42、透明な雨
雨は本降りとなり、地面を激しく叩きつけた。
何が起きているかなんて、私には少しもわからなかった。
水溜まりを跳ね上げながら、息を切らせて走った。時々光の結界を生み出して、追っ手の足を止める。
周囲には私と彼ら以外の気配はない。どの家もぴったりと扉を閉ざし、不気味なほどにしんと静まり返っている。
「絶対に捕まえろ!」
背後のどこかで、男たちの怒鳴り声が響く。そう遠くはない。
(とにかく、人のいるところへ……っ)
せめて、大通りに出られれば助けを求められる。そう思って走るけれど、路地の出口はことごとく男たちの仲間と思われる人影に封じられていた。
身を翻して、追っ手の視線から姿を隠す。奥まった路地の壁に体を預けて、乱れきった息を整えた。足は棒のようで、感覚が鈍い。
「リオネル様」
大切な名前を呟いて、杖をぎゅっと胸に抱く。
――無茶をする時は私を頼ってくれ。
そう言ってくれた、柔らかな顔を思い出す。今が、その時なのだろう。
震える足を叱咤しながら立ち上がった。
一度目の私が暮らしていたティンバー家の屋敷は、貴族街にほど近い場所にある。ここからなら、そう遠くはない。
とにかく、そこまで向かわなくては。
物陰から飛び出すと、また走る。
「いたぞ!」
背後で男が叫び、足音が一斉に近付いてくる。
足音の方向を避けて角を曲がったけれど、何かに足を取られた。水飛沫を上げながら、私は地面に倒れ込む。強かに打ち付けた膝が痛む。
足に植物の蔓が巻き付いていた。上半身を起こし、引き抜こうと足をばたつかせてもびくともしない。
「危害は加えるなよ。大事な人質だからな」
近づいてきた男の言葉に、私ははっとした。
(襲撃事件の時に、犯人が人質と言っていたのは――私の、こと?)
ずっと、狙われていたのは私だった。
その事実に胸を抉られた私の手を、男が掴み、立ち上がらせた。足に絡んでいた蔓がするりと外れる。
男の仲間が集まってきて、完全に包囲された。一対多。逃げ場はない。
「大人しくしろ。お前が防御術以外ろくな魔法が使えないことはわかっているからな」
男たちが私を嘲笑う。
「……わかりました」
私は素直に頷いた。
降伏の意を示すように、杖を持つ手を下げる。
男の手が伸ばされ、私から杖を取り上げようとした。その視線は、意識は、今は杖だけに注がれている。
こんな状況なのに、心は凪いだ水面のように静かだった。
私は目を閉じる。
……あきらめたからじゃない。
(水よ――)
祈る。
大人しく捕まるつもりはない。
私の祈りに応えて、近くにあった排水溝から水が勢いよく吹き出した。その流れは男たちの顔を直撃する。
濁った水に視界を奪われた彼らの横を、私は全力で走り抜けた。
行き先は緩やかな上り坂になっている。川のように路地を流れていた水は、私の足元を避けるように二股に分かれてくれた。そこを駆け上がる。
水を信じろと言ってくれたエリック様に感謝した。彼の助言がなければ、きっとなすすべなく捕まっていただろう。
「くそっ!」
男たちの悪態が聞こえる。彼らは私を追おうとしても、元の川に戻った水の流れに阻まれ、うまく動けないでいる。
めちゃくちゃに逃げ回ったせいで、現在地を見失ってしまった。強い雨のせいで視界が悪く、方向もわからない。
(……っ、魔力が)
魔法を連発してきたせいで、魔力が切れかかっている。これ以上は魔法を使えない。もう体力もない。
杖を手にしたまま、私は近くにあった木箱の影に座り込んだ。体中の筋肉が悲鳴を上げている。ここから、もう一歩も動けそうにない。
跳ね回る鼓動を抑えるように、胸の前に左手を置く。
逃げ回っている間に、すっかり日が暮れて夜になっていた。闇の気配が濃い路地は、雨の手も借りて私の姿をすっかり覆い隠してくれる。
そこで、じっとしていた。
どれだけ時間が経っただろうか。
足音が、聞こえる。
弾む息を圧し殺して、私は体を縮める。足音が近付いてくる。雨にけぶる向こう側で、黒い影が動いた。
目をぎゅっと閉じる。瞼の裏がぱっと明るくなり、すぐに消えた。もう、足音は聞こえない。
代わりに。
「……アメリア」
聞きたくて堪らなかった声が、聞こえた。雨の中でもはっきりと。
「アメリア、どこにいる!?」
呼び声に導かれて、杖を支えにして立ち上がる。よろよろと歩を進めた私に、黒い影が駆け寄ってきた。
黒い髪に黒装束の、魔法使い。
「リオネル様……」
私は彼の名前を呟いた。つもりだった。
けれどそれが紡がれる前に、私の顔を黒いものが覆った。
「あ……」
雨に濡れた体が、強くて温かい腕に包まれる。背中に回されたそれは、私を決して離そうとしない。
手から杖が抜け落ちた。
空っぽになった私の手が、何かを求めるように宙を彷徨う。
ためらいながらも、その大きな背中に自分の腕を沿わせる。拒絶はされなかった。それどころか更に強く抱き締められて、息が苦しくなる。
「よく、頑張ったな」
耳元で囁かれた。
私は――
目の端から、ぽとりと雫が落ちた。
次から次へと、透明な雨のように止まらない。
ごつごつとした指が、私の髪を驚くほど優しく梳いた。それが心地よくて、目を閉じる。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
リオネル様はそっと体を離した。ふたりの間に空気が入り込み、その冷たさにぶるりと震えた。
「寒いか?」
リオネル様は私の返事を待たず、外套を脱いで私に掛けてくれた。再び彼の香りに包まれる。
それでは、彼が濡れてしまう。遠慮しようと思ったのに、頭がぼうっとして言葉が出てこない。
「おーい、リオネルー」
雨の向こう側から、呼びかける声が聞こえてきた。
「こっちだ」
素っ気ないリオネル様の返答に、ランタンを掲げた男が近付いてきた。見覚えのある騎士の鎧に、特徴的な銀の髪。私を見て、彼はふわりと優しく笑いかけてくれた。
「アメリアは保護した」
「了解。僕たちも北にいた連中は確保したよ。残りは包囲中」
「引き続き頼む」
エリック様はじゃあね、と気さくに手を振ると、また雨の向こうに消えていった。
「リオネル様……」
何が起こっているんですか、と聞こうとした。
けれど、私の意に反して体は動かない。思考まで雨の中にいるように、灰色でぼんやりしている。
強烈な寒気を覚えて、私は身を震わせた。
「寒いか」
リオネル様が私の額に手を当てる。触れたぬくもりが心地いい。
「熱があるな。すぐに休める場所に連れていく」
頷いて、私の横に立ったリオネル様についていこうとしたら、首を振られた。
「……頼ってくれと言っても、君は受け入れてはくれないのだろうな」
吐き出された息は、微かに震えていた。
その言葉の意味を飲み込む前に、ふわりと体が宙に浮いた。彼の腕が膝裏と背中で私を支え、抱き上げている。
顔を上げると、至近距離にリオネル様の横顔が迫っていた。真剣な眼差しに、目を奪われる。
求めてやまなかった熱に、縋る。私は力を抜いて、彼の胸へ身を委ねた。
「あったかい……」
もっと、触れていたいと思った。
一瞬、リオネル様の腕に力が籠り、ぎゅっと強く抱きしめられる。
早鐘を打つ鼓動は誰のものなのだろうと考えながら、私は目を閉じた。
貴方が側にいてくれる。
だからもう、怖くない。




