第九章:夜を越えるということ
夜は、逃亡者に平等だった。
廃屋の地下。崩れかけた壁と、湿った土の匂い。
アリスは外の音に耳を澄ませながら、エリスを毛布の上に横たえた。
「……寒い」
その声は、昼の戦場で聞いたものとはまるで違っていた。
強制された命令も、冷たい照準もない。
ただ、壊れかけた一人の人間の声だった。
エリスの身体が震え始める。
薬が切れかけている――それは、見れば分かった。
発汗。呼吸の乱れ。焦点の合わない瞳。
そして、時折走る、強い痛みに耐えるような身の強張り。
「大丈夫……ここにいる」
アリスはそう言って、エリスの手を取った。
逃げ場はない。医者も、薬もない。
あるのは、夜が明けるまでの時間と、二人だけだった。
エリスは何度も息を詰まらせ、そのたびにアリスの手を強く握り返した。
まるで、そこだけが現実につながる唯一の場所であるかのように。
「……ごめんね」
かすれた声が、闇に溶ける。
「何がだ」
「……生きてて……こんなふうで……」
アリスは答えなかった。
代わりに、エリスの額に触れ、ゆっくりと呼吸を合わせた。
吸って、吐いて。
それを繰り返す。
夜は長かった。
何度もエリスはうなされ、何度もアリスは名前を呼び続けた。
逃げることも、戦うこともできない時間。
ただ、一緒に耐えるしかない時間。
その中で、アリスは理解する。
自分はもう、「守る姉」ではいられない。
この少女は、守る対象ではない。
共に生きると決めなければ、明日には辿り着けない存在だ。
夜明け前。
エリスの震えが、ようやく収まった。
眠っているのか、それとも気を失っているのかは分からない。
ただ、その手は、まだアリスの服を掴んだままだった。
アリスは、その手を外さなかった。
姉妹という言葉では足りない。
だが、別の名前も見つからない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
――もう、離れない。
それは誓いであり、呪いであり、
そして、二人が選び取った唯一の未来だった。




