6、花瓶の野花
意識を取り戻してから数日後、マリーは固い表情で病室に現れた。
「今日はね、貴女に会いたいってお方が来ているのだけれど……」
マリーの歯切れが悪い。
ちらちらと扉を気にしているから、会いたいという人物はもう外で待機しているのだろう。
(誰だろう?)
疑問に思いつつも、頷いた。
「お通ししてくれますか?」
まさか私の運命を決める出会いが待っているとは思わず、気軽に私は返事をした。
シスターと入れ替わりに入ってきたのは若い男性で、会った覚えのない人だった。
「失礼する」
重厚感のある声が響く。
彼は男の人にしては長い髪を、後ろでひとつに束ねている。ストレートな黒髪といい、眉間に寄せられた皺といい、生真面目で取っつきにくそうな雰囲気だ。
いや、それでは生ぬるいかもしれない。高い身長と広めの肩幅も手伝って、存在するだけでかなりの威圧感を放っている人だった。
彼はサイドテーブルに飾られた野花に目を留めてから、こちらに視線を移した。
彼は王宮勤めの魔法使いを示す制服を見にまとっている。魔法使いの中でも一際優秀な人しかなれない、花形職業だ。
だから、私のような庶民とは住む世界が違う人なのだとすぐに理解した。
(もしかして、この人がマリーの言っていた魔法使いさん?)
エリートの中のエリート、王宮魔法使いに助けてもらえるなんて、とても恐れ多いことだと思った。
握った手のひらがじわりと汗ばむ。
「私が、貴女を轢いた馬車を駆っていたリオネル・ティンバーだ。この度は本当に申し訳なかった」
宣言するなり、彼は深々と頭を下げてきた。
きびきびとした動きと、お辞儀の角度があまりにも綺麗だったことが印象的だった。
美しい所作に、うっかり流されそうになる。
けれど、平民の娘が王宮魔法使いに頭を下げさせるなんて、とんでもない話だ。狼狽えてしまう。
「頭を上げて下さい! あれは、飛び出した私が悪いんです。ですから……!」
「……それは、そうかもしれないが」
リオネル様は頭を上げると、涼しげな瞳を私へと向けた。
教会育ちでほとんど大人の男性と接した記憶がない私は、視線だけで縫い留められたように動けなくなってしまった。
息をするのも憚られるような沈黙が、数秒続く。
「子供を庇ってのこととシスターに聞いたが、馬車の前に飛び出すなど無謀だとは思わなかったのか?」
「咄嗟に……」
言いかけて、やめる。
ああ、違う。
これじゃ言い訳だ。自己嫌悪でいっぱいになる。
「いえ。すみません……」
「それで死ぬところだったんだぞ。実際私があの場にいなければ危なかった」
目を細め、こちらを睨むように見据える彼の迫力に、私は小さくなることしかできない。
「そもそも子供から意識を逸らすべきではなかった」
自分でも思っていたことをぴしゃりと言われ、言葉の剣がぐさりと胸に突き立てられた心地だった。
(そう、だよね)
彼の指摘は最もだ。ブレディたちも思っていたけど言わなかったであろうことを指摘され、ただただ恐縮するしかない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。私にできる償いであれば、誠心誠意果たさせて頂きたいと思います」
心からの謝罪をする。ベッドから降りることができたなら、きっと土下座して平謝りしていただろう。
私たち平民は、地位や身分のある人には逆らえない。リオネル様も雲の上の人だし、彼が御者をする馬車に乗っていたのは、更に高貴な御方であるはずだ。その方の気分を害したり、衝撃で怪我でもされていたら……私にはきっと、重い罰が下されるのだろう。
最悪の状況を覚悟して、そっと目を伏せる。
けれど、いつまで経っても罰は訪れない。
「迷惑……償い……」
彼は私の言葉を繰り返す。
「いや、そうじゃない。そういうつもりじゃないんだ」
「あの……?」
動揺していると思わしき彼の話は何とも要領を得なくて、目を開けた私も困ってしまった。
ふたりでおろおろしている時間が、少しの間、続く。
最初に口を開いたのは、またリオネル様だった。
「私のことはいい。……迷惑とも思っていない」
彼はぽつり、ぽつりと探るように言葉を紡いでいく。
私はただじっと、彼の言葉を待った。
「だから、謝ったり償ったりしなくていい」
「ですが……」
「私はただ君に、もう少し自分を大事にしなさいと言いたかったんだ。それと、次からは気を付けるようにとも」
一息で言いきってから、リオネル様はふいっと顔をそむけてしまった。
彼の視線を追って、花瓶の野花に目を留める。
お見舞いに贈られた花束は、彼の言葉を後押ししているように思えた。
「自分を、大事に」
小さく反芻してみる。
そんなこと――初めて、言われた。
赤子の頃に捨てられたという私は、ずっと要らない存在なのだと思っていた。魔法の才能があるブレディとは違う。平凡で、なんの価値もないと思い込んでいた。
私は。
ただの私を、大事にしてもいい?
心臓が、どきりと一際大きな音を立てた。
「おい、なぜ泣く!?」
彼の指摘で気がついた。知らず知らずのうちに、頬を涙が伝っている。
どうしてだろう。
事故に遭った時も、マリーに真実を告げられた後も、泣けなかったのに。
どうして、今。
心から溢れた雫がはらはらと落ち、胸を濡らす。
ぎょっとして目を丸くしたリオネル様が何だか可笑しくて、笑ったつもりがますます涙が止まらない。
「泣かないでくれ……」
切実な響きを持った彼の声が、少しだけ前より優しく聞こえた。
「言い方がきつかったか? それとも傷が痛むのか?」
「違います。傷は……痛いですが、大丈夫です。あなたが治して下さったんですよね。ありがとうございます」
「では、何故?」
なぜと問われても、自分でもよくわからないものを表現することは難しい。
(彼がしてくれたように、言葉を尽くさないと)
そう思って、自分の心を表す最適な言葉を探り始める。
彼はずっと直立不動で私の言葉を待っていた。もしも私が考えつかなかったら、そのままずっと待っているのではないかと思うくらい、彼は真摯な姿勢を崩さない。
(本当に、真剣に話を聞こうとして下さるんだ)
握りしめていた手のひらから、自然と力が抜ける。
真面目で実直な人柄に、好感が持てた。
教会育ちの平民など話も聞かないで切り捨てられても仕方ないというのに、彼はそうしない。
真摯に向き合ってくれるこの人に、きちんと心を返したいと思った。
(私の気持ちは……)
悲しいから?辛いから?苦しいから?
ひとつずつ考えを否定していく。
そして、気付いた。
もしも今の感情を表現するとしたら、一番近いのは、きっと。
「嬉しいから」
素直に気持ちを口にすると、これ以上ないくらいしっくりきた。
そう、私は嬉しかったのだ。
「君は……」
彼はなにかを言いかけて、口を閉じる。
多分、言葉を選んでくれている。不器用な優しさを感じて、また『嬉しい』と思う。
「君は、おかしなことを言うな」
無表情が少し歪む。直前の発言も踏まえると、怪訝な顔をしているのだろうと推測できた。
「私の言い方が時に厳しくなることは、周囲の人間に散々指摘されている。それを嬉しいなどと言う人間は今までいなかった」
「じゃあ、私が変わり者なのかもしれませんね」
もう涙は止まっていた。潤んだままの瞳で、じっとリオネル様を見つめる。
「私を叱ってくれた人はいなかった。――あなただけだった」
リオネル様だけが、私の後悔を次へと進む課題に昇華してくれた。当たり前のように次、と言ってもらえて、どうしようもなく心が舞い上がる。
弱いから、前に進む一歩が踏み出せなかった。
罪深い背中を、ただ誰かに力強く押して欲しかったのだ。
「私の気持ちを、認めてくれてありがとうございます」
「…………君は。本当に変わり者だな」
目元を緩めるリオネル様は、眉間に皺を寄せている時よりもずっと幼く見えた。
「少し、傍に行ってもいいか?」
「はい。……えっ?」
話の流れで気軽に答えてしまったけど、近寄って何をするつもりなのだろう。
「失礼する」
思わず身を固くした私に対し、リオネル様はハンカチを取り出すと、そっと頬の涙を拭ってくれた。
男の人らしい無骨な手なのに仕草はとても優しくて、頬に熱が集まる。
「あ、ありがとうございます……」
17年間の人生でそんなことをされたのは初めてで、恥ずかしいようなくすぐったいような心地で、とにかく顔が上げられない。
「顔が赤い。熱が出てきたか」
なんてベタな!と突っ込む元気も誤魔化す気力もなくて、黙って頷いた。
「病み上がりなのに、長く話をしてしまってすまなかった。先程も言ったように、この事故は君にも私にも責任がある」
リオネル様の言葉を、黙って聞く。どうしてか、彼の言葉がもっと聞きたいと思った。
「ふたりで分かち合えば不幸は半分になるというし、後悔を一緒に背負ってくれるだろうか」
まるで、結婚する夫婦みたいな言い方だ。自然と、淡い笑みが浮かぶ。
「……はい、じゃあ、幸せは2倍ですね」
真面目そうで厳しそうで言葉選びも苦手そうなリオネル様だけど、きっとすごく誠実で優しい人柄なのだと、短い初対面だけで感じ取っていた。
*
言葉通り、入院中、彼は忙しいだろうに何度も顔を出してくれた。
だから私も自分のため、それから少しでも彼の罪悪感を軽くするために、前向きにリハビリに臨んだ。
あなたは私のために。私はあなたのために。
そんな二人三脚は、弱虫な私を明日へと連れていってくれる。リオネル様の存在がどれほど支えてくれていたか、きっとあなたはわかっていない。心の中だけのささやかで温かな秘密だった。
ティンバー様、と呼び続けていた私に、「リオネルでいい」と言ってくれたのは、いつ頃だっただろうか。
少しずつ、距離が近くなっていく。
リオネル様は自分が轢いてしまったのだからと、高額な治療費も負担してくれた。
さすがに金銭面を負担してもらうのは申し訳なさすぎて、「退院したら一生かけてでも支払っていくつもりだから、治療費は大丈夫です」と伝えたのに、彼は自分たちが加害者なのだからと援助をやめなかった。
それに、私への支援は、あの馬車に乗っていた彼の主――エヴァレット王国の王太女イルゼ様の意向でもあると聞いて、絶句してしまった。
雲の上どころか、完全に別次元の人間である。リオネル様はイルゼ様付きの魔法使いらしくて、つまるところ、この国でも1、2を争う優秀な魔法使いということで。
(とんでもないことをしてしまった――)
という自己嫌悪が加速したのは言うまでもない。
今以上何かしてもらうのは悪いから、リオネル様に黙って転院しようとしたことがある。
けれど医者に相談した時点で、どういう経緯かリオネル様にばれ、治療に専念するように諭されてしまった。
「君は私と話した内容を忘れてしまったのか? それとも、罪を償う機会を奪うつもりなのか?」
なんて言われたので、大人しくする以外の選択肢がなくなってしまった。
そういう時に、花瓶の野花を見ると思い出す。
自分を大事にしろと言った彼のことを。
「アメリア」
優しく名前を呼んで、はにかんだ笑顔で病室に来てくれるリオネル様。
彼のことが特別に気になったのは、一体いつからだろうか。
会いに来てくれれば素直に嬉しくて、会えなければ少し寂しくて、一緒に過ごす他愛ない時間が大切で。
舞い上がって踊るような、落ちつきのないこの感情は恋と呼ばれるものなのだと、気付くまでにそう時間はかからなかった。
それが、リオネル様との一度目の出会いだった。




