58、月の光の元で
この感覚を、私は知っていた。
エリック様と魔法を使った時の、あの雨の幻を思い出す。
今の私は、人に宿る水を――見えることのない命というものを、感じ取ることができる。
目の前にいるブレディの水が、こぼれ落ちて消えていく。ブレディの水の周囲には、キラキラ輝く光――残り半分の星が瞬いている。
私の体に巡る水を分け与えて、ブレディの水が無くならないように分け与え、支えた。急激に体の力が抜け、視界が歪む。
「アメリア……無茶はするな」
リオネル様が、ふらつく私の背を支えてくれた。
「大丈夫、です」
私は気力を振り絞り、魔法を使い続ける。これはきっと、水属性にしかできないことだから。
「リオネル様、治癒魔法を使ってもらえますか?」
「わかった」
リオネル様がもう一度、治癒魔法をかける。今度は確かな手応えがあったようで、ブレディの酷い傷がほんの少しずつ癒えていく。
こぼれ落ちる水の量が減ったのを、私は確かに感じた。
塔が、ぐらりと揺れた。
(でも、まだ……)
流れ出す命の方が、ずっと多い。
与える水を増やそうとしても、私の見よう見まねの魔法ではこれが限界だ。リオネル様もまた、この場の維持と公爵の拘束を行っているため、これ以上は望めないだろう。
「……アメリア」
ブレディが、顔を歪めながらも目を開いた。紫の瞳はうつろで、見えていないのか視線は合わない。
伸ばされた手を、咄嗟に空いている手で握った。
「無事で、よかった」
その言葉に、ぎゅっと心臓を握りつぶされたように苦しくなる。
「なんで……っ」
続きが、どうしても出てこない。言いたいことも、聞きたいことも、たくさんあるのに。
喉が詰まって、なにも言えない。
「やっと、気づいた」
握った手から、急速に力が抜けていく。すり抜けて、落ちてしまわないように、私は強く彼の手を握りしめる。
「君が……君自身が、」
ブレディが歪んで、へたくそで、苦しそうな笑顔を浮かべる。
私は目を瞪った。
「俺の、特別な人だって……」
吐息のような言葉が、零れた――その瞬間、塔に光が満ちた。
銀色のきらめき。
世界を真昼のように強く照らしたそれは、私とブレディを繋ぐ一対の星だった。光は近付き、ひとつに溶け合い、より一層光を放つ。
輝きは、私の胸に吸い込まれて、消える。
それと同時に、ブレディが持つロケットペンダントの魔石から星の光が消えたのを、私は確かに見た。
心臓が、力強く鼓動を打った。
星が私に力を貸してくれる。
もう一度、治癒魔法をかけ直す。今度こそ、流れ出す量よりも注がれる量が上回っている。
リオネル様も、魔法の出力を上げる。塔が大きく震え、どこかが崩落するような轟音と、一際大きな振動が届く。
それでも私たちは魔法をやめない。
限界まで魔法を使って、お互い疲れきっていて、必死だった。それでも私たちは目配せし、微笑み合う。
だって、想う人を、ようやく救うことができるのだから。
*
どれだけ、魔法を使っていただろうか。
幸い、私の魔力が尽きる前に、ブレディの傷はすべて塞がった。顔色は悪いけど、呼吸は落ち着いているし脈も力強い。
私はぺたんとその場に座り込んだ。脱力感と達成感にいっぱいいっぱいで、目の前の光景がひどく遠くに感じる。
「大丈夫か?」
リオネル様が私との距離を詰め、横に座る。
「はい。少し疲れてしまいました」
私が笑ってみせると、リオネル様はハンカチを取り出して、私の顔に飛び散った血を拭き取ってくれた。
「ありがとうございます」
彼の手が離れたと思ったら、背中に回されていた。私は力強い腕に閉じ込められている。
(え、な、なに!?)
息が止まるかと思った。距離が近い。最近リオネル様があまり距離を取らなくなったなとは思っていたけど、これは――
いつかの雨の夜を思い出して、私の心臓は爆発寸前というくらいに熱く、高鳴る。
(……いいの、かな)
答えはないまま、私はほんの少しだけリオネル様に体を寄せた。
「無事ならいい。君は無茶をしすぎるから心配になる」
ぽんぽんと私の背中を軽く叩き、リオネル様が離れる。ようやく呼吸ができるようになって、肩で大きく息をした。冬の夜風が私たちの間を吹き抜ける。
「アメリア。ありがとう」
告げられた言葉の意味がわからず、首を傾げた。
「君のおかげで、彼を救えた」
「……やっと、終わったんですね」
「ああ」
リオネル様は力の抜けたような笑みを浮かべている。
私の気持ちなんて、きっと全然気付いていないのであろうその優しい笑顔が、今はとてもうらめしい。
「リオネルー生きてるー?」
塔の下から声が聞こえる。
身を乗り出すように下を見たら、旧街壁の上で、エリック様が大きく手を振っていた。その隣にはイルゼ様と、騎士や魔法使いたちの姿もある。
「遅いぞ。ハーバー公爵を拘束した。ブレディが負傷している。塔から降ろすのに人手が必要だ」
リオネル様の報告に、エリック様は一瞬だけ目を丸くして、それから目尻を下げる。
「そうしたいのは山々なんだけど、階段崩れちゃってるんだよね」
私とリオネル様は同時に振り向く。塔唯一の螺旋階段は、原型を留めないほどに崩壊していた。
*
壊れた階段を直すのはさすがにできなかったけど、リオネル様と王宮魔法使いたちが、時間をかけて少しずつ瓦礫を組み直し、なんとか階段らしきものの形成に成功した。
騎士や魔法使いの手を借りて、拘束された公爵と気絶しているブレディが塔から下ろされる。
それを見届けてから、私たちも塔を降りた。
周囲はすっかり暗くなっていて、空に月と星が輝いている。
「ありがとうございます、アメリアさん。これですべて終わりましたわ」
担架で運ばれていくブレディを、その胸で光を失っている魔石を見て、イルゼ様は言った。
「イルゼ様……」
「兄を害せずに済んで、本当に感謝しています」
彼女が異母兄に向ける表情は、どこか嬉しそうにも見えた。
「私は、大事な幼なじみのためにできることをしただけです」
私の言葉に、イルゼ様はしっかりと頷いてくれた。
騎士たちを指揮していたエリック様が、話が一段落つくところを見計らっていたのか、こちらにやってきた。
「アメリアさん、よく頑張りましたね」
「エリック様のおかげです。ありがとうございます」
お礼を言ったら、エリック様は私を励ますように肩に手を乗せた。
「学園を卒業したら、僕の弟子になって治癒術士を目指すのはどうですか?」
エリック様は真剣な声色で、そう言ってくれた。
「……はい。考えておきますね」
私は当たり障りなく、そう返した。
これからのこと。
そういえば、王子派に狙われて以降、今目の前にあることでいっぱいいっぱいで、少しも考えていなかった。
もうブラッドリー王子はいないから、王子派はこれ以上なにもできないだろう。つまり、私が狙われる理由はなくなった。
ならば、リオネル様の家を出て、教会に帰るのが自然だ。
そう思うと心が鉛のように重くなる私が、間違っているのだろう。元のかたちに、戻るだけなんだから。
私は王宮魔法使いたちに指示を出しているリオネル様を見た。疲れを見せず、真面目な顔できびきびと働く姿に、心がほんのりとあたたかくなる。
(……帰りたく、ないな……)
そんな気持ちが、溢れてしまう。
「アメリアさん、がんばれ」
「応援していますわ」
私の気持ちが伝わってしまったのか、エリック様とイルゼ様が激励の言葉をくれた。
魔法使いたちと塔の後始末を担当していたリオネル様が、振り向いて私を見る。
目が合うと、彼は杖を下ろし、こちらへと歩いてきた。
「君は教会に帰るだろう? 送っていく」
(やっぱり)
苦しい気持ちを誤魔化して、私は頷いた。
「まあ! 酷い男ですわね」
「リオネルの甲斐性なしー」
小声でイルゼ様たちがぶつぶつ文句を言っている。それに少しだけ、心が軽くなった。
リオネル様とふたりで旧街壁を降りて、教会への道を歩く。
私たちはお互いなにも言わなかった。塔の上でのやり取りが夢か何かだったかのように、空気が重い。
教会には、すぐにたどり着いてしまった。
「少し、祈りたい」
リオネル様が真剣な顔でそう言ったので、私は聖堂に彼を導いた。
明かりの消えた聖堂には誰もいない。
静謐な空気と月光で輝くステンドグラスは、あの日――ループ初日のあの夜を思い起こさせた。
リオネル様は精霊王の像の前で膝をつき、祈っている。その背中からは、張りつめた空気が漂う。すぐ近くにいるのに、とても遠くに感じた。
私は彼の横で目を閉じ、祈りを捧げる。
(ブレディを助けるために力を貸して下さって、ありがとうございます)
目蓋の裏側で、小さな星が応えるように瞬いた気がした。
祈りが終わり、私たちは立ち上がった。
月の光に照らされたその顔に、見惚れる。
「アメリア……」
私の名を呼ぶリオネル様の声は、震えていた。
「君を狙う脅威は消えた。だからこそ――」
言葉が、途切れる。数秒の沈黙の後、歪んだ表情のまま口を開く。
「これ以上、君が私たちに関わる理由はない」
聖堂に声が反響して、消えた。リオネル様は下唇を噛み、視線を下に向ける。
嫌ですとも、わかりましたとも、言えなかった。
貴方が私を突き放そうとしているのに――
「どうして……」
貴方が、辛そうな顔をしているの。
「最初から、守るために側にいた。それだけだ」
最初から。心の中で繰り返して、その重みを知る。
あの秋の日に再会してから――もしかしたら、一度目の事故で出会った時からずっと、貴方にとって私は、護衛対象だったのかもしれない。
ブラッドリー王子の側にいた、ただそれだけの存在。
信じたかったものが、崩れていく。
貴方を信じたいのに、信じさせないというようにリオネル様は私に背を向ける。
「もう、会う必要もないだろう」
彼は振り向かずに歩きだす。気付けば私は、その背中に飛び付き、抱きしめていた。月明かりの元で、私たちの影はひとつになる。
離さない。離したくない。
――側にいて。
我が儘ばかりの心が叫ぶままに。
リオネル様は抱きつく私を振り払うことはしなかった。
ただ、黙って足を止める。
「私には、必要です」
吐露した本音に、返事はない。
護衛対象だったとしても、きっとそれだけじゃない。貴方が向けてくれた優しさが、温もりが、全部嘘だったなんてもう思えない。
(あなたの心が知りたい)
貰った髪飾りが、頭上で揺れる。
「あなたが、好きだから」
はち切れそうな心が命じるままに、私は告げた。
痛いほどの沈黙が落ちた。
早鐘を打つ心臓だけが、音を奏でている。
「アメリア……」
リオネル様の手が、ぎこちなく私の手に触れた。やんわりと引き剥がされ、彼の温もりが遠ざかる。
解放されたリオネル様は、私に向き直った。その瞳に、どうしようもない悲しみの色を見つけてしまう。
「私は、君の気持ちに応えることはできない」
迷いのない言葉だった。その瞳は私ではなく、どこか遠くの誰かを見つめている。
息を呑んだ。
胸が張り裂けそうに痛み、言葉の代わりにぎゅっと服の裾を握りしめる。
それきり、お互いに押し黙った。
言葉が、見つからない。
リオネル様はためらいがちに、私に手を伸ばす。先程の拒絶の言葉とは裏腹に、この上なく大切なものに触れるように、優しく髪を梳かした。指先は、微かに震えている。
柔らかな光の中、彼は苦しげに目を伏せた。
「私は。……君を通して、違う女性を見てしまうからだ」




