軽巡天羽、黎明の出撃
昭和十一年、初夏。
舞鶴鎮守府の沖を、銀色の艦影が滑るように走っていた。
その艦の名は、軽巡洋艦『天羽』。
新鋭の高速水雷戦隊旗艦として竣工したばかりの試製艦であり、その姿は旧来の軽巡のどれとも似ていなかった。
艦首と艦尾に一基ずつ据えられた三連装十五糎砲。
舷側には第二甲板上に三連装魚雷発射管を左右に二基ずつ、計四基。すなわち十二門。
常用三十五ノットを誇る高速にして、重雷装と巡洋艦火力を併せ持つ異形の艦である。
「新しい風、ですな」
艦橋の隅で呟いたのは、戦隊司令官・大島中将。五十代の叩き上げで、駆逐艦乗りとして名を馳せた人物だった。
「旧式の軽巡や特型に比べ、取り回しも操艦も見違えます。機関科も嬉しそうでしたよ」
応じたのは艦長の川辺中佐。こちらは実直な艦政本部出身で、造艦技術にも明るい。
大島は海図を見やった。艦隊演習の第一段階、接敵前哨戦が始まる。『天羽』は駆逐隊を率いて夜戦で敵を雷撃する役目を担っていた。
「だが、あまりに速すぎるのも善し悪しだ。後続の駆逐艦がついてこられるかが問題だな」
「司令、天羽はあくまで支援に徹します。主役は駆逐艦たちですから」
川辺の言葉に、大島はうなずいた。
――だが、実際にはこの艦こそが、新時代の主役になるかもしれぬ。
そんな予感を抱きながら、彼は命令を下した。
「第二戦隊、全艦、東方海域へ進出。以降、雷撃戦隊行動に移る」
*
その夜、天羽は濃霧の中を疾走していた。
波濤を切り裂く速力三十五ノット。蒸気タービンの震動が艦全体を伝う。艦橋の明かりは最小限、搭載水上探照灯も消灯されていた。
「煙幕、展開位置よし。各駆逐艦、雷撃態勢に入るとのこと」
「よし、天羽、戦速三十、魚雷管、旋回用意」
第二甲板、舷側に配置された三連装魚雷発射管がゆっくりと角度を変える。砲塔のように装甲では覆われていないが、簡易の防弾板と上部構造で敵弾の直撃を避ける構造だ。
天羽の魚雷発射管は、かつての重雷装艦「北上」などよりもはるかに低重心で、重心の高さに悩まされることはなかった。艦政本部が初めて「水雷戦のための巡洋艦」を設計した成果だった。
「敵艦影、視認距離! 東方一八〇、戦艦型一、巡洋艦型二、駆逐数隻!」
「距離は?」
「八千!」
川辺艦長がすぐさま判断を下す。
「雷撃用意、左舷! 三連装二基、射角十五度、角度固定!」
魚雷兵員たちが一斉に動く。発射管の角度はあらかじめ決められており、艦の旋回と速力で補正をかける。
夜風に乗って、敵の探照灯が点いた。天羽の艦橋が白く浮かび上がる。
「照射された! 雷撃、撃て!」
乾いた衝撃が、艦体を伝った。続けて二基目も発射。六本の九三式酸素魚雷が、音もなく海中を進む。
「艦首旋回! 退避行動!」
天羽は全速で転舵し、探照灯の光から離脱していく。魚雷再装填員たちはすでに次弾を準備していた。速力と雷装を両立するこの艦にとって、雷撃は一度きりではない。
「着弾! 一、二……四本命中! 敵巡洋艦、一隻轟沈!」
報告に、艦内の空気が沸いた。
「さすが、我らの雷撃王だな」
大島司令は満足げに言い、川辺艦長は冷静に応じた。
「ただの初撃成功です。敵も学習する。次からが本番ですよ」
*
演習後、舞鶴へ帰投した『天羽』の戦果は、海軍上層部にも衝撃を与えた。
「軽巡にこれほどの雷撃力があるとは……」
「しかも速力は特型と同等、主砲は十五糎三連装で敵巡洋艦にも抗戦可能。まさしく万能軽巡ですな」
軍令部の高官たちが報告書を前に語り合う。だが、一人だけ難色を示す者がいた。造艦に関わる技術大佐、梶谷である。
「性能は確かに優秀。だが、あれは万能ではない」
「ほう?」
「艦は、万能になろうとすれば、何かを失う。天羽はまだ若く、訓練された乗組員の腕で成り立っている。量産しても、同じ働きができるとは限らない」
「しかし――」
「問題は、あれが一代限りの傑作艦になるか、艦隊の骨格になるかだ」
彼の言葉は、後に現実となる。
天羽はその後の戦隊演習でも圧倒的な戦果を上げ、多くの駆逐艦・巡洋艦の支援母艦として模範とされた。だが、工業力の限界、量産性の難しさ、そして軍政の壁に阻まれ、同型艦は一隻しか建造されなかった。
*
数年後。太平洋の某戦域にて。
天羽は、数隻の駆逐艦を率い、再び夜の海に挑む。かつてのような速度は出ない。機関も古び、艦体も痛んでいる。
だが、彼女はなお艦隊の先頭を走っていた。
前方に敵影。戦艦型一、巡洋艦型二。照明弾が上がる。
天羽はその艦首を、静かに敵へと向ける。
――雷撃用意。これより、第二次雷撃戦を開始す。
そう艦内通信に響く声は、かつてと変わらぬ勇気を帯びていた。
軽巡『天羽』。
その名は、今もなお、海の風とともに語り継がれている。