番外編⑦ 変わりゆくもの
その日から、イルゼ様の執務室の雰囲気は大きく変わった。
私は魔道書から目線だけを上げて、こっそり室内の様子を伺った。イルゼ様とエリック様はいつも通り、仕事に励んでいる。
けれど休憩時間になると、時々ちらちらと相手を見つめたり、微笑み合って顔を赤くしている。それで隠しているつもり……なのだろうか……。
おふたりから説明されなくても、何が起こったかは明白だった。……それ自体は、とても良かったのだけれど。
(こ、これが恋人同士の距離感……!)
私は衝撃を受けていた。
なるほど、イルゼ様たちから『熟年夫婦』と言われてしまう理由がようやく理解できた。この前の初デートでも結局、イルゼ様が納得するようにカフェには行ったものの、恋人らしい会話を交わすなんてことはなかった。
私が、イルゼ様たちの話を出したから。その点は大いに反省している……。
ちなみにリオネル様はいつもより椅子を壁側に向け、彼らを完全に視界に入れないようにしている。休憩時間でも顔すら上げない。
甘酸っぱい空気を出しつつも、ちゃんと仕事の時間は切り替えられるようで、ふたりの前にある処理済みの書類は徐々に高さを増していった。
「……そろそろ休憩しますか?」
私が提案すると、イルゼ様とエリック様はほとんど同時に顔を上げた。
「僕がお茶を淹れますよ」
「いえ、わたくしが……」
ふたりは同時に椅子を立ち、茶器を取り出そうとして手がぶつかった。
「あ……」
イルゼ様が頬を染めて手を引く。その白い手をエリック様が捕まえて、包み込むように優しく握り――
(み、見ていられない!)
私は反射的に本に視線を落とした。恋愛超初心者のまま『熟年夫婦』になった私にはまだ刺激が強そうだ。
……一生、慣れることはないかもしれないけれど。
かたんと小さな音がした。リオネル様がペンを置いていた。
「……今日は帰る」
素っ気なく言い放ち、彼が席を立った。机の上に散らばった未処理の書類を集め、私に視線を送る。
私は頷いた。
「これ、借りていきますね」
私が焚き付けた結果とはいえ、さすがにこの空気の中にひとり残されるのはごめんだ。魔道書を手に持ち、リオネル様の後に続く。
「え、あ……気をつけて」
「また明日、ですわね」
ふたりは顔を赤くしたまま、ふわふわと返事をしてくれる。
「……」
リオネル様は何か言いたげに口を開き、なにも言わずにそのまま閉じる。その表情は穏やかで、まるで子供を見守る親のようだなと思った。
「行こう」
空いている手をリオネル様に引かれた。
(手、なんで……)
いつもは普通に退室するのに、どうして。室内に漂う空気にあてられたように、私の顔にも熱が集まる。
握り返した方がいいのだろうか。悩んでいる間に、リオネル様は執務室を出てしまう。
「失礼しました」
振り返って声をかけると、初々しい様子のふたりは揃って頷いていた。
城を出て、帰りの馬車に乗る。ごとごとと揺れる車内で、 リオネル様はじっとこちらを見つめていた。その視線はいつもとどこか違う熱を帯びている気がして、私は見つめ返せない。
「君のおかげだな」
「……そんなことないです。エリック様の背中をほんの少し押しただけ。リオネル様がいてくれたから、私はやり遂げられたんですよ」
だって、あの台詞は貴方が私にくれたものだから。初めての出会いを思い出して、心の中に温かい気持ちが広がる。
「アメリア。私は……」
リオネル様が何か言いかけて、けれどその先は言葉にならなかった。再び馬車に沈黙が訪れる。
居心地が悪くて、抱えた魔道書をもてあそんだ。
「教会だと子供たちがいて、集中できないだろう。私の家に寄っていくか?」
その声はいつもよりも低く、掠れていた。どうしてか、私の中で緊張が高まる。まだあの執務室の空気を引きずっているのかもしれない。
「は、はい」
私が答えると、リオネル様は微笑んだ。その様子も、やはりいつもとどこか違う気がした。
馬車を降りた私たちは、リオネル様の邸に入る。相変わらず使用人のいない家は、しんと静まり返っている。
「リオネル様、私お茶を――」
淹れますねと、言いかけた言葉は途中で途切れた。リオネル様が、後ろからぎゅっと私を抱きしめたから。
ロレッタの店の時とは全く違う。強い力で閉じ込められ、心臓が跳ねる。背中に密着した彼の体から、呼吸の動きまで伝わってくる――
「アメリア」
低い声が、耳元で響く。それはこの上なく大切なものを呼ぶように、優しい。ぞくりとした感覚が背筋を走る。足から力が抜け、ふらつきそうになった。
「リオネル様……」
小さな声が、私の唇から漏れた。身じろぎしても、彼は私を解放してくれない。それどころかますます腕の力が強くなった。頭に、熱を孕んだ吐息がかかる。
誰もいない家に、ふたりきり。
私の手から魔道書がこぼれて、床に落ちた。
最終話は本日8:10に予約投稿します。




