密告
田野森駅の上りのホームで見かけた彼女は、険しい顔をしていた。線路を挟んで反対側にある下りのホームをじっと見つめたまま、身動きひとつしない。
今日はそっとしておいた方がいいのかも……。
俺は声をかけるのをやめ、彼女の隣の列に並んだ。
同じクラスの夏帆。
彼女は耳が少し不自由なため、補聴器を着けている。しかし、読唇術に長けており、普通高校での生活に支障をきたすことはまったくなかった。成績はいつもトップクラスで性格もよく、俺はひそかに尊敬の念を抱いている。
ぼうっと彼女の横顔を眺めていると、電車が滑り込んで来た。開いたドアから、人々が吸い込まれていく。俺もその流れに乗って、中へと足を踏み入れた。
つり革につかまり、ふと今いたホームを覗く。するとそこにはまだ、夏帆の姿があった。七時五十五分発のこの電車に乗らなければ、高校の始業時間に間に合わない。どうする気なんだろう。
夏帆は電車の窓越しに、向かい側のホームをじっと見つめて立っていた。思わず振り返り、彼女の目線の先を追ってみる。しかし、そこにはいつも通りの光景があるだけだった。
「夏帆が自殺した」
担任の口からその話を聞かされたのは、昼休みのことだった。
「うそ」「信じられない」
クラスの女子達は口々にそう叫び、泣き崩れる者もいた。
「今日の午前八時頃、田野森駅の下りのホームから、入って来た電車に飛び込んだ。即死だったそうだ」
担任が、沈痛な表情を浮かべて首を横に振る。教室内の泣き声は、一層大きくなった。
俺はどこか違和感を覚え、夏帆の席に目を遣った。
「なあ、夏帆の親父さんが自殺したのって、一ヶ月前だったよな? その影響もあるのかな」
隣の席の友哉が話しかけてくる。
「親父さんの自殺、か」
俺は、一ヶ月前のことを思い出していた。クラスのみんなで葬儀に参列したあの日。
瀟々と降り注ぐ雨に濡れながら、夏帆は親父さんの遺影を抱き締めていた。お袋さんは、だいぶん前に亡くなったと聞いている。唯一の肉親という叔父の喪主挨拶を聞きながら、俺はやつれた彼女の横顔をじっと見ていた。涙も見せず、唇を噛み締めて視線を下に落としたまま、彼女はじっと何かに耐えているようだった。
その翌日、田野森駅で出会った夏帆の笑顔はいつも通りで、内心ほっとしたものだ。しかし、今朝のあの様子といい、やはり彼女の中ではまだ、親父さんの死が整理できずに残っていたのかもしれない。
「親父さん、結構大きな会社経営してただろ? 資産も相当なもんだって聞いてたんだけど。自殺しちゃったら終わりだよな」
友哉が眉間に皺を寄せてつぶやいた。
父親の死後、精神的に参っていたという叔父夫婦の証言もあり、夏帆の死は自殺ということで決着した。
「こんなに短い期間に、二度も葬式を出すことになり……」
涙声で挨拶する、夏帆の叔父の姿。
俺はその顔をじっと見つめていた。
どこかで見たことがある。親父さんの葬儀の時か? いや、違う。もっと最近の話だ。じゃあ、いつだろう。
俺は、彼の後ろに立っている女性に目を移した。そして、はっと息を飲んだ。
思い出した。あの時だ。
手にしていた数珠を学生服のポケットにねじ込むと、俺は携帯電話を手に斎場を飛び出した。
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叔父夫婦が捕まったのは、それからすぐのことだった。夏帆の親父さんと夏帆の殺害容疑。
逮捕の決め手は一本の密告電話だった。
――夏帆は突き落とされたのだ。
「新聞に書いてあったんだけどさ、夏帆が線路に落ちた直後、ホームを去る叔父さん夫婦の姿が監視カメラに写ってたらしいぜ」
二人が逮捕された翌日、友哉は興奮気味に話した。
「あいつら、夏帆の親父さんがいなくなったら、夏帆の後見人におさまれるだろ? それで、資産を自由に動かそうと考えた。でも、その目論見がバレちまって、夏帆まで殺したんだってさ。ひどい話だよな」
英語教師の口から出される英単語を機械的に復唱しながら、俺は夏帆の机を見つめた。生けられているトルコ桔梗が、彼女の色白の顔とダブる。
あの朝、担任の話に覚えた違和感。
夏帆が立っていたのは上りのホームだった。なのに、なぜ下りのホームから飛び降りたのか。
夏帆の目線の先には、叔父夫婦の姿があった。俺も無意識の内に、その姿を確認していた。あの時、彼女は彼らの会話を読み取ってしまったのだろう。そして、親父さんの死の真相を知った。
上りのホームから下りのホームへと移動した夏帆は、叔父夫婦に詰め寄る。ラッシュ時でごった返す駅のホーム。そのどさくさに紛れて、彼女は線路へと突き落とされた。唯一の肉親の手によって。
もしあの朝、夏帆に声をかけていたら。そして、一緒に電車に乗り込んでいたら。
ぼやける視界の中、トルコ桔梗が寂しげに微笑んだ。
<了>