5、一度目の事故は
一度目の事故の回想編になります
一度目の人生の今日のことを、私は思い返していた。
――エヴァレット王国の王都の上には、雲ひとつない一面の青空が広がっていた。
私はブレディにお願いされた買い物を済ませて、帰路についたところだった。
左手にバスケットを持ち、おでかけにはしゃぐミーナを伴い、大通りをのんびりと歩く。
ミーナを見ていると、私にもこんな時期があったなとしみじみ思う。大人の真似をしたがって、率先してシスターの手伝いをしていた記憶がある。
「お姉ちゃん、おでかけたのしーね!」
無邪気な笑顔が眩しい。
王都は賑わっていて豊かだ。特に収穫祭が間近に迫るこの時期は、普段より一層人通りが多かった。
馬車が行き交う道を歩く危険性は、ミーナもよく理解しているはずだけど、子供はふとした時に動き出してしまうことがある。危なくないよう、空いた手を彼女と繋いでいた。
きっかけは唐突だった。
人混みの中で、誰かが思い切りこちらにぶつかってきたのだ。
雑踏ではよくあることだし、お互い様で済む筈だった。
「ごめんなさい」
咄嗟にそう言ったけど、ぶつかった相手は何も言わず、私を一顧だにしなかった。衝撃でよろめいた私の右手から、ミーナの手がすり抜ける。
「ミーナ!」
気付いた時には少女の小さな体は車道にあって、馬車が迫ってきていた。
「あ――」
ミーナの大きな瞳が驚きに見開かれている。
轢かれる、なんて考える間もなくて、彼女を追いかけて咄嗟に車道へ飛び出した。
正午の鐘が鳴り始めたのが、やけに大きく聞こえていたのをはっきり覚えている。
ミーナを抱えて防御魔法を唱えるのと、馬車に轢かれたのはほとんど同時だった。
「……っ!」
体がバラバラになりそうな衝撃に襲われた。全身が燃えるように熱い。一瞬呼吸ができなくなる。
肌が風を切る感覚はあるのに、不思議と痛みは感じない。
どさりと、重い音を立てて体が石畳に叩きつけられた。
目が開かない。落下の衝撃で放してしまった小さな体を探して、私は震える腕を宙へと伸ばす。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん……!」
ミーナの声がして、小さな手が触れた。良かった。無事だった。
悲鳴をあげる人々の声を割るように、重く堂々とした靴音が響く。
「下がっていろ」
男性の低い声。有無を言わせぬ威圧感のある一言に、人々のざわめきがさーっと遠ざかる。ミーナのぬくもりも、躊躇いがちに離れていった。
ミーナ、と名前を呼んだつもりだった。けれど口から出たのは、錆びた刃物のような匂いの泡で――
「無理に喋らなくていい」
彼の声は喧騒の中でもやけにはっきりと、私に届いた。
「彼女を病院に連れていきます。構いませんね?」
「ええ、もちろんですわ」
暗闇の向こうで、誰かが喋っている。
体がふわりと抱き上げられた。
「必ず、助ける」
耳元で囁かれたそれが、あたたかくて、優しくて。
――あなたは、だれ?
問いかけは結局言葉にならず、私の意識はぷつりと途切れた。
*
「ん……」
ゆっくりと、目を開けた。視界に映る見知らぬ天井を背景にして、ブレディとマリーがこちらを覗き込んでいた。
「リア!」
「アメリア……あぁ、本当に良かった」
マリーはハンカチを目に当てた。ブレディの方も、今にも感情が零れてしまいそうなくらい、瞳が潤んでいる。
一瞬、なにが起きているのかわからなくてきょとんとしてしまう。
(――ああ、そうだ、私は馬車に轢かれたんだっけ。二人とも大げさなんだから)
最初はそうやって笑い飛ばそうとした。
起き上がろうとしたけど体は重く、とても自力では動けそうもない。
「……わたし……」
喉がカラカラで、声も上手く出せない。
「無理しないで。リアは事故に遭って、それで」
ブレディの声が震えている。
「ごめん。ごめんね、リア」
(ブレディ?)
私が呼び止める前に、彼はくるりと背を向けて病室を飛び出していった。
残されたマリーは、赤くなった目をこちらに向ける。
「大きな事故だったのですよ。命が助かったのは、たまたま優秀な魔法使いが居合わせたからと言われました」
意識が途切れる直前の、男性の声を思い出す。
(あの人が……)
彼の声の力強さと、私を抱えた腕の優しさ。
事故に遭って朦朧とした意識の中でも、一筋の光のようにはっきりと覚えている。
「ブレディは、なんで……?」
どうして取り乱して、出ていってしまったのか。
理由をマリーに求めたけれど、彼女は哀しげに目を伏せるばかり。
「おしえて」
重ねて言うと、マリーはふぅ、とひとつ息を吐き出した。
「アメリア。落ち着いて聞いて下さいね」
硬い声で宣言された前置きに、胸騒ぎがする。
「大きな事故でした。一命は取り留めたましたが、あなたはもう、……もう、歩けないし、全身が弱ってしまったから命も長くないだろうと――」
それ以降の言葉は、よく聞こえなかった。
*
長い入院生活が始まった。
ミーナが無事だったことは不幸中の幸いだと思う。咄嗟にあの行動をした私は、決して間違ってはいなかった。
――はずなのに、事故の瞬間のことを後悔している自分がいた。
「リアが庇わなければミーナは死んでいただろうって、お医者さんが言っていたよ。君は一人の命を救ったんだ」
ブレディは支えようとしてくれた。
「身を呈して子供を守ろうとできるような女性に育ったことを、誇りに思いますよ」
マリーは誉めてくれた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。あたしあの時、誰かに……ううん、何でもない。ごめんなさい」
ミーナはいつも泣いて謝っていた。
「ミーナのせいじゃないよ」
傷付いた彼女に、慰めの言葉をあげることしかできなかった。
お見舞いにくるたび、みんなが優しくしてくれる。教会のみんなは、そういう人たちなのだ。いつだって、どんな人にだって、慈愛の心で接することが、精霊教会では美徳とされているから。
でも、真綿でくるむような優しさは、私の心には少しも響かない。
学園の友達もお見舞いに来てくれた。ありがたいと思うけど、私はずっと、誰に対しても、心を閉ざしていた。
「ありがとう。私は大丈夫だから」
棒読みの声に笑顔の仮面で、なんでもないようにやり過ごした。みんな演技に気付いていたと思う。気を遣わせてしまっているのが申し訳なかった。
誰にも本音を言えなくて、みんなが帰ってからひとりで思い悩む日々が続く。
病室の花瓶には、真っ白な花が生けられていた。マリーが薄青のリボンで飾られた花束を持ってきて、飾ってくれてた。
花屋の花ではなく野花なので、教会の庭に咲いているものを摘んでいるのだと思っていた。
白い花たちを見ていると、ほんの少しだけ心が和んだ。
――他に、どうすれば良かったというのだろう。
ふとした瞬間に、暗くて苦しい何かが心に湧き上がってくる。
そもそも、私の不注意でミーナの手を放してしまったことが、事故の原因だ。
罪悪感がずっとのしかかっていた。
どう擁護してもらっても、私は自分自身を許せなかった。
みんなの優しさを拒絶して、思うように動かない体を抱えて、行き場のない思いを抱えて。
どん底の時、気落ちする私の心をたったひとり動かしてみせたのが、リオネル様だった。




