Before
──中三、夏休み。
受験生となり、俺が木芽を思考の隅に追いやる前の、最後の期間。無知を棚に上げていられた、最後の時間。
蝉時雨を全身に浴びながら、木芽は縁側にいた。
虫たちの調和を無視した大合唱に、畳の匂い。すだれから漏れる光。透ける青葉。
陽射しも、暑さも、全てが夏だった。
「暑ちぃ……」
しかし俺はというと、そんな風情を感じる能力なんて持ち合わせておらず、その日は冷蔵庫から持ってきたサイダーの缶を首筋に当て、大の字で寝転んでいた。
しかし数分もすれば、気休め程度に冷えたサイダーは夏の熱気にすっかり迎合して、冷却器具としての仕事を放棄し始める。
俺は仕方なく起き上がり、一緒にプルタブも起こした。二酸化炭素が飛沫を散らしながら飛び出して指を濡らす。ぬるくなってしまった中身をほんの少しばかり呷ると、缶を置いて再び寝転んだ。
受験生だというのに自覚が足りないにも程がある、と言われればそうかもしれない。だが、俺はそんな自覚なんてご免こうむりたく、「普通は勉強する」なんて規範の押しつけを押し返してみたかったりする年頃だった。
どうせ数学なんて将来は使わない。
どうせ歴史や地理の知識だって使わない。
どうせ。どうせ。どうせ。
大人になると効率を求める社会は、子供には非効率を義務づけてくる。俺は無駄なことが嫌いだったから、当然ながらその強制だと思っている勉学も嫌いだった。
かと言って有益なこととはなんだと聞かれれば、こうして惰眠を貪る自分が、これこれこうでなにがしがどうなどと答えられるわけもなく、つまりは毎日を無為に消費していた。
そんななか、はらり──と。紙がめくれる音がする。
俺が音のした方向を見やると、やはりというか、木芽は縁側で本に視線を落としていた。
そんな木芽が、気になってはいた。いた、というのはつまるところイコールで、意図的に無視しようと努めていたわけだった。
その頃、俺はどうにも異性に対し、いま一歩距離をはかってしまうという典型的な男子中学生。たとえそれが従妹であっても、滅多に会わないうえに、ましてや当時気づけなかったにせよ惚れている相手だったのだから仕方ない。
しかし、しかしだ。人間の本質というのは興味と探求である。好奇心は羞恥心を打ち負かし、どんどんと自己主張の度合いを増していく。
そしてそれは最終的になけなしの勇気までを喚起し、俺は木芽に話しかけるのを決意する、という状況へと相成った。
……が、その過程が俺にとっては問題だった。
どう話しかければいいのか。話題はどうすれば。なにを話せばいい。数年前は極普通に出来たことが、えらく難しく感じる。今にして思えばあり得ないくらいパニクっていた俺は、妙な行動に出た。
横になったまま、ごろんと転がる。木芽に向かって。あまり音を立てないように。
なにを考えてこんな奇行を思いついたのか、こと今にいたっても一切合切が理解出来ない。多分、思春期男子特有の病気みたいな行動の一例ではあると思う。ただこういうのは誰にとっても思い出したくない記憶なので、カルテには記入しないでいただきたい。
して、俺はその行動を両親が見てみぬフリをしていたのを知らぬまま、木芽の近くまで辿り着く。木芽は本に集中していて気づいていない。
俺はチャンスだと思った(何を以て好機としたのか、やはり今では一切が分からない)。これは僥倖とばかりにもう一転がりし、そして、
木芽も倒れ込んできた。
「…………」
頭が真っ白になった。
目の前に、シトラスの香りがする黒い髪がある。少し上には手と、本。体勢を変えて読もうとしたのだろう。だが、あまりにもタイミングが悪すぎやしないか。
冷や汗を浮かばせる俺に反し、涼しげな面持ちで木芽は首をこちらに向けた。
顔が、近い。
頬が熱いのは、夏の暑さじゃないと嫌でも気づく。心臓が跳ねた、というのは比喩じゃないと思うほどに鼓動は激しさを増した。
「……このまま」
「あ、はい」
木芽の簡潔すぎる言葉に、俺はなぜか敬語になる。夏と、もう一つの温度。蝉の時雨。木芽は本に視線を戻し、俺は硬直しながら。そのまま、時計の針は進む。
しかして。数分もすると、思考は徐々に冷静になってくる。俺は蝉の鳴き声を背景に出来るくらいには、他のことを考えられるようになってきた。
このままとは、どういうことだろう。木芽はなにを思っているんだろう。ページが捲られるたび、しなやかな腕が動いて心地よい圧迫を感じる。
俺の考えていることが体温に溶けて、木芽に伝わってしまうんじゃないか。そんなことを思ってしまう。
俺はそんなのは嫌だった。心が、感情が、俺が口に出す前に勝手に伝わるなんて、そんなでしゃばった真似をされるのはごめんだった。
俺の感情も、考えも、全部は俺のものだ。余計なことはさせてやるものか。
そんな衝動が込み上げて、俺は声を出した。
「……お前、なんで本読んでるんだ?」
それは三年ほど前、俺が聞きそびれた問い。歌の記憶の後に、本の中に閉じられてしまったことの答え。三年間、追求してこなかった本当。
きっと今度こそは聞ける気がしたんだ。
幾ばくかの沈黙ののち、上から降りてきた声は、懺悔をするような色を含んでいた。
「……本を読むのは、本が好きで、そこまででもない、から」
「どういうことだ?」
だけど、俺はそんな色を見つけることが出来ず、普通に聞き返す。
「本は好き。だけど、ずっと夢中になって読めるほど好きじゃない。だから、読んでるの」
「そう、なのか? よくわからん」
「ふふ、おにいさんには難しいかも」
木芽がはにかむ。からかうような口振りだったが、以前と違い、ひねくれてるとはいえ精神年齢は向上していたから、俺は呑気に「かもなあ」とか言っていた。
「たぶん、そのほうがいいの。わたしが、少しでも長い間それ以外でいるのには」
「それ以外?」
「そのままの意味。正確に言うなら……本を読むことで、わたしは文字になれるの。好きだけど、半ば無理に見ることで、わたしは文字になれる。本の、物語の中の言葉に。そんな言葉の世界にいる間は、わたしはわたしであることを無視出来る。わたしをどこかに預けて、わたしを……忘れていられる」
「……悪りぃ、さっぱりわからないわ」
「うん、そうだろうね」
鈍感な俺でも、その台詞に寂しさが混じっていたことに気づく。でも、俺には対処の仕方なんてわからなかった。
ただ、木芽の独白を記憶することしか出来ない。
「いつからだったかは分からないけど、わたしは本を読むようになってた。最初は、積極的に読んでたわけじゃなかったけれど。そのうち習慣になって、癖になって、今では依存に近い。依存であっても、おかしくない」
……よく、わからなかった。
わからないことだらけだった。普通に考えれば、木芽の苦悩は木芽のもので、わからなくて当たり前で、わからないべきである筈なのに。
なんとも卑屈で、ずるい話だ。ついさっき、思考が自分のものでなくなることに憤っていた俺が、今度は木芽の思いが知れぬことに憤慨するなんて。
そんな、出所も行き場も不明瞭なもやもやを抱えて、それで手一杯な俺は、見当違いなことしか言えず。
「ん、と。お前、そういうの考えられるのって、すげぇな。小説家とか目指してみたら」
下から来た言葉に、木芽はきょとんとしながら、
「小説家?」
「あ、ああ、小説」
木芽がこちらを見てきたので、俺は少しどもりながら視線を逸らす。
「小説…………ううん、たぶん無理」
「どうしてだ」
「なんというか……そう、わたしはインプットしか出来ないの。入れたものを変換して、アウトプットが出来ない。今のだって、読んできた本の言葉の、わたしに一番近いものをそのまま選んだだけ。わたしの言葉は今まで会った人と、本の集合でしか、ないから」
「…………」
なぜか、なぜかこの時だけ、木芽の言わんとしてることが理解出来た気がした。
なんとなく。ぼんやりと。
さっき知れなかったことに憤慨した俺は、今度は知ってもなにも出来ないことに腹が立った。見つけても、それは気体のようにふわふわと浮かぶばかりで、掴むことなんか出来やしない。
俺のそんな奇妙な自己嫌悪のことなど、露ほども知らないだろう木芽は、くすくす茶化すように笑って、
「だから、おにいさんのほうが、意外と向いているかも。ペンネームはなににする?」
考え込んでいた俺は、反射のように、
「……木芽」
「え、わたし?」
名前を呟いてしまった。
動揺する木芽の様子にはっと我にかえる。時既に遅しというが、言葉の通り、前言撤回にはもう遅かった。
「ああ、いや、その……」
間違っても、お前のことを考えてたらつい、などとは言えない。事実そうであったが、ろくに人生経験もない俺はそんなことは気づくわけがない。
どぎまぎするうち、先に動いたのは木芽だった。情けなくも、俺は目をあたふたと泳がすだけで、体のほうは一切の硬直状態。
俺に背中を預けていた従妹は立ち上がり、少し歩いて、
「これ、ちょっと貰うね」
「あっ」
俺のサイダーを一口、こくりと飲んだ。
缶から顔を放し、はぁ、と一息。
「ありがと、おにいさん」
それだけ言って、木芽は去っていった。
いつの間にか、アブラゼミの声にヒグラシが混じっている。
ぼうっと、ただ横になっていた。どれほど経ったか、俺は間近で鳴いたヒグラシの鳴き声に意識を呼び戻された。
畳と服を擦らせながら、ゆっくりと起き上がる。
そっと手に取り、飲み込んだサイダー。炭酸はすっかり抜けていて、ぬるくて、甘い。
それが俺の、木芽との記憶のひとつ。
サイダーの甘味だけを感じられていた、最後の日々。
……木芽。柏、木芽。柏木芽。
いくらなんでも、目覚めからこの名前が浮かぶのはなんとかならないか。小さく呻きつつ、俺は呑みすぎて痛む頭を抑えながら、のそりと炬燵から這い出た。
寒い。出来るならまだ炬燵に残っていたいが、水が欲しくて仕方ない。
ふらふら立ち上がると俺は台所へ行き、コップを取る。蛇口を捻り、水を出す。ぐいっと口に含み、勢いよく吹き出した。
「……不味い」
都会の水道水は不味かった。普段なら間違えないが、たまに酔いが回ると田舎に居た頃の癖でそのまま飲んでしまったりする。今回もその手合いだった。
気力に地味にダメージを受けながら、改めて冷蔵庫から天然水を取り出す。注いで、呷る。ああ、美味い。
ほっと一段落したところで、炬燵に戻った。そこでふと、気づく。
「雪、か」
空に知られる雪。桜ではない本物の雪。
──木芽と、見たことはなかった雪。
「はぁ」
我ながら、未練がましいと思う。
どうしてこうも、自分というのは上手く機能しないのだろう。長らくの間、木芽への想いをさもないかのような顔をしておいて、今さらやたらに喚きたてるとは一体全体どういう了見だ。
自分自身に幾ら文句を言っても、結局は自己責任でしかない。けれど不毛な問いは止まることなく、いつまでも続く。
既に壊れてしまったものを、いくら補強しようとしても意味はないのに。
もう全ては過ぎてしまった。木芽は結婚するし、俺は及ばなかった。それが結果。
意味していることは後の祭りで、それは無駄なことだったが、しかしどうして俺は自責を繰り返してしまう。
無駄が嫌いだったくせに、どこまでも俺は無駄だった。
ということは、俺は俺が嫌いなのだろうか。
その通りである。
俺は俺が嫌いだから、俺を通した全部が嫌いなはずだ。
そこにあった缶も、袋も、炬燵も、たぶん大嫌いな俺が認識しているものだから、みんな嫌いなんだと思う。
ただ、木芽は好きだ。
変な話だが、それだけは間違いない。
電話がかかってきたのはその直後の話で、丁度俺は衝動のままに、自分のことをぶん殴ってやろうと画策していた頃合い。
自分の携帯だったら無視していた。が、俺の着信音はこんなにポップな曲ではなく。
とすると、その正体は炬燵の逆側でコードに繋がった、点滅するピンクの携帯に他ならない。
どうやら木芽が忘れていったようだ。
俺は腕を伸ばして携帯ごとコードを引き抜くと、コンセントから外れたそれを開く。もしもしと慌てた声色は母のものだった。
「もしもし、このちゃん?」
「残念、俺だ」
母は一瞬驚いたようだが、電話に出たのが息子だと知ると、露骨に大きな溜め息を吐いた。まったく失礼である。
「なんであんたが出るの」
「あいつ、朝まで居たんだよ。携帯忘れてったらしい。で、どうしたよ」
俺は先ほどまで構想していた自傷行為の企画を一旦頭の隅に追いやり、努めて平然と質問をした。
「そうそう、あんた──」
──はたして、どうしたことか。
話を聞くに、事態はここに来て随分な急展開を迎えることになる。いや、違うな。既に迎えていた。こっちの方が正しいだろう。
母曰く、
このちゃん(木芽の愛称)がね、昨日いきなりいなくなっちゃったの。今日はこのちゃん、彼氏のご両親のところに挨拶しに行く日だったんだって。
姉さんが電話もしてみたらしいんだけど、着信拒否にしてるのか繋がらないって。それでさっき私の番号は使えるかもしれないって電話してみたんだけど、なんだってあんたのところに……。
と、大体こんな感じ。
少し頭ん中を整理させてくれないか。当然、そうは言わず、俺は最近の木芽の様子はどうだったのか、状況を詳しく知るために従妹の近況報告を求めた。
こういう場合、とりあえず情報を詰め込んで、整理するのは後でいい。きれいに整えても、そこにある情報が空欄だらけじゃ意味がない。
思いの外、冷静に対処を行なった俺はこちらでも探してみるとテンプレートな返答をし、電話を切った。
さて。相も変わらず頭痛はするが、さして問題ではない。
寒いという要素があるが、それは問題外。
全部が終わったと思ったのに、あいつはなんてイベントを寄越してくるんだ。こんな心臓に悪いサプライズは金輪際ご勘弁願いたい。
とりあえず、俺は未だわからない答えを探しに、玄関の扉を開ける。
人は少なかった。
都会と言ってもここはまだ外れのほうで、近くには森も見えるし、空き地も幾つか見られる。雪が降ってるからか、子供は何人かとすれ違った。男女とも変わらずはしゃいでいた。雪には、子供心を刺激するそういうなにかがあるのかもしれない。
大人が雪に求めるのはなんだろう。人っていうのは、なんでもかんでも無闇に意味を求めたがる。自分もそういう類いの人間に相違はなく、木芽を探しながら、そんなことを思案していた。
まるで昔の木芽のように。
思わずくすりと笑いがこぼれた。なんだ、木芽を悟っちゃいました系だとか馬鹿にしてた割に、俺も同じようなものじゃないか。さしずめ悟っちゃいました青年というところか。
自分のネーミングセンスのなさに、またしても笑みがこぼれた。
色々と気づいたことがある。
木芽が周囲になにも言わず俺の家を訪ねてきたこと。母から聞いたあいつの近況。今日、この日にあいつが来た意味。二つの記憶。
歩きながら考えてみると、まだやるべきことが残っていることに気づいた。あとは答えを知って、そいつが聞いてくる問いに答えるだけ。
終わっちゃいなかった。
俺がそう思っていただけで、まだ始まってもいなかったのかもしれない。
アフターではなく、ビフォー。そんな予感がする。
今なら、言える気がしたんだ。
十三年も前、あいつが俺に聞いてきたことの答えを。あいつが求めていたものに応える言葉を。
木芽がどこにいるのか、分かった。あいつは色々考えちゃいるが、結局は俺と同じ馬鹿でしかない。馬鹿でしかないと確信した。
十三年の時間は、俺が馬鹿をやめるには足りなかったけど、答えを出すには充分だった。
今こそ、渡そう。
あの時、俺が言った答えを、もう一度。
あの時、俺が言えなかった答えを、今度こそ。
初めて会った時からずっと好きだった、賢くて、馬鹿な従妹に。
俺は煙草をくわえて火をつける。紫煙を後ろに置いていく。足は真っ直ぐ、この辺りで一番の高台へ。
行き先は決まってる。どこへ行くかなんて、もう言うまでもない。
馬鹿と煙は、高いところが好きなんだ