53、あの日の記憶
※リオネル視点になります
「飲んではいけません、毒です……!」
お茶会の空気が、私の一言で即座に凍りついた。
幼い王女の顔から表情が抜け落ち、彼女は自分が口をつけようとしていたカップをテーブルに置く。
カチャリという微かな音が、やけに大きく響いた。膝の上に置かれた王女の手は、固く握られていて血の気がない。
私はぐるりと周囲を見る。
ほとんどの人間が、こちらに驚いた顔を向けていた。
毒を入れた張本人は、害意のある表情を隠そうともしていない。
最後に視線を向けたのは、自分の背後。
そこにいた、私の主となる予定だった少年は――唇を噛みながら、空虚な瞳でどこかを見つめていた。
視線は、合わない。
ただ少年の妹だけが、楽しそうに兄に纏わりついて笑っていた。
*
隣室を覗いたイルゼの背中が強張るのを見て、私は何があったかをすぐに悟った。
羽ペンを握る手に力が籠る。
(アメリア……)
真実に触れてしまった彼女の心を思うと、胸の奥が重くなる。彼女を守るためとはいえ、隠すと決めたのは私自身だというのに。
アメリアを城に連れてくるのに消極的だったのは、リアーナのことがあるからだ。無邪気な妹姫は、大好きな兄のことを隠しはしない。
リアーナとアメリアが出会えば、アメリアはきっと幼なじみが言う妹が、リアーナのことだと気付く。
仕事をする手は、完全に止まっていた。
「行くぞ」
エリックに声をかけ、私は席を立つ。元はと言えば自分で撒いた種だ。足が重いなどと言い訳することはできない。
隣室では、アメリアが下を向いていた。その視線は、床に落ちた本の『愛する妹、リアへ』の文字にだけ注がれている。
ひどく、傷付けたと思った。
いつもそうだ。私はアメリアを守るためとうそぶきながら、自分の手で彼女の日常を壊している。
何も知らず、教会で幼なじみと平穏に暮らす――そんな彼女の幸せは、もう二度と戻らない。
爪が食い込むほどに、手を強く握りしめる。
「エリック。リアーナを部屋まで送ってあげて下さい」
イルゼの声に、我に返った。
「はーい」
エリックはいつも通りのふわっとした雰囲気で、咳き込むリアーナの魔法椅子を押して、部屋を出ていく。寸前、青い瞳はちらりと私を捉えた。真剣な眼差しだった。
背中を押された気分になり、もやもやする。
「殿下。アメリアには私から説明します」
それが私の責任だ。
「……いいえ、わたくしも同席します。この件は、わたくしにも関係があることです」
イルゼがアメリアの手を引いて、ソファへと導き座らせる。主がアメリアの正面にさっさと腰を降ろしたので、私がアメリアの隣に座ることになる。
いつもなら何かしら反応をする彼女だが、今日は固い表情を崩さなかった。
「ほんとうに、ブレディが?」
ややあって彼女から零れたのは、蚊の鳴くような声だった。
わかっているのに、確かめずにはいられない。そんな目で、アメリアは私を見た。
「ああ。君の教会にいたブレディが、ブラッドリー王子殿下だ」
また私は、君を傷付ける。
「なにも。……何も、聞かされていませんでした」
「黙っていて、すまなかった。国王陛下と教会の間で交わされた密約だから、公にはできなかった。それに、君を必要以上に巻き込みたくなかったんだ」
言い訳だ。自嘲しながら、頭を下げる。
アメリアはこちらを見ない。
「そう、ですか」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。涙の気配こそないが、床に向いたその瞳は、揺れている。
「どうして、ブレディは……教会に来たのですか?」
「少し、長い話になります。アメリアさんは、わたくしの暗殺未遂事件のことをご存知でしょうか?」
イルゼの右手は、左手首をぎゅっと掴んでいる。声にできない辛さが、そこに滲んでいる気がした。
「はい。王子の母がイルゼ様のお茶に毒を混ぜたため、王子は生涯幽閉されることになったと……」
「おっしゃる通り、対外的にはそうなっています。兄とリアーナの母親は、側室でした。……当時、わたくしが立太子することは内定していました。だから、兄を世継ぎにするためには、王妃の子であるわたくしを消さなければならなかったのです」
アメリアの肩が小さく震えた。
一応、家族である相手から命を狙われるなど、彼女には想像もつかないことだろう。
教会はきっと、あたたかくて優しい場所だから。
「側室は処刑され、兄は離れに生涯幽閉されることになりました。幼く、『星』を持たないリアーナだけは見逃されましたが、『星』を持つ兄を野放しにするわけにはいかなかったのでしょう」
イルゼの胸元で、星を宿す魔石がきらりと輝いた。
「その後、兄の待遇について、リオネルが父に嘆願したのです」
「リオネル様が……」
そこで初めて、アメリアがこちらを見た。
「元々私は、エインズワース魔法学園を卒業した後、ブラッドリー王子の臣下になる予定だった」
ずっと隠してきた過去を、告げる。
アメリアが息を呑んだ。
「あの日、私は見習い魔法使いとして、学生の身でありながら王宮に登城していた。同席したお茶会で、王子の母君がカップに薬物を混入しているのを見てしまったんだ」
10年以上の時が過ぎ去っても、昨日のことのように思い出せる。
薬品の入った小瓶。毒を入れた側室の醜悪な顔。何も知らないイルゼの細い指が、カップを持ち上げる――
制止することを躊躇わなかった。
それが正しいことだと思っていた。実際、正しかったのだろう。あれを飲んでいたら、イルゼは今ここにはいないのだから。
けれど。
『あなたのような優秀な魔法使いが臣下になってくれるなんて、とても光栄です』
そう言って笑顔を見せてくれた王子の未来を、この手で奪った。それに、言葉を放った後で気付いてしまった。
悔やんでも、もう遅い。
「私の証言がきっかけで王子が幽閉されることになったと聞いて、私は陛下に申し出た。彼に罪はない、王子ではなく一人の人間として生きていくことを許してもらえないかと」
「リオネル様……」
アメリアは私の名前を呼んで、投げ出されていた私の手に、自分の手をそっと重ねた。
(アメリア……?)
どうして彼女がそんな態度を取るのか、わからなかった。傷付いているのは、隠されて孤独を感じているのは、アメリアなのに。
彼女に近付いてはいけないとわかっているのに、私はその手を振り払えない。触れ続けるぬくもりに、心のどこかが揺れ動く。
思えば、彼女はいつもそうだった。誰かにそっと寄り添うことができる女性なのだ。
「ブラッドリー王子は優しく繊細な人間だった。……きっと王族ではなく、平民として生きた方が幸せだろうと思ったんだ。私の願いは叶えられ、ブラッドリー王子は陛下の手で、平民として暮らせるように密かに手配された。それが、君の暮らしていた教会だったのは、私たちも最近知った」
ブレディ、と隣にいるアメリアが呟いた。その一言だけで、彼女が第一王子をどれだけ大切な存在だと認識しているかがわかる。
「そんな事情が、あったんですね」
重なるアメリアの手が震えている。考えを整理するように彼女は瞳を伏せて、数秒の後、また私を見上げた。その顔は、まだ固い。
「事情は理解できるけど、みんな知ってるのに私に隠していたこと。すぐに納得は、できないです」
「すまなかった。君を守りたかったんだ。知らないまま、幸せに教会で暮らしてくれればいいと……そう、信じていた」
言い訳だ、彼女に与えてしまった孤独のフォローには到底足りないと自覚しながらも、付け足す。僅かでも、彼女の気持ちが楽になればいいと思って。
アメリアが息を吐いて、肩の力を抜いた。雪景色が溶けるように、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……ありがとうございます、リオネル様」
「なぜ……礼を?」
本気でわからなかった。
嫌われ、拒絶されてもおかしくないと覚悟していたのに、彼女は私に穏やかな顔を向ける。
普段の彼女は控えめで大人しいのに、時に驚くほどの強さを見せる。その有り様が、美しいと思った。
「ブレディ……私の家族のこと、あなたも大事にしていてくれたんですよね?」
「そんなことは……」
当然のことだ。主になる予定だった王子を裏切ってしまったのだから。私がいくら贖罪のために動こうとも、それは独りよがりな自分のための行動。
あの日あの時、傷付き、家族と未来を奪われた彼の心は、決して救われない。
「ブレディは、教会でも学園でも、とても楽しそうに過ごしていました。友達もたくさんいて、人気者で。それって全部、リオネル様のおかげだったんですね」
アメリアが笑う。
ブラッドリー王子が幸せそうに暮らしていた――それを聞いて安堵したのが自分の本心だと、はっきりわかった。
こびりついて離れなかったあの日の光景が、少しずつ色褪せていく。
過去の行いは、間違いではなかった。それを、隣の彼女が教えてくれる。
(アメリア……ありがとう)
私の心にそっと寄り添う少女に、感謝した。
いつだって、彼女の強さと優しさから、目が離せない。
心のままに、彼女の手をするりと抜け出し、今度は私から手を重ねる。アメリアは薄青の瞳を見開いた。
「あ、あのっイルゼ様! ブレディが今どこにいるのか、わかりませんか?」
慌てた様子で、アメリアはイルゼを見た。
「調べさせてはいますが、まだわかっていません」
「王子派がアメリアを人質にする可能性を考えて、身を隠しているのだろう」
「そう、ですか……」
アメリアがあからさまに肩を落とす。
「アメリアさん、落ち着いて聞いて下さいね。もしも兄が、王子派と接触するようなことがあれば、わたくしたちは――兄を今度こそ、排除しなければいけなくなります」
隣に座るアメリアは、びくりと全身を振るわせた。
「それはっ……」
何か言いかけて、俯く。
彼女もきっとわかっている。ブレディがいくら平民として暮らしていても、彼の正体はブラッドリー王子だ。王子派と接触することは、イルゼへの翻意になる。
「兄が継承権を持つ限り、平民になることはできないのです。今でなくてもいつか必ず、その立場が利用され、兄を排除しなければならない日が来ます」
イルゼの口から告げられる残酷な未来を、アメリアは黙って受け止めている。
「私は、それを止めたい」
私が言うと、アメリアは、ぱっと顔をあげた。青い瞳が、こちらを見つめる。
「リオネル……貴方は」
「私とアメリアの思いは同じです。必ず、やり遂げます」
珍しく不安げに眉を寄せるイルゼに宣言してから、私はアメリアに向き直った。
「ひとつだけ、ブレディを救う方法がある。アメリア、君なら――」
口にしかけた時、ガチャガチャと廊下を走る衛兵の足音が聞こえてきた。
「お話中失礼します! 王宮の離れにて、王子派と思われる侵入者が暴れています。狙いは王子殿下だと思われます」
アメリアの顔が、さっと青ざめる。
扉越しに報告を受け、私はすぐに立ち上がった。
「わかりました。引き続き鎮圧にあたって下さい」
「はっ!」
王太の命令を受けて、衛兵が耳障りな音を立てて走り去る。イルゼはため息をついた。
「王子派が、ついに強硬な手段に出たようですね。もしかして、わたくしたちがお兄さまを隠していると思っているのかしら」
「制圧に向かいます」
立ち上がり、そう宣言した。アメリアに、イルゼと共にここに残るように言おうとしたが――
「私も行きます。何か、お手伝いできることがあるはずです」
アメリアは私の言葉よりも先に、真剣な表情で立ち上がった。気丈に振る舞ってはいるが、杖を持つ手が僅かに震えている。誰かのために一生懸命な彼女らしい。
それを、どうしようもなく好ましいと思う自分がいる。
私は告げようとした言葉の代わりに、息だけを吐き出した。それからアメリアへと向き直る。
「……わかった。私の側から離れるな」
「はいっ!」
アメリアがしっかりと頷く。
「気を付けてくださいね」
イルゼの言葉を背に、私とアメリアは部屋を飛び出した。




