“才能がない”と言われたので、“連弾”を披露して差し上げましたわ
王立音楽学院の大ホールに、審査員の低くよく通る声が響いた。
今年のコンクール・ピアノ部門──本選へ進む者たちの名が、順に読み上げられていく。
だが、その中に、ユリーナ・アルヴェンティーニの名はなかった。
観客席のあちこちから、抑えきれない失笑が漏れる。
「また、ユリーナ嬢は予選落ちか」
「名門伯爵家の面汚しだな」
「最初から出る必要なんてなかったんじゃないか」
代々、宮廷楽師を輩出してきた由緒あるアルヴェンティーニ伯爵家。
その輝かしい家名を、娘が汚した──そんな陰口が聞こえてくる。
ユリーナは唇を固く噛みしめた。
演奏の才は乏しい。だが、作曲と編曲においては、この学院で誰よりも抜きん出ている。
けれども、この国で評価されるのは“いかに楽譜を正確に再現できるか”という演奏技術のみ。
作曲や編曲は王族の特権。平民や貴族が過度にアレンジを加えれば、不敬罪に問われる──そんな噂すら流れていた。
「まぁ、お姉さま……また予選落ちですの?」
耳障りなほど軽やかな声──振り向かずとも、誰かはわかる。
「ダリア……」
ダリア──演奏では常に上位、社交にも長け、周囲の人気を集める妹だ。
同情めかした声音とは裏腹に、その瞳は冷ややかに笑っている。
「もう、“学院の笑いもの”としては他に並ぶ者がいませんわね。未だに暗譜も出来ないなんて……。アルヴェンティーニ家の名誉と伝統は、このわたくしにお任せくださいませ」
そして紅い唇の端を吊り上げ、冷たく言い放つ。
「お姉さまには才能がありませんもの。音楽の道など、そろそろお諦めになってはいかが? ──音楽とは、本来、選ばれた者だけが歩める道ですわ。明日の本選でわたくしの演奏をよくお聴きになって、ご自身の身の振り方をよくお考えになることね」
周囲の生徒たちが、くすくすと笑いを漏らす。
ユリーナは爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
◇
「ユリーナ……もう限界だ」
コンクールから数日後。
婚約者のオルクスは、まるで判決を告げるような低い声で切り出した。
ファーガス侯爵家の嫡男にして、学院でも名高い演奏家。
琥珀色の瞳が、この日は冷たい硝子のように光っていた。
「……何の話?」
「君との婚約だ」
彼は一拍置き、静かに、しかし残酷な言葉を落とした。
「正直、あの演奏では僕の隣に立つ資格はない。君には音楽の才能がないんだ……。だから僕は、代わりに君の妹のダリアと婚約する」
胸の奥に、氷の刃が突き立つ。
オルクスは淡々と続ける。
「彼女は演奏技術も容姿も素晴らしい。僕には、彼女こそふさわしい。この前のコンクールでは、彼女が一位、僕が二位──これ以上の理想的な組み合わせはないだろう」
ユリーナの指先が震えた。
彼女は知っている。オルクスとダリアが、ずっと前から密かに通じ合っていたことを。
「……わかったわ」
唇を噛み、こみ上げる涙を必死に堪える。
誇りだけは、最後まで手放すまいと、無理に笑みを浮かべた。
◇
ある日、父の呼び出しを受け、ユリーナは王宮へ向かった。
謁見の間に足を踏み入れると、玉座には威厳ある国王と気品に満ちた王妃が並んでいた。その傍らには、背の高い青年が一人、凛とした姿で控えている。
緊張に指先が冷たくなるのを感じながら、ユリーナは静かに跪いた。
「アルヴェンティーニ伯爵令嬢。今日は、そなたに頼みがあって来てもらった」
「……頼み、でございますか?」
「ああ。──紹介しよう。わが三男、ルートリヒだ」
王妃がそっと合図を送る。背の高い青年が一歩前へ出た。
透き通る碧の瞳。落ち着いた微笑を浮かべながらも、口を開くことはない。
「彼は、生まれつき耳が悪く、幼いころから音をはっきりと聞き取ることができなかった。そして十歳になった、ある日──世界からすべての音が消えた。それ以来、自ら声を発することもなくなった……」
国王の説明に、青年は静かに頷く。
王妃が柔らかな声で続けた。
「私とルートリヒは、毎年、王立音楽学院のコンクールを、予選から聴衆として訪れています。耳が聞こえなくとも、振動や空気の流れで音楽を感じられるはずだと……そう信じて。けれど、これまで一度も彼が反応を示したことはありませんでした。──今年までは」
ユリーナの胸が高鳴る。
「……まさか、それは……」
「ええ。あなたの演奏に、です」
王妃の言葉を裏付けるように、ルートリヒの目がほんの少しだけ細められた。
「そこで頼みたい。そなたの音を、毎日ルートリヒに届けてやってほしいのだ」
国王のその言葉に、ユリーナは息を呑む。
「……光栄でございます」
その声は震えていたが、確かな喜びがそこにあった。
◇
それから、ユリーナは毎日のようにルートリヒの前で演奏した。
彼は耳が聞こえないはずなのに、音楽の変化を驚くほど敏感に感じ取った。
彼は時折、身振り手振りで合図した。その合図どおりにテンポや強弱を変えると──王子の瞳がふっときらめく。
やがてユリーナは、自分の音を初めて愛おしいと思えるようになっていた。
誰かを喜ばせるために奏でる音──それは順位や点数とは無縁の、温かく確かなものだった。
数週間後のある日。
ルートリヒは小さく手を伸ばし、ピアノの椅子を指さした。
──一緒に座って。
そう告げる無言の仕草。
ユリーナが戸惑いながら腰を下ろすと、王子は右手を鍵盤に置き、左手で「あなたはこっち」と低音部を示す。
連弾──それは彼女にとって初めての経験だった。
最初は音がぶつかり、テンポもずれた。けれども、王子は表情ひとつ変えず、時折わずかな笑みを浮かべながら、何度も同じ小節を繰り返した。
音がぴたりと重なった瞬間、彼の肩が小さく震え、目元が柔らかく緩む。
その反応が嬉しくて、ユリーナの指先はどんどん軽やかになっていった。
やがて二人の演奏は、会話のように滑らかになっていく。
音と音が触れ合い、重なり、離れて、また寄り添う──その時間は、いつしか彼女にとってかけがえのない宝物となっていた。
◇
二人のピアノ二重奏は、すでに王宮中の噂となっていた。
ある午後、ユリーナが楽譜をめくっていると、王宮付きの侍女が静かに部屋へ入ってきた。
銀の封蝋が施された厚い封筒を、恭しく差し出す。
「王宮主催、秋の音楽祭のご案内でございます」
ユリーナは息をのんだ。
王宮の音楽祭──それは、選ばれし者だけが立つことを許される舞台。王国中の音楽家が憧れ、そしてあのダリアとオルクスも出演する。
封筒を受け取ると、ユリーナはルートリヒと並んで中身を覗き込む。
そこには、王妃の推薦による特別枠での参加が記されていた。
ユリーナの胸に迷いが走る。二人の技術は未熟で、この舞台に立てば笑われるかもしれない。
だが、ルートリヒは文面を指でなぞり、彼女を見つめると、わずかに唇を動かした。
──出よう。
声は聞こえないはずなのに、その意志は確かに届いた。
胸の奥で、熱い響きが鳴りわたる。
こうして二人は音楽祭へ向けた練習を始めた。身振りや筆談を重ね、楽譜には互いの想いを書き込む。その楽譜は、やがて二人にとってかけがえのない宝物になっていった。
──そしてある日。学院でユリーナは、ダリアとオルクスに出会う。
「あら、お姉さま。ルートリヒ殿下とピアノ二重奏で音楽祭に参加なさるそうですわね?」
ダリアが冷ややかに微笑む。すぐにオルクスが嘲るように言葉を継いだ。
「ははっ、本気か!? 予選落ちのお嬢様と、耳が聞こえぬ王子の連弾だと? これはいい笑いものだな」
「しっ! オルクス、誰かに聞かれたら不敬罪よ」
「不敬罪だって? むしろユリーナの下手な演奏で、王子に恥をかかせる方がよほど罪深いだろう」
「そんなことはありません!」
ユリーナは毅然と顔を上げた。
「わたくしたちは楽譜に思いを書き込み、互いを支え合って演奏しています。それに、音楽祭には楽譜の持ち込みが可能。あなた方ほど華やかではなくても、恥をかくような舞台にはなりません」
ダリアは一瞬だけ瞳を細め、冷たい光を宿す。
「まあ……。わたくしたちも二重奏で出演いたしますわ。お互い、頑張りましょうね」
その声音には、明らかな敵意が滲んでいた。
◇
──音楽祭当日。
王宮の大広間から、盛大な拍手とざわめきが聞こえてくる。
ダリアとオルクスのピアノ二重奏が、今まさに終わったところだった。完璧な技術、計算された抑揚、会場は絶賛の空気に包まれている。
次は──ユリーナとルートリヒの番。
舞台袖。
ユリーナの手は震えていた。白い手袋の中で、冷たい指先。楽譜がどこにもない。
控え室にあったはずの楽譜が、忽然と姿を消していた。
視線を動かすと、客席近くでダリアが勝ち誇った笑みを浮かべているのが見えた。
胸の奥で何かがざわつく。けれども、今は怒っている暇もない。
そのとき、隣のルートリヒが、そっと彼女の手を包み込んだ。
耳の聞こえない彼は、口を開くこともない。ただ、深い青の瞳で真っ直ぐにユリーナを見つめる。
──信じて。
言葉にはならないが、その視線と、ゆっくり頷く仕草がすべてを伝えてきた。
ユリーナは、息を吸い込む。震えが止まり、背筋が伸びた。
楽譜を持たず、舞台へ二人で歩み出る。
ざわめく観客の中、椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
ルートリヒが最初の音を出す。
──ポロン。
たどたどしい音が響く。次の瞬間、ユリーナがそれに続くように音を重ねた。
最初は噛み合わない。リズムがずれ、音がぶつかる。
けれど、ルートリヒは目と体で、次の動きをユリーナに伝え続ける。
ユリーナもまた、彼のわずかな動きや呼吸を読み取り、音をつなげる。
やがて、ぎこちなかった二人の演奏が、少しずつ形を成し始めた。
正確さにはほど遠い。ユリーナはルートリヒのミスをアレンジで覆い隠し、その場限りの旋律を紡ぎ出す。
それは本来の楽譜とも、誰も知る曲とも違う──奇妙で、けれど唯一無二の音楽だった。
音が重なり、溶け合い、最後の和音が響いた。
会場が静まり返る。
次に起きたのは、爆発するような拍手だった。
玉座から、王が立ち上がる。
王妃は口元に手を当て、目を潤ませていた。
ルートリヒがユリーナを見る。
声にならない唇の動きが、今度ははっきりと読めた。
──ありがとう。
完璧ではない。しかし、その音には、互いを信じ合う強さと、二人だけの物語が宿っていた。
「……おかしいわ!」
甲高い声が響き、場の空気が一瞬止まった。
前へ進み出たのは、顔を真っ赤にしたダリアだった。
「こんなの、ありえませんわ! あんなバラバラな演奏、なぜこんなに拍手が起きるの!? それに──王族が作った曲を勝手にアレンジするなんて……不敬罪ですわ!」
必死の形相で声を張り上げるその姿に、優雅さは欠片もない。すでに醜態をさらしていた。
「確かに……あなたの言う通り“不敬罪”にあたるかもしれません……」
王妃が静かにそう告げると、ダリアは勝ち誇ったように口角を吊り上げた。
「そもそも、二人の腕前では楽譜が必要ですのに。その大切な楽譜すら失くした挙句、あんな滅茶苦茶な演奏──」
その瞬間、王の眉がわずかに動いた。
「……ほう。楽譜を持っていなかったことが、なぜ“失くした”と分かるのだ?」
しまった、という色が一瞬だけダリアの顔をよぎる。しかし、もう遅い。
「そ、それは……あ……」
「まさか、誰かが楽譜を奪ったとでも?」
王妃が穏やかな笑みを浮かべながら問いかける。
「そ、そんなこと……わたくしは……ただ……あの……」
その時、控えていた騎士が王の耳元へと歩み寄り、何事かを報告した。
王は静かに頷き、はっきりとした声で告げる。
「ダリア嬢──そなたの控室から、破られた楽譜が見つかったそうだ」
客席がざわめき、一斉に彼女へ視線が集まる。
「な、なにを……わたくしは存じませんわ!」
必死に否定するダリア。しかし、王妃が一歩前に出て冷ややかに告げた。
「王の問いに嘘をつく──それこそ不敬罪、いえ、偽証罪にも当たります。それでも、あなたは“何も知らない”と、そう申しますか?」
「……あ、あれは……ほんの出来心で……わ、わたくしが悪いはずありませんわ! そ、そうですわ、悪いのはお姉さまなの! 暗譜すらできないほど下手なのに音楽祭に出て……ルートリヒ様の隣で演奏するなんて……そんなの、音楽への冒涜ですわ!」
必死に言い募り、ドレスの裾を引きずりながら王の前に膝をつくダリア。だが、王妃は冷ややかに告げた。
「この場での卑劣な妨害は、芸術を穢す行為。それに──まがりなりにもルートリヒは王子。その演奏を妨げたあなたこそ、不敬罪。ダリア・アルヴェンティーニ、その罪は重い」
誰一人、彼女に手を差し伸べる者はいなかった。
会場の隅では、オルクスですら視線を逸らしている。
「それに、音楽とは“音を楽しむ”もの。演奏する者も、聴く者も。下手だからといって、音楽を愛し、表現してはならないなど──それこそ、音楽に対する冒涜です!」
王妃の言葉を聞き、ダリアはその場に泣き崩れた。
◇
ルートリヒとユリーナが控え室へ戻ると、そこには拍手で迎える男がいた。──オルクスだ。
「ユリーナ、素晴らしい演奏だった……。さすがは僕の婚約者だ」
その言葉に、ユリーナは目を瞬かせる。
「……何を言っているの? あなたの婚約者はダリアでしょう?」
「おいおい、君こそ何を言ってるんだ。僕は一度も“婚約を破棄する”なんて言ってない。君が勝手に勘違いしただけだ。それに正式にお父上にも話をしていない。つまり、僕たちの婚約は有効だ」
「でも、あなたは“ダリアを婚約者にする”と……」
「あれは君に奮起してほしかっただけさ。発破をかけたんだよ。僕は君を信じていたし、愛してるんだ。分かってくれるだろ?」
オルクスの言葉を遮るように、ルートリヒが一歩前に出る。
「どうしました? これは僕とユリーナの問題です。ルートリヒ様には関係ありません」
そう言うオルクスに、ルートリヒは無言で両腕を大きく交差し、✕の印を作った。
次に自分を指差し、ユリーナを指差し、両手でハートマークを作る。
オルクスとユリーナの目が同時に見開かれる。
「はあ!? 王子だからって他人の婚約者を横取りしていいわけがない!」
そう言って、オルクスがユリーナの腕を乱暴に掴もうとする。だが、その手は軽く払われた。
ユリーナは迷わずルートリヒの手を握り、毅然と告げる。
「ご覧の通りですわ、オルクス様。わたくしたちはすでに恋仲です。ですから、あなたとの婚約は、今この場で破棄いたします!」
その瞬間、オルクスの顔から血の気が引いていった。
「あの時のあなたの言葉で、わたくしは傷つきました」
「いや、傷つけるだなんて思わなかった。僕はそんなつもりで言ってない。すべて、君のために──」
「“一度吐いた唾は飲み込めない” ──もし、あの言葉が、わたくしのためだったならば、なぜ、言う前に、相手がどう思うか、考えてくださらなかったのでしょう!?」
「そ、それは……ち、違うんだ……僕は……僕は……くっ、お、王子! あなたのせいだ! 音のない世界で生きる人間に……音楽が分かるわけがない! あんな演奏で彼女の気持ちを──」
その瞬間、控え室の扉が勢いよく開き、騒ぎを聞きつけた衛兵たちが駆け込んできた。オルクスを押さえつけ、逃げ場を奪う。
「や、やめろ! 話はまだ……!」
ルートリヒは冷静に手を上げ、衛兵に連れ出すように合図を送った。
オルクスは必死に抵抗し、叫び続ける。
「僕は……僕は宮廷楽師になる人間だ! 優秀なんだぞ!」
だがその声も、衛兵に引きずられるうちに次第に遠のき、控え室には静寂だけが残った。
◇
──数か月後。
音楽祭のあとも、ユリーナは変わらずルートリヒのもとを訪れていた。
しかし、正式な婚約の申し込みがあるわけでも、恋人らしい関係になるわけでもない。
訪れるたび、胸の奥に小さな期待を抱く。だが、その想いはいつも、静かに砕け散った。
以前のように二人で連弾をする機会も、めっきり減っていた。ルートリヒは曲作りに没頭していたからだ。
それでも、音が分かりづらいときには、彼は何度もユリーナに助言を求めてきた。
──そして、ついにその曲が完成した。
ルートリヒは楽譜を手に、ユリーナの前に立った。
「……え、わたくしに?」
戸惑うユリーナに、彼は静かに頷く。
差し出された楽譜を受け取り、ページをめくる。
タイトルは──『音楽を愛する者たち』。
そこには、メッセージが添えられていた。
『音楽は、音を楽しむもの。その喜びは、誰にでも平等に与えられる。楽譜どおりでなくてもいい。どんな表現であれ、そこに楽しさがあれば、それでいい──それが、この曲を書いた者の願いです』
──弾いてほしい
ルートリヒは、身振り手振りでそう伝える。
ユリーナは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、微笑んで頷いた。
鍵盤の上に指を置き、ゆっくりと音を紡ぎ始める。
差し込む陽光が、彼女の横顔をやわらかく照らす。
その姿を見つめながら、ルートリヒは声にならぬほどのかすかな声で呟いた。
──愛してる
窓からの光が、二人を優しく包み込んでいた。
この作品は、「下手でも書いていい」「作者の意図が分からなくても読んでいい」「その時間を楽しめれば、それでいい」──そんな思いで描きました。
どうか「小説家になろう」が、皆様にとって楽しい場所であり続けますように──そう願っております。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。
誤字報告ありがとうございます!