温かいうちに、お召し上がりください
無愛想な番頭さんが、静かに世話を焼いてくる話です。
疲れている時に読む、温かいスープみたいなお話を目指しました。
よろしくお願いします。
朝の市場通りは、まだ半分眠っている。
魚屋の桶から跳ねた水が石畳を濡らし、青果店の親父が欠伸混じりに木箱を蹴り寄せる。その横で、花売りの娘が頬を真っ赤にしながら朝露のついた花束を並べていた。
ナオミは店の扉を押し開け、小さく肩をすくめた。
「……寒」
春になったとはいえ、朝の空気は容赦がない。
首元へ入り込んできた風に眉をしかめながら、店先へ黒板を出す。
『本日のスープ 豆と玉ねぎ』
白い文字を書き足す指先が少しかじかんでいた。
通りからほんの少し離れただけなのに、この店の前だけは妙に静かだ。
それが好きだった。
騒がしい市場の帰りに、ふっと肩の力を抜ける場所を作りたかった。
木の椅子。花茶。素朴な焼き菓子。
大きな夢ではない。
ただ、疲れた人が黙って座れる店。
そういうものが欲しかった。
もっとも、理想と帳簿は仲が悪い。
「高ぇな」
「茶なんかに銀貨かよ」
「腹にたまるもん出せよ」
開店した頃は散々だった。
今でも毎月、帳簿を開くたび胃が重くなる。
それでも少しずつ、常連は増えた。
昼過ぎになると、買い物帰りの女たちが一人でやって来る。
本を読む人。
ぼんやり窓の外を見る人。
何も喋らず、冷めかけた茶を両手で包んでいる人。
ナオミは、そういう沈黙が嫌いじゃない。
誰にも急かされずに休む時間が必要なのは、自分自身が一番よく知っていた。
裏口が控えめに二度鳴った。
「はい」
扉を開けると、朝の冷気と一緒に大きな木箱が滑り込んできた。
「おはようございます」
低い声はエドガーだった。
茶葉や小麦を扱う大商家の番頭で、週に一度、この店へ仕入れを運んでくる。
長身で、無愛想。
表情がほとんど動かない男だ。
なのに市場では妙に顔が広い。
魚屋の親父にも、頑固な鍛冶屋にも、なぜか好かれている。
「重そうですね」
「重いです」
真顔で返されて、ナオミは吹き出した。
「少しくらい冗談を覚えたらどうです」
「仕事が増えます」
エドガーは淡々と箱を運び込み、棚の横へ寸分違わず揃えて置く。
その几帳面さは、もはや怖い。
「茶葉、また上がってます」
渡された納品書を見て、ナオミは眉間を押さえた。
「うわ……」
「減らしますか」
「減らしたらばれます」
「数グラムですよ」
「ばれるんです。うちのお客さん、変なところ鋭いので」
エドガーは「そうですか」と頷いた。
そのくせ、帰り際に小さな紙包みをカウンターへ置く。
「葉が割れてます」
「またそれ言う」
包みからは、上等な茶葉の香りがした。
売れ残りなわけがない。
「番頭さん」
「なんでしょう」
「それ、絶対わざとでしょう」
「何がです」
顔色一つ変えない。
本当にずるい男だと思う。
☆
昼過ぎ。
客足が途切れ、ナオミは厨房の丸椅子へ腰を落とした。
ふくらはぎがじんじん痛む。
朝から立ちっぱなしだった。
鍋に残ったスープをよそい、一人分だけ卓へ置く。
少し冷めて、表面に薄い膜が張っていた。
忙しい日は大体こうなる。
一人で食べる食事は、温かいうちに食べ損ねる。
「休めばいいのに」
背後から声が降ってきた。
「うわっ」
振り返ると、エドガーが客席の椅子を逆さにしていた。
「帰ったんじゃ」
「これ、脚が緩んでます」
確かに少しぐらついている。
エドガーは店の隅の工具箱を勝手に開け、慣れた手つきでネジを締め始めた。
長い指が器用に動く。
「……番頭さんって、なんでもできますね」
「雑用係なので」
「便利」
「便利扱いはやめてください」
低い声に、少しだけ不満が混ざる。
ナオミは笑いながら、鍋へもう一つ匙を入れた。
「食べます?」
「仕事中です」
「私もです」
エドガーは少し黙ったあと、観念したように椅子へ座った。
向かい合って湯気を挟む。
それだけのことなのに、店の空気が少し柔らかくなる。
「……美味しいです」
「冷めてますけど」
「温かいですよ」
その言い方に、なぜか胸が詰まった。
☆
雨の日は客が少ない。
窓を流れる雨粒をぼんやり見ているうちに、ナオミは帳簿へ突っ伏したまま眠ってしまっていた。
目を覚ます。
店内は薄暗い。
床を擦る音だけが静かに響いている。
エドガーが入口を雑巾で拭いていた。
「……何してるんですか」
「滑ります」
「それ私の仕事です」
「あなた、転びそうなので」
淡々と言う。
まるで当然みたいに。
だから困る。
「番頭さん」
「はい」
「若い子に人気あるでしょう」
雑巾を洗う手が止まった。
「急に何です」
「この前、市場で聞きました」
「……知りません」
「若いっていいですね」
何気なく言ったつもりだった。
だがエドガーは、こちらを見る。
「あなたは」
「私はもう、そういう年齢じゃありません」
冗談めかして言ったのに、妙に静かな声になった。
雨音だけが続く。
エドガーはゆっくり雑巾を絞った。
「誰が決めたんです」
「え?」
「そんなこと」
低い声だった。
怒っているわけでもないのに、妙に強かった。
ナオミは言葉に詰まる。
エドガーはそれ以上何も言わず、また床を拭き始めた。
だがその横顔を見ていると、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
☆
翌週。
エドガーは来なかった。
代わりに若い使用人が荷物を運んできた。
「番頭、熱出しまして」
「熱?」
「いやあ、働きすぎなんですよあの人」
へらへら笑って帰っていく。
店の中が妙に静かだった。
重い樽を運ぶ背中がない。
帰り際に扉を確認する靴音もない。
いつの間にか、毎週ここに来るのが当たり前になっていた。
ナオミは閉店後、一人でスープを温めた。
ぐつぐつと小さな音を立てる鍋。
湯気が立つ。
なのに店は静かだ。
匙を持つ手が止まる。
一人分の食事は、どうしてこんなに味気ないのだろう。
ナオミは小さく息を吐き、立ち上がった。
☆
商家の裏手は薬草の匂いがした。
「番頭なら奥ですけど」
店番の少年に言われ、ナオミは扉を開ける。
エドガーは椅子にもたれていた。
髪が少し乱れている。
いつもきっちりした男だから、その姿だけで妙に弱って見えた。
「……起きてますか」
「ナオミさん?」
少し掠れた声。
「熱は」
「下がりました」
「嘘ですね」
机へ器を置く。
湯気がふわりと広がった。
エドガーはじっとそれを見る。
「店のものでは」
「そうです」
「高いやつですよね」
「あなたには出します」
言ってから、急に恥ずかしくなる。
エドガーは木匙を持ったまま動かなかった。
「店は」
「閉めました」
「暇ではないでしょう」
「暇じゃありません」
仕込みも残っている。
洗い物もある。
明日のパンの準備も。
それでも来た。
来たかった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがてエドガーは、ぽつりと言った。
「……嬉しいです」
熱のせいか、いつもより声が柔らかい。
「番頭さん」
「はい」
「ちゃんと食べました?」
「昨日は少し」
「少しじゃ駄目です」
ナオミは呆れながら、持ってきた布包みを押しつけた。
「パンもあります」
「……怒られてます?」
「怒ってます」
エドガーは少し黙り、
それから、ほんの少しだけ笑った。
その顔を見た瞬間、
ナオミはたぶん、自分はこの人が好きなのだと思った。
☆
春の終わり。
新しい茶葉が届く。
「今年は香りがいいです」
箱を開けながらエドガーが言う。
「番頭さん、前より喋りますね」
「店主がよく喋るので」
「私のせいです?」
「多分」
軽口を返されて、ナオミは笑った。
エドガーは箱を閉じると、珍しく帰ろうとしなかった。
「ナオミさん」
「はい?」
「今日の閉店後、時間ありますか」
「仕入れの話です?」
「違います」
短い返事。
だが、その声は妙に真っ直ぐだった。
ナオミは瞬きをして、それから笑う。
「お茶くらいなら淹れますよ」
「……夕食も」
「え?」
「今日はちゃんと温かいうちに食べてください」
呆れたように言われて、ナオミは吹き出した。
窓の外では、夕暮れの市場に灯りがともり始めている。
私と彼の日常の小さな世界。
けれど。
冷める前に食べてくださいだとか、
今日は休んでくださいだとか、
そういう小さな言葉を積み重ねながら、
この人と歳を取っていくのかもしれないと思った。
それはきっと、悪くない。




