1、楽園の終わりと二度目のはじまり
『一度目』の私が死んだのは、とある雪の日。
窓の外には一面の銀世界が広がっていた。対して、邸の中は暖かくて穏やかな空気で満ちている。
ぱち、と暖炉の薪が弾ける音がして、私は目を開けた。
夫――リオネル様は暖炉の前に置かれたお気に入りのソファに座って、分厚い魔道書を読んでいた。休日の午後だというのに、その表情は真剣そのもの。気を抜かずに仕事をする横顔が、やけに遠く見えた。
「……また、お仕事ですか?」
問いかけたつもりなのに、声は出なかった。本のページを捲っていく微かな音が、私の耳に届く。
彼はとても困った人だと思う。毎日毎日仕事ばかり。少しは休まなければ倒れてしまうのに――私が心配しても、まるで聞いてくれないのだ。
でも、夫のそんなところから目が離せない私がいる。
吐息がこぼれた。体は鉛のように重く、彼へと伸ばした手の動きはぎこちない。
視界が霞む。うまく焦点が合わなくて、リオネル様の姿はぼんやりとした黒っぽい輪郭にしか見えなくなってしまう。
「アメリア」
柔らかな声で名前を呼ばれるのと同時に、震える手は布団の中へとそっと戻されてしまった。
彼は感情を表に出すのが苦手なのに、優しく呼び掛けてくれた。些細なことで、胸の奥深くにあたたかなものが灯る。
ほんの僅かに、彼の声が震えていた――どうしてなのか、その理由を私は知らない。
慈しむように頭を優しく撫でられて、私はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、初めて会った日のこと。
リオネル様はにこりともせず、どこか不機嫌そうだった。体格の大きさも手伝って、とても威圧感がある人だな、というのが第一印象だった。どう接したらいいかわからずに戸惑ったことも、今となってはいい思い出になっている。
けれど、私はすぐに知ることになった。不器用な仏頂面に隠された、彼の真っ直ぐで誠実な心を。
本当は心優しいのに、それをどう表現していいかわからずにぶっきらぼうになってしまいがちな夫のことを――私は、心から愛していた。
なのに、もう彼の手のぬくもりにも、声にも、触れられない。
(貴方がいてくれたから、私は――)
伝えたかった気持ちは空気になって溶けた。私の唇はもう、言葉を紡がない。紡ぐことができない。
頬に落ちた雫の正体は掴めないまま。意識がどこか遠く、深くへとゆるやかに沈んでいく。
こうして、私は――アメリア・ティンバーは、静かで幸せな最期の時を迎えた。
* * *
「……さむっ」
第一声は、何とも間抜けなものだった。閉じたままの目蓋の向こう側に、光の気配はない。
(ここは、死後の世界?)
肌寒さに震えなきゃいけないなんて、あまり快適とはいえない環境だ。
天上ってもっとこう、暖かくて光輝いていて苦しみもない『楽園』みたいな場所というイメージだったけど……。
疑問ばかりの夢から覚めるように、ふわりと意識が浮かび上がった気がした。
ゆっくりと目を開ける。暗闇に慣れるまで待つこと数秒、ようやく慣れてきた。うっすらと、その場所の輪郭が明らかになる――
「え?」
目の前の光景に自然と声が漏れ、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
私がいるのは薄暗い部屋の中だった。はためくカーテンから僅かに差し込む月の光が、ぼんやりと室内を照らしている。
自室というに相応しい家具が一通り揃っていた。特徴的な傾いた壁のおかげで、実際よりも狭苦しく見える空間には、見覚えがある。
(教会の、屋根裏部屋)
昔、結婚する前に暮らしていた場所だ。どうして、と疑問が心の中で渦を巻く。
一瞬で眠気が消え去り、私は文字通り布団を跳ね退けて起き上がった。
長く病気を患っていたはずの体は、すいと自由に動く。さっきまで辛くて苦しかったのに、様々な不調は綺麗さっぱり消えていた。
(夢? それとも過去の記憶……?)
判断がつかないままベッドを降り、ゆっくりと歩く。部屋の中に、小さな足音が響く。杖なしで動くのは、本当に久しぶりだ。
花のような懐かしい香りが鼻をくすぐった。開きっぱなしの日記帳が、月の光に照らされている。
ふらふらとドレッサーの前に立った私は、ふと顔を上げて――
「……!」
凍りついたように全身が硬直する。心臓がばくばくと早鐘を打ち、息遣いが乱れる。
真珠のような色の髪。生き生きと輝く冬空の瞳。鏡には、若々しい肌を持つ、ひとりの少女が映っていた。
「……うそ。どういう、こと?」
鏡に背を向け、呟く。震える声が静けさに吸い込まれる。私の疑問に答えてくれる人は誰もいない。
(落ち着いて)
と、自分に言い聞かせられるまでに、どれだけ時間がかかったかわからない。
深呼吸をした。冷たい空気を胸いっぱいに取り込み、ゆっくりと吐き出してから、もう一度鏡を見た。映っている少女が、こちらを見返している。
私は今、生きている。
少女の姿をした、昔の私として。
――まるで、時間が巻き戻ったみたいに。
初投稿です。
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