After
先に書いておく。
絶対に笑わないで欲しい。言わなくても、きっとお前は笑わないだろうけど、念のため。
お前は、本が好きなやつだから。
空がその存在を知らない雪……桜が舞う、春の出来事。儚く散る花弁の中、不安そうな表情をして、消え入りそうな声でそいつは呟いた。
──わたしって、一体どこにあるんだろうね。
その言葉に、当時の俺は何と言っていたのか、未だに思い出せない。その台詞を覚えているのに、自分自身が答えたことを全く覚えていないのも風変わりなことだが、きっとくだらないことを言ったのだと思う。それになによりも、小学四年生にして、そんな悟ったような台詞を吐くそいつ自身がだいぶ風変わりだった。
成人し、社会人になった今を思えば随分と深い問い掛けである。そんな悟っちゃいました系女子であった従妹は、小学生時代にいじめにあっていたらしい。
それを聞いたのは俺が高校生になってからのことで、ひどく驚いた。なんせ、あいつはいじめにあっている素振りなんて微塵も見せなかったから。
卵が先か、鶏が先か。元々あの性格だったからいじめられたのか、いじめにあったからあの性格になったのか、俺にはよく分からなかった。
ただ、あの時の従妹は歳上である俺よりも思慮が進んでいて、いつもどこか違うところを見ていた気がする。俺にはきっとまだ、あいつが見ていた場所は見えていない。
そういえばあいつとは俺が高校に入って以来会っていないが、今はどうしているのだろう。
電話が掛かってきたのは、そんなことを考えていたある日の夜だった。
「あ、繋がった。おいっす。あんさん、久しぶり」
妙にテンションの高い第一声だった。聞き覚えのない声に、電話越しに首を傾げてみる。
「……だれっすか?」
「おお、声少し低くなったねぇ。てか酷いなあ。こんな可愛い従妹の声忘れちゃったの」
「……どっちの従妹?」
「なあに言ってんの。おにいさん、お父さんの方は一人っ子でしょうに。ひょっとして寝ぼけてる?」
「今何時だと思ってる」
「ん。ええ、ああ……今何時だっけ」
「二時だ阿呆。非常識も甚だしい」
「あ、おにいさんもしかして寝てた?」
「お前はこの時間に寝てない人間の方が少ないことを認識したほうがいい。俺からの忠告」
「あっはっはっは、おにいさん相変わらず面白いねぇ」
「お前も相変わらず迷惑な性格してるよ」
「ほほう、言うね」
はぁ、と俺は溜め息を漏らす。しかしまったく、実にタイムリーな電話だった。
受話器越しの従妹の声は、記憶の中のものより幾分か大人びていた。一方で声に反比例するように口調は妙に子供っぽくなっており、どうにもアンバランスこのうえない。
昔は逆だった。小柄で子供らしい外見のくせに、一人だけすみっこで本を読んで、時折達観したような一言をこぼす。それが我が従妹であったはずだ。
俺も変わらなかったわけじゃないが、こいつはいくらなんでも変わりすぎじゃなかろうか。
「ああ、そそ、おにいさんおにいさん」
「ん」
「あたし、結婚するから」
「へぇ…………結婚すんのか」
「あ、うん。ありゃ、驚かないの」
「いや、だって結婚だろ。もうそんくらいの歳だし、ましてや恋人の一人や二人くらい居ても…………は? 結婚? はあ?」
間抜けな声をあげてしまった。多分、俺の顔もだいぶ間が抜けた様相をしていることだろう。それくらいには、今のは驚くべき発言だった。
いやいや、結婚て。こいつが? どういうこった。
「反応おっそ。おにいさんって最近脳使ってないの? その股間のモノくらい使用頻度が低いの?」
「お前さ、仮にも、仮にも女だろ、変なこと言ってんじゃねえよ」
「仮にもって二回言われた。てかおにいさん女に幻想持ちすぎ。下ネタくらい使いますって。やっぱおにいさんて童て」
「ああ覚えてるよ昔お前よく読んでたよなあれ、高村光太郎の詩」
「それ道程。あたしが言ってるのは童貞であって道程ではなく、童貞は童貞以外のなにものでもないのさ。むろん道程も道程であって道程は道程以外の……」
「シャラップ。もういいから連呼すんな。口頭じゃどっちか分からんし。で、お前結婚ってどういうことだ」
「あちゃあ、誤魔化せなかったか」
「当たり前だ阿呆。それで」
「電話じゃ話すの面倒くさいなあ」
「おいおい」
思わず顔がひきつる。そりゃないだろう。深夜にいきなり電話してきて、衝撃発言をした挙句あっけらかんと会話を終えようとする従妹に、俺は肩を落とす。
すると、電話の向こうで従妹はクスっと笑った。
「あたし木芽さん。今あなたの家の前にいるの」
「は?」
「あたし木芽さん。今あなたの家の前にいるの」
「待て。いや待て待て待て待て。待て」
俺は慌てて立ち上がり、あまり足音を立てないようにして玄関へ向かった。布団をはねのけ、月明かりを頼りに歩を進める。
ボロアパートが軋む音を聞きながら冷えた床板を踏みしめ、俺は玄関の扉を開けた。
すると――
「こんばんは、いい夜だね」
冷えた空気と一緒に、懐かしい顔が視界に飛び込んできた。カーキ色のコートを着て、肩に六花の花弁を乗せた変わり者、従妹。久々に会った柏木芽は、顔立ちが大人びただけで、昔と変わらない見た目をしていた。
さらさらしていて長い黒髪も、悟ったような言葉を吐く唇も。こっちを向いてるくせに、一体どこを見てるんだか分かりゃしない瞳も。
背が伸びて、声が変わっても、やっぱり……
「おにいさんだ」「お前だな」
同時に言って、俺たちは吹き出した。
「なんだ、まあ入れ」
「了解。おにいさん髭生えたね、似合ってないよ」
「うるさい。まさか来客が来るとは思わなんだ」
「お正月も過ぎたしね。部屋が片づいてるのは意外だったけど」
「押し入れ思いきり開けてみ。たぶん一秒でお前が思った通りの部屋になる」
「うへえ、それはちょっと遠慮したいなあ」
ドアを閉めて、中に入った木芽を追う。
「こたつ電源入ってないじゃん。スイッチどこ? 寒い……」
「こっちだ、こっち」
震えながら「おお、さぶさぶ……」と言っている木芽の脇を過ぎ、俺はスイッチを入れて反対側に座った。
少しずつ炬燵が暖かくなるのを感じながら、俺は切り出す。
「さて、本題だが」
「ええ、温まるの待ってよお。世間話しようよう。いきなり話重くなるのやだあ」
「だまらっしゃい。俺は夜中いきなり起こされてるんだぞ、第一なんで俺ん家知ってるんだ」
「叔母さんに聞いたの。おにいさんの住所と番号。あ、ここに来るのに携帯のナビ使ってたら電池なくなっちゃったから充電さして」
「図々しいな。そこにコンセントあっから」
「うん。…………あ」
「どうした」
「充電器忘れた。おにいさん貸して」
「……ほら」
「わあい、ありがと。いやあ、スマホはいいね、充電器の規格が同じで」
「まったく……」
溜め息。大人しかった従妹が、随分とまあサバサバしてしまったものだ。昔のほうが内面は大人だったんじゃないか。
軽く頭を掻き、横で「スマートフォン、プラグイン。チャージなう」とかふざけている従妹を後目に、俺は煙草を取り出す。
「煙草吸っていいか」
「うん、いいよ」
木芽の了解を得て、俺は口元に煙草を持っていってくわえ、火を点けてふかし始めた。
ゆらゆらと浮かぶ煙が、ずっと前に見た景色と重なったような気がして、俺は昔のことを思い出す。
よく晴れた日だった。
多分、春休みの時だったと思う。
俺は中学の入学準備を始めた頃で、木芽は小四から小五へ。母の実家に行ったとき、あいつは庭で本を読んでいた。
「お前、なにやってんの」
木芽は指を栞代わりに本を閉じて、
「……ん。あ、おにいさん」
「おにいさんじゃないだろ。お前は俺の妹じゃないんだから」
「おにいさん、知らないの。妹じゃなくても、年上の男の子をおにいさんって言ったりするよ」
「はあ、お前なに言って──え? ま、マジ?」
「うん、この本でも、陽子が近所に住んでる慶太に『お兄ちゃん』て言ってる。書いてあるよ、ほら」
木芽が開いて突き出した本を、俺は見た。
「……? え、っと、き、きしじ……?」
「たそがれどき。読めない?」
「…………」
「分かった」
当時、俺は典型的な活字離れ世代で、おまけに馬鹿だった。だけどそれを恥と思うばかりか、自称していた覚えもある。
それでもプライドみたいなものはあって、年下に呼称に対する間違いを指摘されたうえ、漢字の読解も負けてかなりへこんだ。「漢字書けないけど読むのは出来る」を自負してた俺にとって、唯一の取り柄を奪われて敗北した気分だった。
思考が未熟だったガキの自分は、普段なら木芽に逆ギレしてたと思う。馬鹿にすんじゃねえ、と自尊心を守る大義名分を掲げて。でも、俺は何も言うことはなく、拳はずっと下を向いていた。
「すぅ……はぁ。……『黄昏時、陽子は川辺に腰かけて、川の水に、両の足を委ねた。脱ぎ捨てた靴を掴み、うしろに放り投げると、とさりと音がして、なにやら、すこし悲しい気分になる』」
なぜなら、知らず勝者となった木芽は、俺のことを馬鹿にすることはせず、本を朗読し始めたからだ。
いつも間違えると馬鹿にされて、すぐにキレて殴りかかってた俺は、かなり困惑した。今までにこんなことはなかったから。
なあ、馬鹿にしてこいよ……なんで本なんか読んでるんだよ……、と、心中で何度もぼやく。
しかし、木芽は、本を朗読する。
何も言えなくなって、俺は黙って木芽を見ていた。
風で木々が擦れる音が、凄く鬱陶しかった。
火種を貰えず、爆発のきっかけを失って燻った心は、焦げ臭いもやだけを漂わせて、俺を暗鬱な気持ちにさせていた。
そんな俺に気づかず、木芽は文字を言葉に、声にして、絶え間なく耳に投げ込んでくる。
「……『お兄ちゃん、私は、たぶん、楽しいと感じてはいるのでしょう。それでも、私はやはりどこか悲しいのです』」
「…………」
「『私は分かりません。なぜみんなは、私につめたいのか。なぜ、お兄ちゃんは私に優しいのですか』」
今思えば……きっと、歌だったんだと思う。
音楽ではない。言葉をただ声にしているだけだ。文字を、ささやかな振動に変えているだけ。リズムも、テンポすら意識してはいない。
なのに、ハーモニーはあった。俺にとって木芽の朗読は情緒を秘めた詩であり、なにかを想う唄であり、自分はここに居ると謳う物語だった。
いつの間にか俺は木芽の奏でる音に聞き入っていた。胸のもやはもうなくなっていて、燻っていた空白は言葉で埋まっていた。
その歌が終わるまで、俺は立ち尽くしていた。
空に知られぬ雪が風を纏って踊り、雲は紫煙のようにゆらゆら揺蕩う。
時間と共に風化して、色褪せていくはずの、ちっぽけな歌の物語。
俺はその記憶を、はっきり覚えている。
二本目の煙草を吸い終え、三本目を取り出したとき、不意に白い手が視界を塞いだ。
「一本ちょうだい」
「お前、煙草吸えんのか」
「ううん、初めて」
「やめとけ。お前にはまだ早い。気が急くと血を見るぞ。苦痛を知りたくないなら諦めることだ」
「なに言ってんだか。それじゃ、一本もらおっかな。あたしマゾだから」
「あほか。ほれ」
「やた。火、火ちょうだい。ぎぶみいふぁいあ」
冗談めかして笑う木芽に俺は一本取って渡してやる。この際、一度吸わせてやれば諦めがつくだろう。
片言英語で火を要求する従妹の口元にライターを持っていき、点火する。
木芽は慌ててむせだした。
「うぇ、マズぅ……苦ぁ……おにいさん、これ返す、返すっ」
「いらん、消せ」
「うひぃ、吸うんじゃなかった。危うく命を落とすところだったよ」
「だから言ったろ」
「はいはい、ご忠告を無下にして申し訳ありませんおにいさま」
こほこほ咳き込みながら、木芽が煙草の火を消す。
灰が擦れる音がして、それを機に言葉が止まった。
木芽はなにも言わず、俺は煙草を吸っている。
……静かだ。時計の音と、煙まみれの息を吐き出す音が続くあいだ、木芽はずっと俺を見ていた。
静かに。ただ、じっと。
長い沈黙。突然に、その瞬間は来る。
「あたしさ、結婚するんだよね」
「…………」
唐突だった。
不意打ちすぎて、俺は黙り込む。
従妹、木芽は微笑み、ゆっくりと語り始める。
──相手はね、中学からの同級生。彼、その時からずっとあたしなんかを気にかけてくれてたわけ。高校も同じ大学も同じで、学力も近くてずっと偶然だなあなんて思ってたんだけど、一年くらい前に告白されたの。実は勉強して勉強して、必死に私に学校合わせてくれてたんだって。いやあ、ズキュゥン、てきたね。事実は小説よりも奇なりっていうけど、ほんとに青春小説みたいでさ。
と、そんなことを生き生きと話した。
木芽の盛大なノロケに、俺は思わず苦笑する。
「ほほう、随分とまあ物好きな……」
「え、なんだって? 聞こえなかったなあ。でね、その彼がすっごい優しいのよ。私がなにかしようとすると先回りしてやってくれてんの。読心能力者かっていうね」
「ベタ褒めだな」
「まあねえ。あたしたち、婚約者だし。結婚間近だし」
笑み。
木芽は随分と快活に笑った。
子供の頃には見たことのない表情で、屈託のないように見える顔で。従妹だというのに、こいつのこんな表情は今まで見たことがなかった。
「なるほど……いいやつ、なんだろうな」
「うんっ。いい人だよお」
突然、なんだか言い様のない怒りが沸いてきた。
誰に向けてなのか、何がきっかけなのかも全然わからない。
とはいえ。そんな所在不明の感情を表に出さないようにする程度には、俺も自己管理を覚えていた。外面には、とりあえず笑顔を塗り固めておく。
我ながら上手く固められたと思う。木芽の話に相槌を打ち、合いの手を入れて、ほんの少しの冗談と、本音。言葉を隠すには言葉の中。
無理に押し込めるより、少しばかり吐露したほうが平静を装うことはやりやすい。冗句に交えて、冗談のような本気。
夜は、そんな風に過ぎた。
木芽が持ってきた酒と菓子をつまみながら、上っ面の談笑と、水面下の灯火を揺らしていた。火は水の中で静かに燃えて、木芽が帰るまで表に出ないまま。
夜は更けて、俺は部屋の中に一人、残される。
……本当は、自分の感情の名前くらい、俺は知っていた。自覚するのが怖かっただけで。
しかし、自覚を拒むのが許されるほど、俺の脳は優しく出来ていなかった。
俺は、木芽のあんな表情を見たことがなかった。
俺は、木芽の婚約者の知らない木芽のことを知っている。
俺は、木芽の婚約者の知ってる木芽のことを知らなかった。
劣等感に交じる、くだらない優越感。
そんな風に心情を挙げてみれば、なんてことはない。
理由を列挙すれば、俺の中にある怒りの名前なんて、至極簡単に理解出来た。要するに、ただの嫉妬。俺は俺の知らない誰かさんに、微笑ましいほどに卑小で卑屈な嫉妬を覚えていたんだ。
本当に情けない。ふと、ある言葉が脳裏をよぎる。過ぎたるは及ばざるが如し、だったか。確か孔子の言葉。使い方は間違ってるはずだが、こういう意味で使っても、間違ってはいない気がした。
過ぎてしまったものには、もう俺の意思が及ぶことはない。もうどんなに想っても届くことなんてない。それに気づいた俺は、今さら過ぎる自覚に文句を言おうとした。言おうとして、喉元に未練がましく残る言葉を、一缶だけ残った酒と一緒に飲み込む。
及ばなかった俺の、最後の意地。
顔が熱いわ視界は滲むわで、味なんか分かりゃしなかった。分からないくせに、塩っぽくて、苦かった。
窓の外で、雪のひらひら舞う寒い朝。
積もるばかりで、けして溶けることのない想いを抱きながら、俺は睡魔に身を投げ出した。
このままなにもかも凍りついて、全てが閉ざされてしまうことを願いながら。
「ああ、くそ、眠いなあ、ちくしょう」
残酷なことに、目からこぼれた雫は、仄かな熱を持っていて。拭った腕で目を隠して、俺は瞼を閉じる。
音も、感覚も、なにも変わりはしない。
だけど、少なくとも世界は滲まなくなっていた。