10、一度目と違うもの
リオネル様は、見かけ上は一度目の世界と変わっていないように見えた。
不機嫌そうな眉間の皺。切れ長な目。長い黒髪は後ろで軽くひとつに束ねている。
王宮魔法使いの証であるローブを身にまとい、長い足で真っ直ぐに歩いてくる。
少女の方へと。
その瞳はただ、少女にだけ捧げられている。
私と視線は、交わらない。
一度目と変わったもの。
貴方は、私を知らない。
あたたかく向けられていたその瞳は、もう私を特別なものだと映してはくれない――
(あ……)
みしりと、心の音が聞こえた。
(当たり前、だよ。なに期待してるの)
今の私とリオネル様には、何の繋がりもない。
あんなに待ち望んだ『再会』なのに、今の私には声をかける資格がない。
心が苦しいのか、息が苦しいのか、わからない。
(会いたかった……けど)
会えればいい。傍にいられればいい。楽観的だった私は、自分の浅はかさをこれ以上ないほど思い知った。震えそうになる吐息を、ゆっくりと吐く。
彼は、とても遠い。
「このような無茶は止めてくださいと申し上げたはずですが」
重厚な声が、耳をくすぐる。
懐かしくて目が潤みそうになるのを、まばたきを繰り返して誤魔化した。
(泣いちゃ、ダメ……)
右手は箒を握りしめ、左手でぎゅっと太腿をつねった。そんな私を、あの人は見てもいないんだから。
「まあ。わたくしは彼女を守りましたのに、どうしてそのように言われますの? わたくしがいなければ、無辜なる教会の少女が襲われていたかもしれませんのに」
姫君はリオネル様の威圧感など全く感じていないかのように、ぽんぽんと言い返していく。
リオネル様は眉間の皺を深めた。
不機嫌そうに見えて、その実、彼の目は怒っていない。純粋に心配しているのだろう。
可憐で可愛らしい、彼女を。
(……しっかりして、私)
足の裏にぐっと力を入れる。
ふたりが話をしている間に揺れる自分を押さえ込まなくては、多分堪えられなくなってしまう。
再会に、自分で望んだことに、泣きたくない――
「それに、わたくし貴方に言いましたわ。人を探していると」
「だからといって、ご自分で行くとは思わないでしょう」
会えて嬉しい。寂しかった。話せなくて悲しい。苦しい。そんな気持ちをまとめて全部、心の奥底の宝箱に封じて、厳重に鍵をかけた。
「わたくしのこと、何も理解していないのですか? もう8年近い付き合いですのに」
少女がリオネル様に一歩、詰め寄る。
8年。
少女の口から紡がれたその言葉に、ひとつ心当たりがあった。
(イルゼ殿下……?)
リオネル様は私と同じ17歳の時に、この国のお世継ぎ――王太女イルゼ殿下の臣下となったと、一度目に聞いていた。今の時間からだと、ちょうど8年前のことだ。
一度目は、夫の上司ともいえるイルゼ様と面識がなかった。
リオネル様はイルゼ様と夜会などのパーティーに参加することもあったが、一度も同伴していないから顔を知らない。
(この方が)
リオネル様と睨みあっている美しい少女に視線をやった。
睨みあっているというか、リオネル様が一方的に睨んでいるだけで、少女の方ははんなりと微笑んでいるだけ。
なのに、なぜかリオネル様と同等の威圧感があるから、ふたりの間に漂う雰囲気は睨みあっている者たちのそれだ。
一般人の私には絶対に割り込めないし、そんな度胸もない。
リオネル様を通して、イルゼ殿下は自由奔放でつかみどころがなくて、けれど誰よりも国と民を愛している御方だと知っている。
素直に口にはしなかったけど、多分、リオネル様はイルゼ様を主として敬愛していた。私はそう思っている。
路地のあちこちからリオネル様と同じ王宮魔法使いの制服を着た人たちが現れ、緊縛されている暴漢たちを慣れた手つきで連行していく。
冷戦の空気にいたたまれなくなっていたので、ぼんやりと彼らの仕事ぶりを観察していた。中には一度目に顔見知りだったリオネル様の部下もいる。当然、彼らも私には目もくれない。
たった一人、世界から置き去りにされたような心地だった。
ややあって、先に折れたのはリオネル様だった。少女から目をそらし、代わりにこちらに視線を向けてくる。
はじめて、目が合った。
「怪我は?」
「え?」
彼の質問を理解するのに、少しだけ時間が必要だった。
「あ……だ、大丈夫、です」
緊張しながら答えると、ほんの少し、錯覚かと思うくらい少しだけ、彼の口角が上がった。
「そうか」
次の瞬間には、もう元の仏頂面に戻っていたけれど。
(気にして、くれた……)
些細なことが、どうしようもなく嬉しいと思う。
本当に、私は単純だ。
「それで、どうして教会の娘と一緒にいらっしゃるのですか」
「そうでしたわ!」
リオネル様と言い合っていた少女は、突然くるりとこちらを振り向いた。
彼女がフードをさっと脱いだ。きめ細やかな美しい金髪が露になる。
可愛らしさと美しさを両方兼ね備えた、まさに理想の姫君という言葉が相応しい美貌だ。
優雅に微笑みを溢し、彼女は服の内側に隠していたネックレスを外すと、こちらに見えるようにぶら下げた。
「申し遅れましたわ。わたくし、イルゼ・ミラ・エヴァレットと申します」
ネックレスには深い青の魔石が嵌め込まれている。その中で淡く光を放つ『星』がキラキラと瞬き、消え、また瞬く。
この『星』こそが、星の精霊王に守られたエヴァレット王国の王位継承者である証。学園で習ったのみで、実物を見るのは初めてだった。
「王太女という、身に余る大役を務めさせて頂いております。こちらはお目付け役兼臣下のリオネル・ティンバー。あなたのお名前を教えてくださる?」
やはり王太女殿下だった。
さも今気付きましたとばかりに、ぱっと頭を下げる。
「アメリアです。イルゼ殿下申し訳ありません、知らなかったとはいえとんだご無礼を!」
「構いませんから、顔をあげてくださいな。わたくしが巻き込んだのですから、あなたは何も悪くありません」
ふんわりと言われた言葉に、イルゼ様の優しさを感じた。
「お待ちください」
リオネル様に厳しい瞳で見下ろされ、はっと息を飲む。
「……教会の娘、なぜ殿下に近付いた? 何が目的だ」
その声は、冷たく鋭く響いた。
私のことを、そんな風に呼んだことは今まで一度もなかったのに――
警戒心を滲ませた鋭い一言に、私は視線を落とした。
当たり前だ、この人が守るべき相手は主。
王太女と接点を持った怪しい人間など、警戒対象でしかない。
(わかってる……)
心の奥底、宝箱から何かが飛び出そうともがいている。
言い聞かせるように心の中で繰り返し呟く。
わかってる。
わかっているのに、どうして苦しいのだろう。
「リオネル。女性にはいつも優しくなさいと言っているのに、まるで聞いていないのですね」
動揺を怯えと受け取ったのか、立ちすくむ私を庇うようにイルゼ様が立つ。
「アメリアさんは教会からちょうど出てきたので、わたくしから話しかけましたの。あなたと違って彼女は親切ですから、わたくしを助けると言って下さいましたわ」
「殿下から話しかけたのですか……」
「ええそうです。そのせいでわたくしを狙った暴漢に襲われてしまったのですよ? 叱られるのはわたくしであるべきです」
叱られるべきって、胸を張りながら言う台詞でもないと思うのだけれど、当然王太女に意見できる人間などいない訳で。
リオネル様は思案するように数秒、沈黙した。それから、ちらりと私に視線を送ってくる。
「娘、殿下の仰ることは本当か?」
問われ、ぎこちなく頷いた。
「ほらご覧なさい。リオネル、疑ったことを彼女に謝罪なさい」
ドヤ顔のイルゼ殿下に背中を押され、リオネル様が前に進み出る。
「疑ってしまって、申し訳なかった。君も、今後は軽々しく殿下に近寄らないようにしてくれ」
彼の声がほんの少しだけ優しく聞こえた。冷たい態度だった先ほどよりもずっと、胸が苦しくなる。
「こんな言い方ですけど、怒っているわけでないんですのよ。ちょっとひねくれてて、口も態度も悪くて、余計なことばっかり言うだけで」
面と向かってイルゼ様に指摘されて、今度こそリオネル様は不機嫌そうに眉をひそめた。
(よく、わかっています)
謝罪の方法まで一度目の出会いの時とそっくりで、懐かしくて切なくて、色々な感情が溢れてしまいそうになる。
「大丈夫、です。ティンバー様の言う通り、私の方こそ、殿下とはもうお会いすることがないように――」
「いけませんわ!」
和解しかけた場の空気を切り裂いたのは、他ならぬイルゼ様だった。
「いけません。わたくし、アメリアさんともう少しだけお話をさせて頂きたいのですが、いかがでしょうか?」
「え!?」
まさかの展開に、思わず伺うようにリオネル様を見てしまった。
彼は盛大にため息をついた。
「殿下は言い出したら聞かない御方だ。申し訳ないが、付き合ってもらえるだろうか」
……何がどうして、こんなことになっているのだろう。一般庶民の私はただ、イルゼ様の提案に困惑する。
(でも)
イルゼ様を通してリオネル様とまだ接点が続いてくれることを、嬉しいと思う私がいた。




