18、家族の距離
一度目の私は、本ばかり読んでいる夫を眺めることが好きだった。
本棚がいくつも並ぶ書斎。漂う紅茶の香り。暖炉の前のソファが、リオネル様の定位置だ。
(……リオネル様)
声を出して仕事の邪魔をしてはいけない。だから私も読書をしていた。リオネル様が作ってくれた魔法で動く椅子に座ったまま、彼の向かい側に陣取る。
本を読むふりをして、時々こっそり彼を覗いた。本に落ちる真剣な眼差し。私が淹れた紅茶のカップを口元に運ぶ所作。
ささやかな日常の一コマに、私はいつも見とれていた。
穏やかに、日々が過ぎていく――
*
学園からの帰り道。
私はロレッタの言葉を思い出して、一度目の結婚生活を振り返っていた。
「そういえば、ルパートってこの前の試験も赤点だったんでしょ?」
「なっ……おいバカやめろ! 誰だよロレッタにしゃべったやつはっ!」
相も変わらず、ロレッタとルパートは大騒ぎをしていた。他のクラスメイトは彼らを茶化して、更に騒ぎを拡大させている。毎日がお祭りみたいに賑やかだ。
ふたりとも、幸せそうに、楽しそうに、笑っている。
1度目の私も、幸せだった。けれど、『特別』の種類を――リオネル様がどんな気持ちでいたのかを、知らない。
知らないままでも幸せだったから、知ろうともしていなかった。
「ふふーん、やっぱそうなんだ。カマかけただけですー」
「なっ……!? ずるいぞ!」
ブレディは少し離れた後方で、二人を生ぬるい視線で見守っている。
彼はいつも通りに見える。誰にでも優しくて物腰柔らかで、ロレッタに言わせてみれば『完璧な幼なじみ』の顔をしていた。
でも、それが本当の彼なのか。確かめてもいない彼の本当を、ちゃんとわかっているのか。
芽生えた疑問で、私はいつも通りになりきれない。
「成績優秀なブレディでも煎じて飲みなさいよ」
「え、本人を直接煎じるのかよ」
どっと笑い合うみんなの声が、姿が見えないくらい遠くから響いてくるようだった。
少しだけ、心にすきま風が吹き込む。
みんなを見たいし、あたたかな空気に直接触れたいと思った。
寮の前でルパートを含む半数と別れ、帰路の途中で王都中心に住むロレッタたちと別れた。教会までの最後の10分ほどは、ブレディとふたりきりになる。
人通りの多い通りを抜け、ひっそりとした住宅街へ向かっていく。
帰り道は沈黙が支配している。私も、ブレディも、何も言わない。空気が痛くて、何かを言わなければ、と口を開くのに、気の利いた言葉が出てこない。
(ブレディは二度目の今も、教会から離れるつもりなのかな)
太陽は沈む直前で、強い茜色の光を放っている。
それにブレディの背中が溶けて、消えてしまうような、そんな錯覚が頭にちらつく。
(ロレッタに言わせてみれば、好きな子ができたから、とかね?)
奮い立てるように、わざと明るい方向性で考えてみる。
一度目は『妹』が入院して、日常生活から消えたことで妹離れできたのかもしれない。そして他の女の子に目が向き、恋に落ちた――
たとえば、今日ブレディと一緒にいた貴族の子とか。
ちらりと見かけただけだけど、可愛らしい女の子だと思った。優しそうで、大人っぽくて、スタイルもよくて。
石畳をぽんと強く蹴って、私は歩く。
(私が、ブレディが恋愛するチャンスを奪ってるのかも)
寂しいけど、私はもう17歳、ブレディは19歳になる。とっくに兄離れ、妹離れしなければならない年齢だろう。
取り留めもないことをぐるぐると考えているうちに、教会の前まで帰り着いていた。
重苦しい時間が終わることにほっとして、すぐ中に入ろうとする。
けれど、叶わなかった。
「ねえ」
ブレディが呼び止めたから。ふたりきりになって、初めての会話だった。
沈黙を切り裂いたブレディの言葉に、ぴたりと足を止め、振り向く。
彼は、穏やかな微笑みを湛えていた。
いつも通りすぎる。そんな言葉が浮かぶ。
「リア。……何か、言いたいことがあるんじゃない?」
確信しているような口振りだった。紫の瞳が、穏やかに、けれど力強くこちらを見つめている。
ロレッタの言う通り、本当に私は隠し事が苦手なんだろう。今さら誤魔化しても多分、無駄になる。観念して、重い口を開く。
「今日、中庭で貴族の子と会ってたよね?」
指摘しても、ブレディは顔色ひとつ変えなかった。いつもと同じ、優しさに溢れた兄の顔のまま。
息が苦しい。
「見てたんだ」
「ごめんね、談話室から見えちゃったの。……会話までは聞こえてないよ」
言い訳にもならないことを、咄嗟に付け足してしまう。完全に偶然ではあったけど、覗きは覗きだ。
「あー、まあ、しょうがないよ。中庭も談話室も公共のスペースだし」
ブレディは苦笑いで流す。照れも、呆れもしない。
風が吹いて、落ち葉が舞い上がった。
ふいに、彼の笑みが消える。
「あの子に、交際して欲しいって言われた。断ったけどね」
淡々とした声。
なんだろう。
何か、ブレディの態度に引っかかるものがあった。幼なじみなのに、違和感の正体が掴めない。
いつもと同じように立っているだけなのに、中身が空っぽの人形のようで――
急に辺りが暗くなった。
見上げた空を分厚い雲が覆っていて、今にも雨が降りだしそうだ。
ぴかっと光が走り、少ししてどこかから雷鳴が響いてきた。ひやりとした風が肌を撫でる。
「断ったのは……好きじゃ、なかったから?」
ブレディは首を横に振る。
「俺は」
彼は一度、言葉を切った。
実際は一瞬だろうけど、まるで永劫のように長く、長く感じた。
彼の唇が歪む。ほんの少しだけ、そこに悲しみの色を見いだす。
「……誰とも恋愛をするつもりがないから」
白い光に支配された世界で、ブレディがわらった。
それは、明確な拒絶だと思った。ブレディはその内側にあるものを、決して他人に見せない。踏み込ませない。
笑顔で言われたそれは冷たい氷のようで、私はなんと返したらいいかわからなくなる。
歪んだようにも見える笑みの理由が、わからない。
「それに俺みたいな平民じゃあの子とは釣り合わないよ。交際経験がある令嬢は貴族から敬遠されるものだし、あの子には真っ当に幸せになって欲しい」
紡がれる言葉は、うまく頭に入ってこないで右から左へと流れていく。
(……知らない人、みたい)
いつも朗らかな幼なじみにこんな一面があったなんて、少しも知らなかった。
歪んだ笑顔を浮かべる人を、私は――知らない。
「あの子にも」
やっとのことで絞り出した声が、震える。
「誰とも恋愛しないって、そう言ったの?」
「うん。みんなに言ってるよ。期待させたら酷だから」
きっぱり断るのは優しさなのかもしれない。
けれど普段の彼を知っている私には、いっそ冷酷なようにも見えてしまう。
妹分が消えればブレディは恋愛できるのかも、なんて生温い問題ではなかった。
彼は恋愛をしないと、自分の意思で決めている。もっとずっと根が深くて、ブレディの奥底に絡み付いている何かだ。
きっと、彼が教会に来る前からの何か。
「ブレディは、昔……」
何があったの?
告げかけた疑問を、寸前で飲み込む。
ブレディは、ひどい表情をしていた。今にも泣き出しそうな、何かに怯えているような、そんな顔。
だから私は、何も言えなくなってしまった。
彼の真実を暴いたら、今すぐここから消え去ってしまう、そんな気がして。
「……なんでもない」
今はそれだけ言うのがやっとだった。
いつか、ちゃんと話せる日がくると信じたい。
(……ブレディ)
再び、重苦しい沈黙が落ちる。
雨が降ってくれれば、教会の中に入る口実ができるのに。こういう時に限って期待したことは起こらない。雷の気配も、少し遠くなっていた。
「リアは?」
ふいに、ブレディの声が明るくなる。
冷たい仮面が剥がれ落ちて、その下からいつものブレディが顔を出したような、唐突な雰囲気の変化だった。
「え?」
その空気に呑まれて、何を聞かれたのか一瞬理解ができなかった。まじまじとブレディを見つめてしまう。
「リアは好きなひと、いないの?」
朗らかな兄の顔でしゃべるこの人は、一体誰なのだろう。
演技なのだろうか。
どこからどこまでが演技で、どこからが本当の貴方なのか。
「……リア?」
顔を覗き込まれた。
至近距離で視線が交わった紫水晶の瞳は、いつもと同じあたたかさに満ちている。
ふわりと緊張が解けた。
それくらい、ブレディはいつも通りだった。
少なくともこれは――演技じゃない。そう確信した。
「あ、えっと……ロレッタとか?」
私は曖昧に笑う。
「なに言ってるの。好きな男のことだよ?」
「好きな……」
咄嗟にリオネル様のことを思い浮かべてしまい、私の頬に熱が集まる。
隠そうとして手を当てたけど、時すでに遅し。
「なるほどね」
ブレディがニヤニヤしている。妹をからかう兄の顔で。
私はほっと息を吐いた。やっぱり、いつも通りのブレディだった。
「お答えできません」
だから私も、いつも通りに応える。
「誰だろう。リアの今までの傾向からすると……」
「ちょ、ちょっと待って。ブレディまでロレッタみたいなこと言うのやめて。あと今までって、私はこれが初恋で――」
小さな違和感から目を背けて。
「初恋なんだ?」
ブレディに乗せられて墓穴を掘った私に、義理の兄が微笑みかける。
それもやっぱり、私がよく知る幼なじみの顔だった。




