56、星の片割れ
※ブレディ視点になります
見張り塔の屋上から見える王城は、夕暮れを映したオレンジに染まっていた。城は遠く、王族が暮らす王宮はなお遠い。
マリーには、感謝していた。
俺をブラッドリー王子と知りながら、10年もの間ずっと匿っていてくれたこと。今も、教会の隠し地下室で匿ってくれていること。
それから、学園のハミル先生とトビアス先生にも。彼らの協力なしでは、正体を隠しながら学園に通うことなどできなかっただろう。
胸元を探り、ロケットペンダントを引っ張り出す。蓋の部分に埋め込まれているのは、青い魔石――王位継承者の証だ。
蓋を開くと、金髪の少女の肖像画が姿を現した。輪郭をなぞるように、指で優しく触れる。
俺にとっての家族は、妹のリア、ただ一人だけだった。
その家族の顔がもう、肖像画を見なければ思い出せない。10年という年月が、俺を変えていく。
「リア……」
リアを思うと、『あの子』の顔が浮かんだ。肩が重く、息がうまく吸えなくて浅い呼吸を繰り返す。
引き取られた当時、ひとりきりだった俺を慕ってくれたのは、雪のような白い髪をしたあの子だけだった。
彼女がリアだったら。俺は争いのない教会で、妹と幸せに生きていける。そんな、現実逃避の幻想。それを壊したくないと思って、現実から目を背け続けていた。
己の軽率さに吐き気を覚える。今さら、もう遅い。星の片割れはあの子に渡った。誰がどう見ても、彼女はブラッドリー王子の大切な人、特別な人間だ。今さら違うと言っても、誰も耳を貸さない。
本当は、あの子は身代わりなのに。
ため息とともにロケットを閉じて、また服の下に押し込む。考えなければ。ここにいつまでもいることはできない。
「結局、俺は半端者なのかな」
吐き捨てるように、呟く。
ブレディとしても、ブラッドリーとしても、居場所のない人間なのだ――きっと。
見張り塔の一番端に立って、転落防止の鉄柵に手を掛ける。下を覗き込むと、目眩がしそうなほどの高さを感じた。落ちたら無事では済まないだろう。
しゃらりと、鎖が揺れる音がした。
俺ははっとして振り向く。コツコツと、誰かが石造りの螺旋階段をゆっくり登ってくる。
立ち入り禁止であるこの場所のことは、身代わりのあの子しか知らない。心臓が早鐘を打つ。
「……リア?」
恐る恐る呼び掛けた。
足音は止まらない。
「待ち人ではなくて、残念ですね」
男の声だった。男は階段を登りきり、俺の前に姿を現す。
銀の髪を持つ、恰幅のいい初老の男。歩行補助用の杖といい、整った身なりといい、一見すると穏やかな老紳士に見える。
「ハーバー公爵……」
俺は一歩後ずさる。軋む鉄柵に阻まれて、これ以上は下がれない。手の平に汗が滲み、鉄柵が滑った。
この男は、王子時代の俺を見守ってくれていた人だ。
彼の娘、ハーバー公爵令嬢と俺は婚約する予定だった。令嬢が亡くなって、婚約を結ぶ前に破談になってからも、公爵は義理の父のように接してくれた。ずっと俺にあたたかい気持ちを注いでくれた、数少ない人だった。
「どうして、ここが……」
「夏の終わりに、幽閉されているはずのあなたが、教会で平民として暮らしていることに気付いたのですよ」
公爵は軽く告げる。世間話をするかのように穏やかな口調だった。
「それから、あなたの行動を部下に監視させました。教会の娘と、よくここに来ているようですね」
「……あなたも、俺に王になれと言うのですか」
震える声で問い、杖を構えた。
構えても、どうしようもないことはわかっていた。唯一の出入口は彼に塞がれている。平民である『ブレディ』が公爵を攻撃すれば犯罪者だ。そしてこのままここに留まれば、『ブラッドリー』は王子派の旗頭としてイルゼに消されるだろう。
逃げ道は――飛び降りるしかない。
「もちろん、そうです」
公爵もまた、手にしていた杖を構えた。仕込み杖。刃も魔法も警戒しなければならない。
「あなたにもう娘はいない。俺を飾りの国王にしたところで、あなたにはメリットがないのに?」
「いないから、ですよ」
公爵の顔が、寂しげに歪む。
この人は生まれたばかりの娘を心から愛していたのだと、その悲しみが伝わってくる。
胸を打たれた。
奪われ、もう二度と会えないものの重さが、俺にはわかる。ペンダントの重さが、それを伝えてくれていた。
「あなたの後ろ楯にハーバー公爵家がつくことを恐れたのでしょうね。娘は、イルゼ派の人間に奪われました。だから、これは私の身勝手な復讐です」
言葉は淡々としているのに、その瞳には強い感情が揺らめいていた。
公爵が一歩、俺に近付く。
「なら、あの子は見逃してくれ。あの子は関係ない、ただのリアーナの身代わりだ、だから……」
俺は早口で言い募る。今の俺にあるのはもう、幼なじみを守りたい、ただその気持ちだけだった。
「それが、他ならぬあなたの望みであれば叶えましょう。あなたさえこちらに従って頂けるのであれば、教会の娘は我々には不要です」
息が詰まる。
彼の言葉を聞いて、ほっとした自分が確かにいた。
彼の言うことを聞いてはいけないと、どこかでもう一人の自分が叫んでいる。俺は耳を塞いで聞こえないふりをした。
公爵が仕込み杖を降ろしたから、震える手でそれに倣う。
「では、行きましょうか」
公爵が手を差し出す。
それを取れば、もう戻れない。
彼の元へと一歩を踏み出す。
これでいい。あの子は守られる。イルゼは……憎い訳ではないけれど、仲の良い兄妹でもなかった。敵対するのは元々決まっていたこと。仕方がないことだ。
なによりも――リアとまた、会える。それに勝ることがあるだろうか。この10年間、一度も会えなかった家族と会う、最後のチャンスなんだ。
胸の奥の不快なざわめきは無視してしまおう。
何も未練なんか、ない。
そう、自分に言い聞かせていたのに――
手を持ち上げた俺のポケットの中で、何か固いものがぶつかり合うような小さな音を立てた。まるで、存在を主張するように。
どうにもそれが気になって、ポケットを覗いた。
息を、呑む。
入っていたのは、何の変哲もない小さな布袋。結び目がほどけて、中身――色とりどりの飴が顔を見せている。
(ルパート、ロレッタ)
友人の顔が浮かんだ。
彼らと一緒に微笑む、何よりも大切な幼なじみの――あの子の、顔も。
ぎゅっと、心の奥底を掴まれた錯覚を覚える。
「殿下?」
俯いた俺に、公爵が訝しげに声をかける。
「……だ」
掠れた声が、漏れた。
俺は一歩、公爵から距離を取る。子供がするように、頭を大きく横に振った。
「無理、だ。選べない。俺は……」
大切な妹と、それ以外の全て。
どちらかなんて選べない。
友人と過ごす日々は、下らなくて、満ち足りていて、とても幸せだった。
そのことに、今、やっと気が付いた。
だから、選べない。選びたくない。
「仕方がありませんね」
公爵はため息をつく。
「教会の娘が傷付けば、少しは協力してくれるつもりになりますか?」
脅し文句に俺が顔を歪めた瞬間だった。
「そんなに思いどおりには、なってあげませんから」
少女の声が、公爵に反発した。螺旋階段から小柄な影が飛び出して、杖を構えて俺の横に立つ。
俺は、ただ呆然と彼女の姿を眺める。
息を切らして、必死な顔で、世界中の誰よりも真っ直ぐに、少女は俺を見た。
「どうして……」
唇からこぼれた、小さな声。白色の髪をした幼なじみは、俺ににこりと笑いかける。
「大事な人を助けるのに無茶するのが、私だから」




