになってしまえばよい。そんな福音が、もうすぐそこまできて――
それを妨げる音があることに気が付いた。
「こんなときに、何だ」
この墓所へ続いた道は、本来は孤独の道であるはずだった。彼は、そこに介在する何者かを忌々しく思った。
「言の葉に琴の音を重ねております」
澱み無き声が応う。見るとそこには、異国の琴を爪弾く女の姿があった。続けて、
「虚しさは、深き穴より出づるかな」
もの悲しき詩を縁取るように、琴を掻き鳴らす。弾き手の女は、彼と目を合わせようとしなかった。
琴の音が終わる頃、一陣の風が吹き抜けた。その後には、しばしの沈黙が残された。
「寒くはないのか」
「かく問う心は、氷故なり」
その言葉を聞いて、彼は久々に笑った。楽しくて笑ったのではない。だからこそ自分がそれに気づいた時、彼は身に着けている中で一番高価な指輪を、この女に投げやることを思いついた。
「また明日、ここに来い」
そして返事も聞かず、その場を後にした。
帰宅した彼を迎えたのは、一匹の犬だけだった。飼い主に似て大柄で、毛に艶はなく、黒くて汚い犬のみ。
彼はこの犬にすら、嫌われていた。食い物の匂いがないと分かれば、主の帰還に耳一つ動かすこともない。襤褸雑巾のように家を汚し、死んだように寝たふりを続けていた。
彼はその同居者に一瞥だけやると、自分もまた寝たふりをするのであった。
夜になった。
空っぽの胃が燃え、その熱と光によって彼は目覚めた。
生きる気力もないのに、腹だけは空く。生命の警鐘は心の平穏を乱す。彼はこの雑音が世界で一番嫌いだった。それを消すことだけが、彼にとっての生である。よろよろと立ち上がると、お守りのように持ち歩いていた短剣の、刃をゆっくり抜き放つ。
それは月の光をあらぬ方向に弾いていた。
夜だというのに妙に明るく、しかし人影はいなかった。燃える痛みに背中を押されるように、彼は森へ足を運んだ。
「見せかけの森」と、人々は呼ぶ。
もともと砂漠だった土地一帯に、木を植えた人がいたのだ。良かれと思って植えた善意が、見る見るうちに大きく育ち、やがて天に届こうかと言う頃、もはやその足元には光は届かなくなっていた。暗く静かな、死んだ世界である。そうした場所にはまず、心を亡くした存在が集まるものだ。身体が死を待つばかりの、あるいは既に死んだ者だけが、この森の賑わいとなる。
それでも彼らは、最後の最後まで生に執着するものらしい。木々に実った彼の同胞は、その身に生きたかった多くの思いを秘めている。そしてそれ故に、彼は糊口をしのぐことが出来るのであった。
それにしても、今日は一段と果実が多い。普段なら少し探さねば見つからぬ程の数なのに、その三倍はあろうかと疑うほどである。彼はふと悪い予感がした。何かとても良くないことが、この平穏な生活を脅かしそうな予感が。遠くにうっすら明るい光が輝くのが見えてきた時、彼はそれを確信に落とし込んだ。
光のもとに近づいていくと、そこには五人の男たちがいた。まるでこの世に自分たちしかいないとでも思っているかのように、浅ましくも大声で笑っている。そのほとんど怒声に近い笑い声に交じって、若い女の悲痛な叫びが辺りに響いていた。
わざわざ、殺しているのだ。放っておいても腐る果実を、泥の足で踏みにじっているのである。その雑音も、彼はやはり気に入らなかった。
少し早い両脚の調子に、男たちが気づくためには、一人の命が犠牲にならなければならなかった。
「口を閉じろ」
彼は残った四人に命じる。声の主に男どもは振り向く。そこに無残にも刃の突き刺さった仲間を、そしてその裏に立つ彼を認めた。事態を理解したとき、ほぼ全員が怒りの感情を露わにした。酔っているのは酒か血か、上気した赤ら顔がぶっきらぼうに彼を捉える。
「死に損ないが、俺たちに盾突く気か」
めいめいが威勢の良い言葉を吐き、それに反して覚束ない手付きで、腰に佩いた刀を抜く。仲間の死に無頓着な者どもは、見れば異国の兵士のようで、しかし散らばる酒瓶が、彼に一片の憐憫の情を浮かべさせた。
「盾は無く、刃のみだ」
短剣に刺さったままだった死体を蹴り飛ばし、男どもの驚いた隙をつき一人に肉薄する。剣を振り上げる間もなく、また一人が絶命した。死体の下敷きになった男も、すぐに後を追うこととなる。瞬く間に二人になった男たちは、先ほどの酔いは何処へ行ったか、剣を投げ出し一目散に逃げ出した。彼は殺意を込めて短剣を投げ、うち一人の息の根を止めた。
しばらくして、森は再び静かになった。
昨日彼は、結局何も持ち帰らなかった。そういう気分になれなかったのだ。
自分が生きている裏で、死にゆく人がいる。
極々単純な自然の摂理で、日常目にしていること。しかしそれ故忌避していた考えに囚われ、空腹など大した問題ではないと思い直していた。代わりに彼がすることと言えば、大切な短剣に布を掛けることだった。
わが身より愛しい刃だ。幸福という物とは縁の薄い人生を生きているが、いつもこの時間だけは間違いなく、彼の人生においてそれの代わりを果たしていた。しかし、今日はそれですら心を満たすことが出来なかった。昨日の雑音が、即ち、無残に中身を抉られた哀れな果実の断末魔が、彼の心の中で木魂していたのだ。それを拭い去るかのように、無心であるように努めて刃を愛でる。
何故かは分からないが、ふと琴弾きの女が脳裏を過った。あの叫びに、琴の音が重なる思いがした。
それもそのはずで、琴の音は実際にしていたのである。彼の住む荒ら屋からさほど遠くないところに、あの女がいま、いる。昨日のやり取りを思い出し、彼は刃を仕舞うと家の戸に手をかけた。
外に出ると、まだ朝告げの鳥も鳴かぬ刻限なのに、既に大勢の人々が活動を始めていた。しかしその動きに落ち着きは無く、皆何かに怯えているようである。大きな荷物を持つ者、家族を連れて話し込んでいる者、若き衆が各々武器を持ち、何やら不穏な会話をしていたりもする。
その慌ただしさの中でただ一人、微動だにせず座り込む者が、彼の目が探していた人物であった。
「約束の場所とは違うようだが」
彼は女に歩み寄り、感情を乗せずにそう言った。
「吟じる者にとっては些少な問題です」
琴弾きはまた昨日のように、澱みのない声で返した。続けて、
「共に生き、されど死す場はコトなるが、門の破るる音ぞ悲しき」
その詩は群衆には聞こえていないようだった。
「何が起こっている」
「戦です」
「戦だと」
「よくお判りでしょう? この国は敵を作りすぎました」
女は相変わらず、彼に目を合わせようとしない。
「なぜこちらを見ない」
「それも、ご自身でよくお判りではありませんか?」
それだけ言うと、懐から紫の布を取り出して、彼に捧げるように差し出した。彼は訝しみながらも、その布の包を解いた。
中から現れたのは、一輪の指輪だった。丁寧に磨き上げられたそれは、この薄闇の中でも目に眩しく映った。よく見ればそれは、昨日この琴弾きにくれてやったものである。彼がそれに何も言えないでいると、琴弾きが語って曰く、
「言種に、しるしの在るを思ひ為し、さりとて紋に勝るものなし」
彼はそこでようやく合点がいって、思い出したように石座に目をやった。
上弦の月をあしらった紋章。弥増す力を表した、この国の象徴である。それは彼自身、永らく忘れていたものだった。
「これは、迂闊なことをしたな」
「わたくしめも、実際にこの目で見るまでは半信半疑でした」
「俺自身は、見なくてもよいのか」
「畏れ多くも、かようなこと……いえ、そう望まれるのなら」
幾ばくかの逡巡の後、琴弾きは彼を恭しく仰ぎ見る。彼の視界に、金色の双眸が光を差した。
「それでよい」
その視線に捉えられた刹那、世界から寸の間、雑音の消える思いがした。彼は満足げに笑った。
「語り伝う道化として、あなた様のなさるべきことをお伝えしに参りました」
目を見据えたまま、女は言う。
「この指輪、それはもはや意味を為さぬ。ただの飯の種だ」
「異なる地にぞ言は泣く。あなた様も、その腰の短剣も、居場所はここではありません」
「俺に戦えとでも言うのか。この国の為に」
彼は怒るでもなく、女に聞いた。
「国の為ではなく、あなた様の為に。そしてそれが、民の為となりましょう。此処の者たちが必要としているのは、敵を打ち払う力です。その溝に差し込む刃は、あなた様をおいて他にありません」
琴弾きの言葉は湯の泉が滔滔と湧き出すが如く、質量と熱量を持って流れ込んでくる。
「だが、俺は家を追われた者。それに一人だ。何も為せまい」
彼はそれだけ呟くと瞳を閉じた。
「お労しや。長き苦難の日々により、多くのコトをお忘れになりましたか」
「端から在ったかも怪しい」
彼は久々に、自身の身なりを顧みた。着衣は継ぎ接ぎだらけの上色褪せて、元の形が思い出せない。それにたとえ覚えていたとしても、彼自身が語る術を持たない。それは最早存在していないも同然と、そう思わざるを得なかった。
「名君は作ろう創ろうと繕えば、史書の頁より出で来るものなり。歴史は真実、真実は正義。されど正義は弱者を語らず」
その否定の句を斬り返すように、琴と言にて女が詠う。
「ですから、わたくしめがここにいるのです。故にあなた様は一人ではありません」
もう一度、二人の視線が絡み合う。しかしそれは長く続かなかった。彼は女に背を向けた。
「そのような戯言で意が固まろうはずもない。第一に、お前のことも何も知らぬのだ」
背中越しに大きな溜め息が漏れる。次に紡がれる言葉が拒絶でないようにと、女は祈るように待った。
「……だが、少しは音を聞いてみようという心持ちだ。ゆめ飽きさせるな」
その意志を聞き取り、女は深々と頭を下げた。その金色の瞳は、背中の影で潤んでいた。
朝告げの鳥が鳴いた。空を分厚く覆いつくしていた雲が切れ、その間から差した陽光は、二人を明るく照らし出した。




