2、ふたつにひとつ
(……そんなこと、ある?)
信じがたい思いで屋根裏部屋を飛び出した。体は自由に動く。階段を転がるように降り、一階へ。教会の中は、どこもかしこも懐かしい。
(もしも、本当に巻き戻ったんだとしたら)
ぞわりと、鳥肌が立つ。私がここにいるということは、あの結婚生活は、夫との出会いは、なかったことになるということで――
不安ではち切れそうになる心を抱えて、行くあてもなく教会内を彷徨う。
あちこち走り抜けた私が最後にたどり着いたのは、聖堂だった。聖堂の静謐な空気に包まれて、一瞬息を呑む。
ステンドグラス越しの月光は、絨毯に七色の彩りを落としていた。精霊王を象った石像は、いつになく優しげな表情に見える。
(なに、やってるんだろ……)
揺れ動く心の波が、徐々に収まっていく。
光の御許で祈りを捧げていた人物が、ゆっくりと立ち上がって、こちらに目を向けた。
「アメリア」
初老のシスターは、私の名前を優しく呼んだ。咎めるように感じるのは、きっとこちらの気持ちの問題だ。
静かな空気をゆっくりと吸って、心を整える。
「……ごめんなさい、ここで騒がしくしてしまって」
「構いません。精霊様は、迷える者や悩む者の味方ですから」
シスター・マリーは私の育ての親だった。夫を除けば、私にとって一番信用できる人と言ってもいい。
「あなたが取り乱すなんて、珍しいこともあるものですね」
マリーの態度は慈愛と包容力に満ちている。子供の頃から、彼女は叱ることはあっても怒ることはせず、穏やかな空気を崩したことがない。
「マリー……」
彼女の、そういうところについ口が緩む。
「今は……いつですか。私は、18歳を迎えていない、ですよね?」
覚悟を決めて、切りだす。
18歳の誕生日は、馬車の事故に遭った後――病院に入院している時に迎えていた。体が不自由ではない今の私は、事故よりも前の世界に生きているということになるはずだ。
「ええ。次の冬に18歳になりますよ」
マリーの言葉は予想通りだったけれど、はっきりと突きつけられると胸が軋むように痛んだ。
事故に遭っていないということは、やはり夫――リオネル様にも、出会っていないということになる。立場が違いすぎる私たちの出会いは、あの馬車の事故だったのだから。
息が、できなくなる。
「アメリア。何かあったのですね」
マリーは目を合わせて、ゆっくりと話しかけてくれる。彼女になら、話してもいいかもしれない――そんな風に、緊張が解れていく。
私は口を開く。『死ぬ前』の出来事を、ひとりで抱えているのは無理だった。誰かに聞いてほしかった。
「……未来で、死んだはずなのに。戻ってきたんです」
私の拙い話を聞いて相槌を打ちながら、マリーは精霊王の像を見つめていた。
馬車の事故に遭い、体が不自由になったものの後に夫となる男性と出会えたこと。
彼に恋をして結婚したこと。
20歳でこの世を去って――気付いたらここにいたこと。
私が長い話を終えても、彼女はただ黙って側に立っていてくれた。
聖堂の中は息をするのも憚られるような沈黙に包まれているけど、不思議と居心地は悪くなかった。
「……そうですか。早世したけれど、あなたは穏やかに暮らしたのですね」
シスター・マリーは『死に戻り』を決して否定しなかった。
「信じて、くれるんですか? 夢とか、妄想だって思わないんですか?」
「あなたが本当にあったことだと信じていることを、今この場で否定しても仕方ないでしょう。それに……」
シスターは言葉を切り、すぐそばにある壁を見上げた。
聖堂の壁には、精霊教会が語り継ぐ創世神話をモチーフにした絵画がいくつも飾られている。
彼女が見上げているのは、精霊の加護を受けた巫女姫の絵画だった。何度見ても、その壮麗さに見惚れてしまう。
巫女姫は精霊の力で時間を遡り、運命と戦い、人々を救済して回ったのだという。子供向けの童話にもなっているので、この国の人間はほとんどが知っている。
「神話を否定するわけには参りませんから。あなたが巫女姫と同じく時間を遡ったのであれば、それは精霊様から成すべき事を託されたということなのでしょうね」
「成すべき事……」
教会育ちの平民にできること――何かあるのだろうか。神話の巫女姫のように、運命を変えて世界を救済するなんて、とてもじゃないけど出来るわけがない。
尻込みする私に、マリーは微笑みかける。
「難しく考えなくても大丈夫。精霊様はすべての人々の幸福を望んでいますから、あなたがもう一度生きることが成すべき事とも言えます。やり直すチャンスを貰ったと思えばいいのです」
やり直す、チャンス。と口の中で呟いてみる。
「え!? そ、そんなに軽くていいんですか……!?」
「だって、精霊様は私たちに何も仰ってくれませんから、こちらで勝手に良いように解釈させて貰っても構わないでしょう?」
茶目っ気たっぷりにウインクされてしまった。
ついでにとんとんと肩を叩かれ、知らず知らずのうちに肩肘を張っていたことを自覚する。足先も冷たい。随分と、気を張っていたのかもしれない。
(そっか……もう一度、生きてもいいのかな)
もしも。
もしもやり直しても良いのなら、もう一度夫と結ばれたい。今度は事故に遭わず、健康な体で、あの人の傍にいたい。
(あれ? でも)
ふと、胸の奥がざわついた。
私とリオネル様は、馬車に轢かれて死にかけたことがきっかけで、出会った。けれど私が早世したのは、元はといえば馬車の事故が根本的な原因で――
嫌な予感が急速に膨れ上がった。いてもたってもいられず、私は近くにあった椅子の背をぎゅっと握る。
まさか。信じたくないと首を振っても、推測は勝手に組み上がり、現実を突きつけてくる。
「健康と夫との出会いは、共存しない……?」
推測を口にして、ぞくりと体を震わせる。運命のいたずらという言葉が、浮かんでから消えた。
健康か、夫か。
ふたつに一つ。両方は選べない。
――それが、最初から決まっていた運命なのだろうか。




