43、伝わればいいのに
一度目の、私は――
毎朝、魔法で動く椅子を漕いで、リオネル様と共に玄関に出る。まだ朝早い時間で、王都にはうっすらと霧がかかっていた。
王宮魔法使いの朝は早くて、夜は遅い。
「いってらっしゃい」
「ああ。いってくる」
リオネル様が少しだけ表情を緩めた。夫の背中が見えなくなるまで留まってから、私は家の中へと戻る。
彼が作った家事用の魔法道具を動かしながら、私は妻として家を守る。体が満足に動かないので、広い屋敷の多すぎる部屋のすべてを掃除することはできないけど、毎日少しずつ進めている。
私が外へ出なくてもいいように、馴染みの商人が定期的に食材や消耗品を届けてくれる。それ以外のものも、商人に頼んでおけば次の時に持ってきてくれた。
恵まれている。そう思った。
なに不自由なく暮らさせてもらって、自分にできることをして、穏やかに日々が過ぎていく。
でも、少しだけ――
その日、夜遅くに帰ってくるリオネル様のために、夕食を作り置きした私は、ダイニングのテーブルに突っ伏していた。
夜は更け、暖炉の火はかなり小さくなっている。それでもリオネル様は帰ってこない。
いつもの私ならとっくに眠りに就いている時間だ。夫は普段、私が寝静まってから帰宅する。
ここでこうして待つことに、意味なんてないのに――
「会いたい、な……」
眠りに落ちる直前、唇から漏れた本音は、あの人には届かずに、夜の闇に消えた。
*
目覚めた私の視界に飛び込んできたのは、リオネル様の顔だった。目が合うと、強張っていたその表情が、ふっと和らぐ。
どうして、リオネル様がいるのだろう。
霞がかかったようにぼんやりしていて、思考がまとまらない。
起き上がろうと体に力を入れたら、ぐらりと視界が回るように歪んだ。全身が重く、思うように動けない。おまけにずきんと頭の芯が痛んで、顔をしかめる羽目になった。
「熱がある。まだ寝ていた方がいい」
リオネル様の手が、私を優しくベッドに押し留めた。
(熱……)
そうだ。誰かに追われて、雨の中を逃げ回って、寒くて――それで、体調を崩してしまったのか。
起き上がりかけた時にずり落ちた濡れタオルを、リオネル様がまた絞って額に乗せてくれた。
ひんやりとした感触が気持ちいい。
「……ありがとうございます」
お礼を言ったら、ほんの少しだけ彼の口角が上がった気がした。
また無茶なことをして、リオネル様に迷惑をかけてしまった。助けてもらっただけじゃなくて、看病までさせている。
「ごめん、なさい」
「君が謝る必要はない。……謝らなければいけないのは私だ」
リオネル様の言葉の意味がわからなくて、私は目を瞬かせる。
「君を散々遠ざけておいて、結局こうして巻き込んでしまった。本当に、すまなかった」
巻き込んだ、ということは……やっぱりこれは、学園の事件と繋がっているのだろう。
「謝らないで下さい。私が、望んだことですから」
リオネル様は、痛みを堪えるように表情を歪めた。そんな顔をさせたくなくて、重い腕を彼へと伸ばす。
震える手は、あっさりリオネル様に捕まった。そのまま布団の中へ仕舞われてしまう。
彼は私を助け、支えてくれるけど、決して私に助けさせてはくれない。こんなに近くにいるのに、ひどく遠くにいるように感じた。
「あの人は」
私は気がかりだったことを口にする。
「教会の近くにいた、魔法使いの人は?」
雨の中に置いてきてしまった、あの二人のことが心配だった。結界を残してはきたけれど、私ではリオネル様のように同時に魔法を展開することはできない。
だからきっと、そう時間が経たないうちに結界は切れてしまっていただろう。
「無事だ。君のおかげだと聞いた。ありがとう」
その言葉に、私は大きく息を吐いた。
「よかった、です」
この人が大切にしているものを、守れて良かった。心からそう思った。
私は周囲に視線を巡らせた。見覚えのある天井だった。大きな暖炉も、たくさん収納できそうな本棚も、座り心地が良さそうなソファも。
それらの懐かしさに、心がふわりとほどける。
一度目の人生で数年を過ごした、ティンバー邸の私の部屋だった。今はもちろん私のものじゃないけど、またこの部屋を選んでくれた偶然に頬が緩む。
「私の家だ」
場所を確認していた私に、リオネル様が説明をしてくれた。
「知って……」
私はそこで言葉を途切れさせる。熱で思考が鈍って、抑えていたものが溢れそうになってしまう。
視界が揺れる。
「まだ休んでいた方がいい」
柔らかな声に言われるがままに、私は体の力を抜く。どこからともなく眠気が這い寄ってきて、思考がますますぼんやりとまどろんでいく。
「私がいると休まらないだろう。何かあれば呼んでくれ」
リオネル様が立ち上がり、部屋を出ていこうとする。その背中が、一度目の彼と重なった。
(いやだ……)
咄嗟に私は、手を伸ばした。宙を彷徨い、ようやくたどり着いた彼のローブの裾を掴む。
リオネル様が立ち止まり、振り返った。
「いかないで……」
うわ言のように、気持ちが漏れる。
頭の奥深くでは、ちゃんとわかっている。
リオネル様は忙しい。私に構っている暇なんかない。気を遣ってくれる人を我が儘で引き留めるなんて、しちゃいけない。
なのに、私の唇は真逆のことを口にする。
放さなきゃいけない。そう思う理性を、心が置き去りにした。
寂しくて、心細くて。
一度目の時みたいに、置き去りにされるのが怖くて。
「そばにいて」
リオネル様が目を見開いた。
一瞬ためらった後、裾を掴んだままの私の手を外して、ぎゅっと握った。立ち上がった椅子にまた腰かける。
「眠るまで、ここにいる」
リオネル様が子供をあやすように頭を撫でてくれる。それが心地よくて、目を閉じて少し擦り寄る。
「アメリア」
(あなたは、少しも変わらない)
一度目の最後の日と同じだった。まどろむ私の名前を呼んで、とびきり大切な宝物みたいに優しく触れてくれる。
求めたものを返してもらえることは、なんて幸せなことなんだろう。
私は笑顔を浮かべた。
「私は、あなたが……」
好きです。
伝えてはいけないのに、伝わればいいのに。
そう思いながら、私の意識はあたたかな眠りへと落ちていった。




