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石畳の坂の途中で

作者: 麓清

 俺が由布院駅にやってきたのはいつぶりだろうか。高い吹き抜けのある待合いを抜けて駅前通りに立ち、しばしノスタルジックな感傷に浸る。土産物屋が並ぶ駅前の目抜き通りのむこうに由布岳の稜線が青空を切り取るようにそびえる。

 辻馬車が蹄の音を立てて通り過ぎるのを、観光客がカメラを片手に追いかけていった。

 そんな彼らを横目に俺は駅前に停車している昔懐かしいボンネットバスに乗り込んだ。昭和中期のものだろうか、犬の鼻先のようなボンネットの両端、フェンダーの上にはクロムメッキのライトが申し訳程度に取り付けられている。油の塗りこまれた板張りの床を踏みしめ、キャメルのレザー調シートに腰をかけると、バスは金属部品の緩んだ不安げなエンジン音を轟かせてトロトロと発車した。

 車内にエアコンはない。ダッシュボードの上の小さな扇風機が巨大なハンドルを握る運転手に微かな風を送っているのが微笑ましい。窓を開けると、どこからか香る金木犀が深まる秋を感じさせた。

 バスの乗り心地は決して良くはない。田舎の道をガタガタとあちこち悲鳴をあげながら走っていき、やがて山道を上った先で右折したバスは石畳の道を進む。体がシートから飛び跳ねる程大きくバスが揺れたかと思うと、バスは間もなく終点に到着した。


 細長い石畳の両側に軒先をつき合わせるように旅館や土産物屋が並ぶ小さな温泉地、湯平ゆのひら温泉。古くは鎌倉時代にすでに湯治場として栄えていた歴史ある温泉で、かつては別府、由布院とも並ぶ温泉地だったが、今はすっかり鄙びて賑わいはない。

 俺は石畳の坂道ではなく、少し戻って自動車道を登っていく。家から小学校まで、徒歩で四十分かけて登校していた道。行きは早いが、帰りはそうはいかない。幼馴染のたかし裕子ゆうこと道草をくって帰り着く頃にはすっかり日も暮れていた、なんて事もしょっちゅうだった。

 俺は町が見渡せる場所に立った。谷間の温泉街を貫くような花合野かごの川沿いに並ぶ瓦屋根。俺が生まれ育った小さな町。

 そこから石積みの壁伝いに脇道を下った先、広場の正面に立つ宿がかつて俺が住んでいた家だった。俺の親父の亡き後、人手に渡り建物は旅館としてリノベーションされていた。

 入ってすぐ正面のカウンター内の仲居さんに俺は予約した自分の氏名を告げる。

「予約の麻生あそうひとしです」

「麻生様ですね、お待ちしていました」

 丁寧にお辞儀をして挨拶する女性と俺の目が合った瞬間、彼女はあっと短い驚嘆の声をあげた。

「あなた、栄作えいさくさんし、仁君? 覚えちょらん? 裕子んおばちゃん!」

 俺の思考が早回しのフィルムのように過去に遡り、頭の中でフラッシュが光る。

「裕子のおばさんですか! お久しぶりです」

「元気にしちょった? 確か東京ん会社に入社したんよね?」

「ええ。おばさんもお変わりなさそうで」

「元気よ。裕子は今出掛けてるけど、呼ぼうか?」

 俺はかぶりを振って宿帳に名前と住所を記入した。

「いえ、よろしくお伝えください」

 そういって二〇一号室の鍵を受け取り、階段を登る。館内は内装が綺麗にリフォームされていたものの、間取りは当時のままだった。

 窓からの景色も昔のまま、色づき始めた山肌に秋の気配がしていた。

 荷物を置き宿の裏手の石段を下りて川沿いの石畳の通りへむかった。橋の上から下を流れる花合野かごの川をぼうっと眺める。傾斜のきつい湯平では川に多くの落差工が設けられ、水は轟々と音を立て、宿で借りた木のツッカケのカラコロとした音色との懐かしいハーモニーを奏でた。

 石畳沿いのお土産屋で名物の湯の華饅頭を買った。一つ五〇円。これも昔と変わらない。

 共同浴場入り口の料金箱に二〇〇円を投入して中に入る。大人が十人もいればいっぱいになりそうな湯船につかり、俺は目を閉じてあの頃を思い出した。


たかし君も来れたらよかったに。受験勉強じゃ、しょうがなかね」

 裕子ゆうこが蛍を一匹手のひらにくるんで呟いた。

「貴には言うちょらんに」

「なんで?」

「裕子と二人で蛍を見たかったけん」

 水音だけが聞こえる暗闇に乱舞する蛍を見ながら俺は言った。

「俺、裕子ん事、好きやに。やけん、卒業したら俺と一緒に東京来ちょくれん? 俺、絶対日本一のエンジニアになるけん」

 裕子は手のひらの蛍をそっと空に放す。

「仁君、ありがとう。やけど、ウチは湯平ここに残る。何もない場所やけど、ここで暮らそう思うちょる。仁君も貴君も県外に行ったら寂しいなるけど、もし帰ってきたらちゃんとおかえりちゃ言いたいけん」

 月明りの中、微笑む裕子は幻想的で美しくて、だけど、俺の想いは届かなかったんだ。


 共同浴場の外には飲料用の温泉があって、それも当時のまま残っていた。誰かが置いていったアルマイトのコップに温泉を汲んで飲む。わずかに塩気がある丸っこい味に、俺の細胞がどんどんあの日に帰っていく。


「仁君!」

 不意に呼びかけられて振り返ると、あの日、俺に微笑みかけていた顔があった。

「よかった! お母さんに来ちょるて聞いたきい、探しちょったに」

「裕子、久しぶりだね」

「何ね、すっかり東京言葉になって」

「もう二〇年以上東京に住んでるからね」

「もうすぐ夕飯やけん、宿に戻らん?」

 俺たちは二人して歩き始めた。木の鳴る音がもう一つ増え、苔むした石段を踏み鳴らす。風になびく竹林のさやさやとした音色に、子供の頃の風呂の帰りを思い出す。


「貴君とは連絡とっちょる?」

「時々な。あいつは今や大企業の若手幹部だよ。俺はしがない小さな航空会社の整備部長」

「立派な事やに。今度は貴君も来れたらいいのにね」

「あの宿で働いてるんだ?」

「主人がね、仁君の家買って旅館始めたき」

「へぇ、若女将だね」

 その言葉にはにかんだように笑う裕子は、俺の一足先をすたすたと小走りに玄関へとむかった。そして眉をひそめた俺に振りむき、目を細めて思いっきり笑った。

「おかえり」

 時間は決して戻らない。人は年老いていく。けれど、時が止まったままの場所も存在する。俺も笑うと小さく返事した。

「ただいま」



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