外道の秘
外道の秘
白伊豆隼人は傍目からして実に中性的である印象が強いらしい。
その端正で美しい顔つきは確かに女のようである。その性格もまた然り、女性的な感性を男に思わせる表情、所作の持ち主だ。
つまるところ彼は美青年と云っていいが、その一言で括るには余りある才色を魅せる。白伊豆には何をやらせても大抵不得意はなく、俗に云う天才とはこのことかと私は思う。
「おい、白伊豆。つまり、どうすればいいんだ。もっと判り易く云ってくれ」
喫茶店にて、私とこの男は雑談をしていた。
白伊豆は首を少し傾げ、小さく溜息を吐きながら私を上目遣いで見据えた。まるで人形のような顔だ。男臭さはないが、男である。
彼は小馬鹿にしたような含みを持った笑みを作り、だがすぐに無表情になり私から目を背けた。移り変わった視線の先には、私の隣に居る大男が呆けた面で座っている。
景皇裕司は兎に角阿呆だ。簡単に云えば白伊豆とは真逆の存在である。肥えて太った体に醜悪な顔面、唯一の取り柄が有るとすればそれは馬力だろう。
私たち三人は同じ高校を出て同じ大学に入った友人同士である。今思えば、どうして頭のネジが飛んだ景皇がK大学に入学できたのかは謎である。その学力差的矛盾を白伊豆は何らかのコネクションだと推理している。私もそうだと思っている。まして景皇は最も不得意とする理系科目を扱う理工学部にその身を置くのだから、もはや八百長もいいところだ。
私は景皇の不潔な横顔をちらりと見た。途端にすべてのやる気が失われ、早く帰って寝たい気持ちが心を占めた。こうなった経緯を私はあまり覚えていない。
確か、今朝も暑かった。
私は気怠い朝を自室に引き篭り扇子でも仰いで微睡んでいたはずだが、少しすると来客があった。それが景皇だった。
「何ですか、裕さん」
「相談があるんだが」
多分こんな感じのどうしようもない切り口だったと思う。正直ぼうとしていて、善く覚えていない。それから私は一個上の先輩の下らない悩みを延々と聞かされたのだ。七月上旬の暑苦しい朝に聞く醜男の声はそれはそれは嫌気が差した。しかし仮にも先輩であるから、帰って寝てろとは言い難く、私は結局その相談内容を完全に理解するまで聞かされる羽目となった。その内容は至って最悪なものだった。
簡潔に云うと、景皇は性欲が抑えられないのだと云う。だからどうにかして欲しいと云うことだった。勿論、私にはどうすることも出来ず、とりあえず暑いから冷房の効いた喫茶店にでも行こうと云う話になった。そこで偶然にも一人でコーヒーを飲む白伊豆に出くわし、私は無欠の男に事情を説明したのである。
白伊豆は初め嫌そうな顔をしていたが、私がしどろもどろに話す内にどうでもよくなったようで、諦めて相談に乗ることにしたようだ。私が説明を終えると、白伊豆はこう云った。
「裕さん。あなたが他の人より性欲を持て余しているのは高校時代から知っているが、何故悩むのか僕には理解出来ないよ。ある程度魅力的な女性を目にすると性的衝動に駆られると云うがそれは別段おかしくない。そんな男はどこにでもいるさ。問題はそれをそこのどうしようもない林靜潤という男に相談してしまったことだ。解決する訳がないだろう」
白伊豆が私のことを見下すのは今に始まったことではないので、私も特にその程度の蔑みには動じなかった。
人形の顔をした男は続ける。
「まあ、話を聞くに、つまりこのままでは何の罪もない女性を悲劇に巻き込み兼ねないと裕さんは思い、それで危機感を感じた訳だな? 全く――呆れてしまうよ。どうして君たちはいつもそういう下らない話ばかり僕に持ち込んでくるんだ? 今年の一月だって会って開口この世に神はいるのかいないのか……そんなの僕が知る訳がないだろうに。少しは日の当たる会話をしたらどうなんだい。昭和天皇が崩御したとか平成と云う新しい元号になったとか。二月にはあの手塚治虫先生が死去したのに君たちはそんなのどこ吹く風だった。今年は他にも色々あったんだぞ。女子高生のコンクリート詰め殺人事件やら川崎では一億円が見つかった。四月には消費税が施行されたし、任天堂がゲエムボオイと云うものを発売した」
白伊豆は随分とうんざりした口調であったが、結局は哀れな先輩に救いの道を示そうとしたようだ。
「兎に角、性欲と現実を分けて考えるべきだね」
性欲と現実を分ける?
私は善く判らなくて――それにもう早く解放されたくて――口早にもっと判り易く云えと促した。私は寝不足なのか小さな頭痛を感じていた。白伊豆は小馬鹿にしたような含みを持った笑みを作り、だがすぐに無表情になり私から目を背けた。
景皇を一瞥しつつ彼は云った。
「裕さん、あなた自慰はするだろう」
景皇は口を半開きにして目を真ん丸にし、
「うん、する」
と云った。私は何故か嫌悪感を覚えた。
白伊豆は、それで善い、とか云いながら腕を組んで俯き加減に喋り始めた。
「いいかい。裕さん。あなたは即ち深層心理的に女性とお付き合いしたいのだ。それはあなたにとっての『現実』だ。そして女性を凌辱したいと云う気持ちは『性欲』であり、本来『現実』とごちゃ混ぜにして考えない方が善い。それで失敗する人間が多くて困るよ。この世には風俗店と云うものがあるだろう。あれは今僕が云ったところの『現実』ではなくて『性欲』なのさ。たとえばカップルを見て裕さんは嫉妬するのだろう?」
「う、うううん、まあ」
「嫉妬とは何だと思う? 実はこれは本来おかしな感情なんだよ」
「おい待て白伊豆。話が若干離れてないか?」
私は早いところ済ませたいのもあって、白伊豆のいつもの詭弁に付き合うつもりはなかった。しかし抑えられぬ性欲と云うものに対し、この男がどんな結論を出すのか全く興味がない訳でもなかった。
「靜、君も馬鹿だな。全然話は離れてなどいないさ。むしろこれは近道だ。それとも何だ、君はこれから用事でもあるのか? ないだろう。どうせ君は家で寝たいだけだ。しかしそれはあまり健康的とは云えないな。僕の話を聞いてその小さな脳みそに良識の一つや二つ詰め込んだ方が得だぜ?」
白伊豆は何もかもお見通しらしい。家に帰って寝たいことまで当てられた。私は少し逆らいたい気分を刺激された。毎回そうだ。私はこうやってこの天才に噛み付かされるのである。それを判って反抗する私だが、少し楽しんでいると云わねば嘘になろう。
「ああ、確かに僕はこれから用事などないさ。君と違って愛人もいないからな僕は。この夏も毎日眠り続ける予定だよ。しかし云わせてもらうがな、この休日に一人で喫茶店でコーヒー飲んでる君だって、十分に暇そうじゃないか。僕だけこぞって暇人だと云うのは心外だぞ」
「ははは。何を云ってるんだ、靜。僕は福祉の講義をとっていてね。その課題レポートを作成せんとこんな暑い昼間から外出しているのだよ。今は休憩中だ。ほら、この中で暇人は君だけではないか。ははは」
「レポート? 一体何のレポートだい?」
「福祉さ。近所に住むお年寄りを回っているのだ」
「何だ。今、本当に必要な物は何ですか、なんて聞いて回っているのか」
「おお! 昼行燈の君にしてはなかなかの推理だったぞ。その通りだ。まさしく今君が云ったようなことを調査しているのだ」
「昼行燈、ふふ、面白い」
景皇が笑った。
「お年寄りか。でも何処にお年寄りが住んでいるかなんて判らないだろう。家を外から見ただけじゃ」
「そういうところだ、靜」
白伊豆は突然諭すような表情になった。なんとなく彼の云いたいことは判っていた。
「君はいつでもそうだ。どうして後ろ向きなんだ? 家にお年寄りがいるかいないかなど、入って聞けばいいだけだ。君は人見知りで鬱気質だからそういうことが普通に出来ないのはそれこそ何年も前から知っているが、もういい年した青年なんだから改めろよ」
この喫茶店は冷房が効いているが、なんだか白伊豆の言葉を聞いていると頭がくらくらするようだった。この後は実に朧げだった。私はあまり何があったか覚えていない。ただ白伊豆がごちゃごちゃまくし立てていたのは記憶に残っている。
――違いますよ。
――裕さん、そうではなくてですね。
――隔てなくてはいけないのですよ。
――何でもかんでも一緒にしては駄目だ。
――クラムボン?
「そうだろう。靜。おい靜、なに寝てるんだ。具合でも悪いなら医者に診てもらえよ。ついでに精神の方もな」
「――ああ」
私の視界に、ぱあっと光が入り込んだ。それは私が顔を上げたからだ。どうやら学生のように机で眠ろうとしていたようだ。私は混乱した。一体どれくらいの時間が経ったのだ。喫茶店はそれなりに客を溜め込んでいるのか、声がざわざわと私の背中を通り抜けた。何故私は此処にいるのか、それすらうまく思いだせなかった。しかし隣の男を目にした途端、ほぼ全てを思いだして気が落ちた。
白伊豆は元気善く云った。
「それじゃあ行くか」
ど、こに?
景皇と白伊豆は立ち上がった。これから二人でどこかへ行くのか。それより待て。景皇の悩みについて答えは出たのか? なら帰っても――
「おい、なに座ってるんだ。昼行燈。行くぞ」
白伊豆は何を云ってる? 私はどこかへ行くのか――そうするより他ないのか。意味が判らない。ところでこの二人は何を話していたんだ? 寝ている時に微かに声が耳に入っていたが、もう忘れていた。
私は少し唸ってから、立ち上がって背伸びした。とりあえずテエブルに置かれた水を飲み干した。善く冷えていて旨かった。白伊豆の声が右から左に流れた。
「さあ、行こうか。イタチさんの所に」
私は何だか気怠かった。
古賀イタチは百歳を超える老人だと云う。
今回の白伊豆のレポート作成に協力してくれたらしい。何故、一度訪問したお年寄りの家にまた行くのか、私は聞いてみた。
「ん? そうか、君は寝ていたから聞いていなかったのか。まあ、つまりお知恵を拝借するのも兼ねて、様子を見に行こうと思ってね」
「お知恵とは何だ? どうして君だけでなく僕や裕さんまで行くんだ? それに、さっきの話はどうなった?」
私たちは炎天下の下、汗をにじませながら歩いていた。此処からそう遠くない団地に古賀イタチの家は在るらしい。それにしても歩くのは本当に嫌だった。
「靜、そう一度に幾つも質問しないでくれ。大体聞いてない君が悪いんだろう。家に帰れないからと云って喫茶店で寝るとはなあ。大したもんだよ。それより、君の持っているそれは携帯電話か?」
白伊豆はこちらを見ずにそう云ったから、どれのことかはすぐには判らなかった。
「その背負ってるやつさ」
「これはただのショルダーバッグだよ。それに、うちは携帯電話を買ってられるほど経済的に裕福ではないのだよ。君と違ってな。あれは保証金もやたら高いし、基本使用料も相当なものだぜ。それにショルダーホンなんて四年も前のを使うかよ」
「いやなに、妹に今晩の御菜を頼みたくてな」
それから私たちは口数少なく歩いていた。声を発するだけで疲れそうな暑さだったので、私もこれ以上追及するのは止め黙々と付いて行った。このまま帰るのは釈然としないので付いて行くしかなかった。
十五分ほどで、目的地にたどり着いた。側に竹の群れがある大きな屋敷のような家だった。敷地に足を踏み入れながら、白伊豆は云った。
「古賀さんとは一週間前にお話しさせてもらったが、いやはや、素晴らしき賢者だった。博識だよ。聞けばかつては禅宗の雲水だったらしいが、破門されたようだ。そのことについてはあまり深くは教えてくれなかったが。あ、そうだ」
白伊豆は突然立ち止まり振り返って云った。
「実は古賀さんはここが」
そう云って、白伊豆は自分の頭を指差した。脳に障碍があると云うことか。
「まあ、了承しておいてくれ」
そしてまた白伊豆は歩き出した。
玄関の前に立つと、二度ノックの音がした。私は玄関とは反対の方を見て、広い庭を見ていた。大きな土地を買ったものだ。さぞ金持ちなのだろう。しかし現役時代は僧だったと云う。私にはそれが儲かる仕事なのかどうか判らない。それはそもそも仕事なのか? 僧については詳しくない。
「おっと、君たちに云っておくことがもう一つある。いいか、中に入ったら一言も喋るなよ。ただし絶対とは云わない。兎に角、喋らねばならない状況に陥るまでは誰とも口を利かないでくれ。それと、なるべく足音は立てないで」
その意味不明な頼みごとについて私が尋ねようとすると――引き戸が軋んだ音を立てて開いた。
中から出てきたのは老婆であった。老婆と云っても腰は曲がっていないし、真ん丸眼鏡を掛けているわけでもない。だが髪は真っ白で、その表情にどこか疲労の色が感じられた。
「どうも、こんにちは。K大学文学部一年、白伊豆隼人です。この前はお世話になりました。後ろにいるのは同じ大学の友達です。レポートを手伝ってくれるみたいで」
老婆は、あらまあなんて云いながら白伊豆とこの前はああだこうだと世間話を始めてしまった。何も喋るなと云われている手前、会釈するだけに留めた私と景皇は蚊帳の外で、少し離れた所で話が終わるのを待っていた。私はここまで来ているのに、こうなった経緯を知らなかったので頼りない先輩に尋ねることにした。
「裕さん、その、どうしてここに来ることになったんだい? 僕は眠ってたから覚えてないんだが」
「ああ、おれの悩みが解決しなくてな。伊豆は善く頑張った。でもおれには判んなかった。それで、お前も寝てたから適当に雑談してた。そんで、思いだしたんだ。おれにはもう一個悩みがあった。悩みと云うか疑問だが」
そう云って阿呆が鞄からごそごそと取り出したのは、絵本だった。タイトルは「やまなし」とある。私はその絵本を知っていた。
「それは、宮沢賢治の『やまなし』かい。確か三年くらい前に出版された」
確か私は一年ほど前に読んだはずだが、あまり熱心に読まなかったので内容もそう詳しく覚えていなかった。あまり長い話ではなかったか。
「で、それがどうしたんだい」
私が云うと、景皇は徐々に徐々に泣きそうな顔に変わっていった。
「かぷかぷ笑うんだよ」
「は?」
「だからよお、粒が流れて死ぬんだ」
「何がだ」
「おい、二人とも」
白伊豆の声がした。景皇は今にも泣きそうな醜い顔で突っ立っている。一体何だ、この男は。
私の頭の中を何かが掠めた。もう少しで思いだせそうだ。
魚。蟹。かぷかぷ。水。光。
断片的な情景が、脳裏に再現される。
何か決定的なものを見落としている。私はそれを恐らく、極々最近、耳にした。
これは夢の――月、夜、イサド? ――夢の内容を思いだすのに酷似している。目の前を高速で一枚の写真が過ぎる。その写真には夢で見た一場面が鮮明に写っていて……
勿論、目で捉えるのは容易ではない速さだ。
結局、私は思いだしたい何かを思いだせないまま、屋敷の中に入っていった。
屋敷の中は何処も彼処も黒ずんで見えた。
しかしそれは錯覚で、確かに黒ずんだ部分もあったが、あまり窓がないから日が入らなく影が多いのが起因している。
私たちは老婆に引き連られて二階に行った。二階には幾つか扉が見えた。下の階とは違って大きな窓があり、真っ白な光が輝いていてどこか異様だが、私はこう云う異様さは結構好きだった。
「お爺さん、入りますよ」
老婆は嗄た声で中に呼び掛け、扉を軽く叩いた。中からは何も聞こえてこなかったが、老婆は扉を開けた。
中に入ると、古賀イタチ――と思われる老人がいた。禿げた頭、眼鏡。老人は椅子に座って何をするでもなく私たちを見ていた。
「この前の学生さんがまた来てくれたわよ」
老婆が云うと、老人は静かに笑い始めた。この年になると、来客があるだけで嬉しいのか、それとも白伊豆がよほど印象善く接したのかは知らないが、兎に角、上寿の老人は喜んでいる。
「それじゃ、つまらない話し相手でしょうが、ごゆっくりどうぞ」
老婆は部屋から出て行った。部屋には三人の学生と一人の老人だけとなった。
私は部屋を見渡した。
特に変わったところのない平凡な部屋だ。本棚があり机があり、ソファもある。テレビジョンはなかった。ラジオが棚の上に置いてある。しかし埃を被っているので長い間使っていないのが判る。クウラアが起動しているようだが、そこまで涼しくなかった。若者が欲する涼しさはこの老人には毒なのだろうか。下らないことを考えていると、白伊豆が声高々に云い放った。
「こんにちは、ご老体。今日も暑いですね」
老人はこめかみをぽりぽりと掻いてから、そうじゃなと云った。
「立ってるのもなんじゃ、座んなさい」
私と景皇はなるべく音を立てないように、軽く頭を下げてからソファに腰を下ろした。白伊豆は真ん中に座った。私は漸く老人を真正面からまじまじと見つめた。ぱっと見た分には八十歳くらいに思える顔だ。八十五歳ですと云われれば私は信じただろう。
老人の視線は遠くにあった。
「ご老体、お体の御機嫌は如何ですか」
「満足じゃ」
「そうですか。ところで今日は、御知恵を拝借したく参りました」
老人はふぉっふぉっふぉと笛の音のような声で笑った。
老人はしきりに右の手の甲を左の掌でさすっている。同じ動作を延々と繰り返している。
これは障碍からくる行為だろうか。
「実はですね、性欲と云うものについて、どういった解釈を成せば善いのかと友人に相談されまして、どうやら性欲を抑えられぬと云うのですよ」
景皇は申し訳なさそうに薄ら笑いを浮かべながら会釈した。私はこのような汚らわしい話題をこの老人に振る白伊豆の精神を少し疑った――と云うか、自分のことでもないのに恥ずかしくなった。
「ほっほ、面白い。性欲か。どれどれ」
「僕は、性欲と云うのは一種の娯楽的要素として捉えるべきだと云いました。即ち、自慰で満足できれば善いと思えるようになる寛大な精神を有すれば善いのだと」
「ふむ、間違っておらんよ」
「だが友人はどうしてもそれでは腹の虫が収まらないと云うのです」
「白伊豆君だったかね。君の示した道はあながち間違っとらん。だが精神力のない者にそれを遂行しろと云うのは酷だのぉ」
「そうですね」
老人は少しの間を開けた。
「かつて儂も、性欲と云うものに悩まされとった。仮にも仏教徒であるから、仏陀様の教えは守らないかんでな。厳しい修行を積んで欲界から解放されるに至った経験もある。瞑想には不邪淫戒が前提じゃ。苦しみから解放されるには方法は色々ある。儂は禅を開く道を採っただけじゃ。禅那の心境に至る妨げになってしもう性欲はやはり禁ぜねばならなんだ。だが儂はいずれそれが比丘の安穏快楽と思わなんくなった。確かに性欲への執着がある限りは色界へは至れん。じゃが儂はそんなのいずれどうでも善ぅなった。結局は儂は己個人の幸福を追求していただけの偽なる求道者でしかなかったのだ。この世の苦しみから逃れようと云う目的そのものが儂には不遜に思えての。目的と云う言葉そのものが傲慢で捨てるべき態度だと思ぅた。理由と云う言葉もまた然り。儂らはそもそもにおいて無知じゃ。判った気になっても本当は何も知らないのじゃ。だから何を語ろうとそれは空に向けた絵具と同じよ」
最後の方は少し荒かった。その辺りに曲げられないプライドがあるのだろうか。私は妙な威圧感を老人から感じていた。
白伊豆はじっと構えた態度で喋り出した。
「なる程。善く判りました、ご老体」
私には判らなかったが、この人形には今の老人の言葉が理解出来たらしい。
「僕もたまにそういう気持ちになりますよ。しかしそればかりでは苦しくないですか? あなたはどこに生きているのです?」
「苦しみ……か。苦しいのぉ。それは確かじゃな。儂は皆に蔑まされ破門してからは、それはそれは辛い日々を送った。この世の何もかもが信じられんくなった。結局今までしてきたことは虚しかったと気付いたのじゃ。儂はどこにも生きていなかった。死んでいたのじゃ」
老人は自らの過去を呪っているように私には思えた。その理由が何なのかは、まだ判らない。
「自ら世界を見限り、自分で不幸な場所に歩み寄り、儂は障碍を授かった……」
老人は自身の障碍について自覚があるようだ。私は少しこの元坊主を見る目を変えた。自分に障碍があることを自覚する感覚とは一体どんなものなのか、ちょっとだけ興味が湧いた。
今度は白伊豆の番だ。
「やはり、あなたは百歳を超えてもそちら側におられるのか」
「何?」
私は何だか不穏な空気を読み取った。この展開はどこかで遭遇したことがある。
「確かにこの世は無常です。それは僕が云うよりあなたが一番に理解しているはずです。苦しいと云いましたね。それは破門が原因です」
「白伊豆君、この世の物事に単純に一言で表せる理由や原因は存在せんじゃ」
「その通りです。だからこそ苦しむ必要などない」
「……それはどう云う意味じゃ?」
そうだ。私は知っている。白伊豆隼人と云う男は、たまにこう云うことをする人間だ。私は過去に何度もこの男が人間一人の既成認識を論破し正常な道へと導くのを見てきた。初めて会った時から古賀イタチを救うと決めていたに違いない。しかしこの老人は今までで一番の強敵だと私は思う。何かを完全に信じ切った人間なら、それを完璧な論拠で否定してやれば大抵はすぐに落ちる。この老人は何も信じていない。固執するものがないのだ。どうするのだ、白伊豆――
「あなたは自分で思うほど自分の価値を判っていません。あなたは非常に素晴らしい人間です。前回お話させて頂いた時はあなたの博識振りに驚かされた。あなたは賢者ですよ」
「……おっほっほ、元気な小僧のぉ」
私は不意を突かれ目を見開いた。老人はにんまりと笑って目を瞑っている。
「儂を諭す気か。何が目的かは知らないが余計なお世話よ! おっほっほ」
声の質が変わっていた。私は怖くなった。別人のようだ。先ほどまでの御淑やかな老人はどこへ行ったのか。
「やっと出てきましたか」
白伊豆は安堵するようにそう云った。出た? 何がだ。
「小僧、また会ったのぉ。儂に何か用か」
「ええ、聞きたいことがあるのですよ。ご老体」
「云ってみろ」
「クラムボンとは何ですか」
私は唖然とする暇もなく、もはや何も考えられなかった。
老人は立ち上がり、掠れた声で騒いだ。
「そ、その名を儂の前で口にするな!」
老人の見開かれた瞳を見て、私の背筋は凍りついた。真っ黒。
真っ黒な目だった。さっきまでは薄くしか開いていなかったから気が付かなかったのだ。私は絶句した。
「ご老体。あなたは破門されたことを恨んでいるのですね。他を恨む気持ちこそ自身を不幸に引き摺る根源! それを判っていながらあなたは認めたくないのでしょう。だから釈然としない束縛感があなたを襲うのです」
白伊豆も立ち上がっていた。
老人は激しく呼吸し、顔が赤く変色している。
「こ、小僧、それ以上は何も云うな」
「逃げないで下さい。またあの人が出てきますよ! あなたは本当の自分と向き合いたいのでしょう。誤魔化すのはいい加減にして、自分の過ちを認めるのです。あなたならできます」
「うぐぅ」
「古賀イタチさん!」
そして老人は見たこともないほど大きく開口し、恐ろしい声を出した。その声を聞いてやってきた老婆が老人を布団に寝かせ、私たちは屋敷から出ることになった。
外に出た私はほとんど慌てていて、もはや錯乱していたと云っていい。
「し、白伊豆! 一体……」
――クラムボンとは何ですか。
――クラムボン
思いだした。
私の中でずっと引っ掛かっていたのは、これだったのだ。
「一体、クラムボンとは何なんだ!」
読んだときの情景が目に浮かんだ。無論、それはインスピレイションから発生した私の妄想だが――兎に角、私は読み終えて思ったものだ。
クラムボンとは何なのだと。
景皇は呆然としていてやはり頼りなく、白伊豆は屋敷を見つめていた。
私たち三人は昼間の喫茶店に再度足を運んだ。他に行く場所もなかった。
老人は眠りに就いたらしい。今日はもう話せないと云うことだった。
私と景皇は説明を求めた。あれでは意味が判らな過ぎる。
天才は澄ました顔でアイスコーヒーを口に運んでいた。
「僕はただ単に裕さんの疑問に答えるためと、古賀さんを苦しめる概念を彼から取っ払うためにあの屋敷に出向いただけさ。君は無関係だよ、靜」。
「無関係だと? 僕を起こして来やがれと云ったのは君だぞ」
「あれは君が暇そうにしていたからさ、どうせ帰っても寝るだけの男を善意で誘ったのだ。それに来る来ないは君の自由だ」
「善意とは何だ。あの屋敷で起こったことのどの辺に君からの善意を感じればいいんだ?」
「昼行燈の君がいつになく喋る日だな」
白伊豆はあからさまに嫌そうな顔をした。説明するのが面倒だと云いたげな顔だ。
私は喰ってかかることにした。
「おい、白伊豆! 僕が不安症なのは知ってるだろう。このまま何の説明もなしでは胃に穴が開くのも時間の問題だ。眠れないよ、いくら僕でも」
白伊豆は大いに笑った。
「はっはっは。そうかそうか。いくら君でもか。仕方ない。説明してやってもいいが……一体、君たちは何が判らないんだ? 僕にはそれが判らない」
この男は常にひとつ上の次元に身を置いている。だから会話がかみ合わないのはいつものことだ。しかしここまで意味不明な事象の繰り返しではさすがの私も落ち着かない。
「だから、何もかもだよ。クラムボンとか性欲とか、あの怪しい爺さんやら、いちから説明してくれないか」
白伊豆は少しの間を置いてから、まず景皇に向けてこう云った。
「裕さん。疑問は解消されたかい」
私の隣の大男は、首をぶんぶん振った。否定している。目の前に座る人形は、次にこう云った。
「では、性欲については?」
景皇は少し考えてから首を縦に振った。肯定している。しかしどこかぎこちない。完全に納得した訳ではないと云うことか。
「そうか。まあしかし、何となくは判ったのだろうね」
「ああ。少しな。難しいんだな。欲は抑えなきゃな。おれにはまだ考えるのは早い話だったみたいだな。有難う、伊豆」
「礼には及ばないよ。ま、性欲は自慰で処理できる下らないものだと思えば善いのさ。それに人間はそこまで忍耐力のない生き物じゃあない。いいかい、人間とは耐え忍ぶことが唯一他の動物と違い成せるのだ。裕さんにもできるさ。現にまだ犯罪だって起こしていないだろう。あまり思い悩むことはないさ。さて、それで……」
白伊豆は私を上目遣いで軽く睨んだ。
「あの爺さんが気になるか、靜」
「ああ」
古賀イタチ。私にとって最も興味のある要素である。
あの豹変ぶりに、白伊豆のクラムボンについての質問への動揺。
コップに入った水を一口飲んだ。
「さっきも云ったが、僕は裕さんの質問に回答するためと、古賀さんの精神異常を少しでも癒したくて屋敷に赴いたのだ」
「精神異常だったのか? 脳の障碍ではなく」
「奥さん――あの婆さんは脳に障碍があると云っていたな。ただ医者に診てもらった訳でもないらしく、それが本当に脳障碍かは判らない。婆さんが云ってるだけかも知れない。僕が初めて会った時は――精神の異常だと思った」
私には脳障碍も精神異常もそう大差ないように思えたが、不用意な発言は慎まないと白伊豆に怒られそうだったのもあり、あえて言及しなかった。それに私はそっちの知識に詳しくない。それは多分、この男も同じはずだ。
「君もその目で見たから判ると思うが、彼には人格が二つあるのだ」
その言葉を聞いた私は――頷けないでもなかった。
確かに老人は或る時を境に豹変したように見えた。
「二重人格か?」
「正確には解離性同一性障害と云う。僕も専門家でないから詳しくはないが、まあ、君が想像する二重人格だと捉えて問題ない」
「どう云った人格とどう云った人格なのだ?」
「即ち、開き直った人格と、自身を弁護する人格だ」
判らない。説明を聞くより他ない。
「普段の古賀さんは、どっちだと思う?」
「それは君、豹変してしまう前の彼が通常なのだろう。それが弁護する方か開き直った方かは知らないが」
「違うよ。僕たちが最初に会った古賀さんこそ、通常でない方の彼だ」
「なに?」
急に足場がなくなった感覚を覚えた。
白伊豆は至って平坦な表情で続けた。
「僕が初めて訪ねたとき、彼は来客がよほど嬉しいのか、本当に色々なことを話したよ。彼の人生の大体は判った気になってしまうほどね。そこで僕は、彼の半生を知りあることに気付いたんだが」
そこで白伊豆は景皇を一瞥したが、すぐに視線を泳がした。
「まあ、これは後でいい。兎に角、彼の人生はなかなかに興味深かったわけで、僕は独自に古賀イタチと云う人物についてこの一週間余り調べてみたのだ。それで予感は確信に変わったのがまさに今日だ。そこへ君たちがふらふらと姿を現した」
奇麗な肌をした美青年はコーヒーを一口飲んだ。
私も水を飲んだ。
「何かの偶然かと思ったよ。いや、偶然なんだが、偶々だ。まさか裕さんがあんな質問をするなんてね」
あんな質問?
一体何のことだ。
「おい、白伊豆――」
「クラムボンとは何か――ってね」
私はまたしても気を落とした。どうしてその単語ばかり出てくるのか。元坊主とクラムボンに一体何の因果が存在すると云うのか。苛々はクラムボンと聞く度に蓄積した。
「さて、勘の善い靜ならもう判る頃合いかな。既に役者は揃っているぜ」
嫌味が好きな男はにやにやしながら私を見た。悔しいがまだ謎は解けそうにない。
「くそ! もったいぶらずに教えろ! 白伊豆」
「まぁ待て、昼行燈。順序が重要なのだ」
「クラムボンとは何なんだ! 君はその答えを知っているのか」
「知っているさ」
白伊豆はどこまでも落ち着いた――威厳のある声でそう云った。
私は限界に達しようとしていた。
「判った。認めるよ。僕は馬鹿だ。昼間に提灯灯しても役に立たない昼行燈の林靜潤だ。ほら、この通りだ。これでいいだろ? なぁ、もったいぶらずに教えてくれないか」
しかし、白伊豆は相変わらずのとんとん拍子だった。
「落ち着けよ。どうして君はいっつもそうなんだ。それだから阿呆に拍車がかかるのだ。男ならもっと弁え賜え」
率先して卑下したにも拘わらず、私の願いは聞き届けられなかった。いい加減私も順序とやらを重んじることにしてみた。
私がテエブルに突っ伏すと人形の声が響いた。
「クラムボンの話は一旦置いておこう。古賀イタチ。彼の辿った人生は簡単にまとめるとこう云うことなんだ。大乗仏教禅宗の雲水であった彼は、かなり優れた修行僧だったようだ。彼を知る御坊さんに聞いた。しかし優れていた筈の古賀さんは、ある時から修行を疎かにし始めた。問い詰められた彼は告白する。彼の言い分は、さっき屋敷で聞いた通りだ。信仰を止め、無神論者となり修行自体を否定した彼は当然破門され、孤独になった。それでも彼は修行が面倒になり不貞腐れていたのではない。それは間違っていると本気で説いた。必ず賛同してくれる者がいると信じて。それは誰より信仰の厚かった彼にしか出来ない云わば革命。彼は救いのつもりで反仏教を唱えたのだ。しかし、いかに優秀な者の発言であろうと、さすがに判りました信仰は今日限りで止めますなんて坊主はいる筈もない。彼は独りになってから長い間絶望していた。その絶望も根源的には精神性の高い救済心があってこそのものだ。この点に於いて彼を否定することはできないと僕は思うね。兎も角、それから彼がどうなったかと云うと、要するに精神を病んでしまったのだ。病んだのは己のしたことが間違いだったと気付いたからだ。だから、それ以上心を傷付けないためには、必要だったのだ」
――もうひとつの人格。
「そして生まれたもうひとつの人格は、徐々にそちらの人格でいる方が通常なのだと云わんばかりに長い時間を独占した。全ては己の精神安定の無意識的な作用のためだ。そして古賀さんは、さっき屋敷でも云っていたように、ある障碍に見舞われた」
……今、何と云った?
私は顔を上げた。
「おい、どう云うことだ? 障碍と云うのは、精神異常のことだろう」
その筈だ。きっと白伊豆の云い間違いだ。
「……君たちは、僕があれほどお膳立てしたのに気付かなかったのか」
何だ、何を云っている――
「障碍と云うのは、白――」
「古賀さんは盲目と云う障碍を患っているのだ」
「な、んだ、と」
私はさぞかし間抜けな面だったことだろう。
まさか、しかし、まさかそんなことは……
「あっ」
そういえば、白伊豆は屋敷に入る前、私と景皇に意味不明な忠告をしていた。足音を立てるな、可能な限り話すな、
そういうことか。
あれは白伊豆以外には客はいないと老人に思わせる布石!
事実、老人は私と醜男の存在について一切言及していなかった。考えてみれば不自然だ。しかし、盲目であるとは思わなかった。
「古賀さんは自身の解離性同一性障害についての自覚はまるでない。今日話した際に障碍を授かったと云っていたのは」
「盲目のことだったのか」
「そう」
私は、古賀老人は自分が脳障碍であることを自覚していると云う誤った認識をしていたわけだ。白伊豆が私と景皇の存在を隠したかったのは、老人に要らぬ気配りをさせず、あくまで一対一の話し合いを認識させたかったからか。
更に美青年は続けた。少し抑揚のある声で。
「そのことを知ったかつての仲間坊主たちは、教えに背き、侮辱した天罰が下ったと――」
「そんな! 古賀さんは仏教を侮辱してなどいないだろう」
「今から五十年以上も昔の話だ。言葉一つで捉え方もまちまちだ。そういう誤解をされたのは仕方のないことだったのかも知れん」
自身の考えは受け入れられず、破門され絶望し、盲目になりそれは自業自得の天罰だとかつての仲間に蔑まされる。私はあの老人の悲しさを、この話を聞くまで誤解していた。
「そんな過去があったとぁなぁ」
景皇が呆けた声で呟いた。
喫茶店の客並みはまずまずと云ったところだった。
心地善いざわつきが私の鼓膜を撫でている。そのことに意識するまで気付かなかった。
白伊豆はアイスコーヒーをぐいっと飲み干すと、景皇の顔を見て云った。
「裕さん、もう、判ったろ?」
景皇は首を傾げ、もごもごと唸りだした。どうやらクラムボンの正体が何なのかはまだ判らないらしい。無論、さっきから頭の片隅で私も考えているが、全然判らない。
ここまでの話の流れでクラムボンの正体など判る道理がない。
天賦の青年は最後の引き金をどう引くのか。
とても興味が湧いた。
「さすがにここまで云えば、すべての謎は解決したはずだぜ。なぁ靜。ほら、裕さん。判ってないのはあなただけみたいですよ」
「皮肉は止めろ、白伊豆。それで、どうしたら今の話でクラムボンの正体が判るんだい。大体、君の云うクラムボンとは宮沢賢治の『やまなし』に出てくるあのかぷかぷ笑って殺される奴のことなんだろうな」
「当たり前さ。正真正銘、そのクラムボンのことだ。僕の話を聞いていればその正体が判るはずだ。判らないならただの馬鹿だ。全く救いようのないね」
「お前、裕さんに失礼だろう」
「いや、おれ、馬鹿なのは認めてるよ」
景皇が恐ろしい笑みを見せて、私は何故か喉の渇きを覚えた。
ふう、と人形は息を吐いた。
私は少し身を乗り出した。
「可哀相だから、単刀直入に云おう」
私の鼓動は――特に高鳴りはしなかった。
人形は口をゆっくりと開いて、
云った。
「古賀イタチこそクラムボンの正体なのだ」
私は一瞬、停止した。
そして稼働するまで、少し時間を要した。
く、ら、
古賀、古賀――
イタチがクラムボン?
止せ。
何を
「何を云うんだ君は」
私は精一杯の言葉を発した。これが私の到達した感想を言葉にした臨界点だった。
白伊豆はやっぱり――澄ました表情だった。
「靜、どうしたんだ。ハトが豆鉄砲でも喰らったような顔をして」
「あのな、白伊豆。君お得意の焦らしはいいが、こればかりは信じようにも信じられんぞ」
あの老人がクラムボン?
意味が判らない。
これは白伊豆の性質の悪い御ふざけか?
「その顔は似合ってるぞ。ああ、君では理解の許容をまたしても超えてしまったのか。まぁ無理もない。僕は初めから期待していないさ」
「悪ふざけなら勘弁してくれよ」
「はっはっは! これまで僕が悪ふざけなどしたことがあるかい? ないだろう、靜!」
「判った。では順序善く説明してくれ。そうしたら納得できるかも知れない」
「そおだ。順序だからな、大切なのは。判ってきたじゃないか」
白伊豆は満足げに頷いていた。
そして今度はジュースを飲みながら語り始めた。
「古賀イタチさんは――君たちにどう映る?」
――始まった。
私は内心小躍りした。
景皇が答えた。
「可哀相だ」
「ふむ」
頷くと、既に美青年は私に視線を送っていた。お前はどうなんだと尋ねる視線だ。
「そうだな。少し悲劇だが、全く彼に非がない訳でもない。だから一概に同情するとは云えないな」
「なる程ね。では質問を変えよう。彼はどんな状態だと云えるかな」
状態?
「……目が見えなくて、精神も不安定だ。心的負担も大きいだろうし、善い状態とは云えないな」
「そうだね。もっと簡単に云うなら?」
私は少し考えた。私が答える前に景皇が云った。
「可哀相だ」
白伊豆は困った顔をした。結局、私は何も思い浮かばず、美青年は溜め息混じりに結論を出した。
「だからさ、彼は『眩んで』いたのだよ」
「眩んで?」
「そうだ。いいかい、これは案外大したことのない、つまらない話だ。だから説明するのは嫌なんだがな。どうして君たちは気付かないんだ」
またお得意の焦らしか。
「おい、白伊豆。もうそういうのはいいから、結論を云ってくれ。いい加減、疲れたんだ」
これは私の本音だった。白伊豆はにやりと笑みを作ると、しょうがないなぁと云って、前髪を弄りだした。
「クラムボンと云う言葉はね、語源があるのだ」
「え」
そんなこと考えもしなった。予想外の角度から飛び込んできた打撃が、私の頬を直撃した。
「クラムボン……くらむぼん……眩む坊」
「三回もクラムボンと云われたって判りぁしないよ」
私はショルダーバッグから紙と鉛筆を取り出した。
「おお、昼行燈の割には準備が善いじゃないか。感心したぞ」
「君はいつも手ぶらだからなぁ。何か持っててもポケットに財布くらいだろう」
「何を云う。ハンカチも常備しているぜ」
そうこう云う内に白伊豆は「眩む坊」と書いていた。
私は目を疑った。
「君、まさか、これが『クラムボン』と読むのだなんて云わないだろうな」
「おお、今日は意外に冴えてるな、昼行燈」
そんな馬鹿な話があるか。
私は呆れた。
「眩む坊」とは眩む坊主、眩む僧を差している――そんな子供騙しのようなことが……
「視力を失った古賀さんは、その志こそ不遜と云う認識が植えつけられていた上に、目が見えない、つまり二つの意味で眩んでいると云われたのだ」
「目が見えないと云うことと、反仏教と云う思考が誤った判断を下していると云う意味でか」
「そうだよ」
それで時が経過するにつれ、眩む坊主は眩む坊、クラムボンと呼ばれるようになったと云うのか?
それは本当か? 誰かのでっち上げに思えてならない。
「クラムボンは僧たちの間だけで広まったと云っていい。それなりに有名な事件だったからね。しかし古賀イタチは彼らからすれば既に反勢力も同然だ。そのクラムボンと云う言葉は伝播し過ぎたものの、いっそ禁句にしようと云う極秘のタブウが自然に発生したのだ」
「誰から聞いたんだ。タブウなら君にも話さないだろう」
「僕のコネクションを見縊らないで欲しいな。それなりに権威を持った御坊さんに聞いたのだ。嘘を吐くような人ではない」
確かにこの皮肉屋のコネクションは侮れないものがある。私はそれをこの四年余りの付き合いで知っていた。
しかし。
「それでは何だ。あの宮沢賢治の『やまなし』についてはどう説明するのだ。まさか、宮沢賢治は古賀イタチのことをモチーフにあの短い話を書いただなんて――」
「云うのだよ。靜」
――嘘だろ。
私は無論、すぐには信じられなかった。どこかで否定したい気持ちが強く働いた。そうでなくては、薄気味悪いではないか。何なのだ、クラムボンとは!
人形のように奇麗な顔をした青年は、しかし澄ましている。
「勿論、さすがの僕も宮沢賢治とは何の繋がりもないが、一説に、彼は頼まれて書いたのだと云われている。都市伝説的な存在となったクラムボンがいつ宗教世界を超えて伝播するかは判らない。身内から出た不祥事はなるべくなかったことにしたいのだ。そこで世間に名の通った宮沢賢治にコンタクトを取れる僧がいて、クラムボンの抽象化を狙い、『やまなし』の制作を依頼したと……おっと。これはあくまでも聞いた話だ。その辺がどうも曖昧で、完全な証拠などない。あっても揉み消される思うがね。なんせこれはタブウだ」
それからどうでもいい雑談を小一時間ほど交わした私たちは、もうすぐ日も暮れると云うことでそれぞれの帰路に着いた。
西日が沈みかけている。
夏の日の暑い一日は、今日も終わりに近付いていく。
橙色の光が視界に映る色んな物に反射している。私はこう云う景色は好きな方だ。
帰宅途中に白伊豆の実妹、白伊豆悦子に出くわしたので、途中まで一緒に歩いた。
「そういえば白伊豆の奴が君に買い物を頼んでいたよ」
「どうせそんなことだろうと思ってさっき買ってきた帰りなんですよ。この買い物袋見えなかったんですか?」
そう云って悦子は笑った。
「じゃあ、悦っちゃん、またね。捻くれ者の兄貴に宜しく云っておいてくれ」
「さようなら。こんど遊びに来てくださいね」
兄と似た奇麗な妹と別れると、私は独り、家に向かって歩いた。
ふと、老人のことが脳裏に浮かんだ。
クラムボン……か。
私は意味もなく笑った。
西日はもう……――
(了)