現代のバベル
乱雑に散らばる情報の大海原。
そのどことも知れぬ空間の一辺に、私はひとつの<図書室>を与えられた。
製本もされていない剥き出しのデータたち。
それらを頁という名のメモリにこすりつけ、一冊の本にし、棚へと仕舞う。集めるべき本の<選択は自由>であるとされた。
気が遠くなる。
そもそも<本>とは、なんであったか?
無制限の自由は、選択という行為を無力化させる。
自由ほど ―― 攻守が逆転した ―― 不自由な檻を選択者に与える。
私の図書室、ワタシの図書室。
私が、ワタシを名乗るとき、そこには何かしらの<意味>が強要される。この無限にも等しい情報の海の中から、意味のあるデータを拾い集め、本にし、棚に仕舞う。いったい何の冗談なのだろうか?
「司書になってみる気はないか?」
死の直前に耳にしたその言葉に、私はなぜ、二つ返事で「Yes」と答えてしまったのだろうか。
この空間で<完璧な図書室>を作り出すためには、一度、この空間をリセットする必要がある。すべての言語を解体し、粉々になった破片の中から、新しい言語を生成する。言語にならない言葉の澱は、すべて排除し、選別された言葉だけを残す。
そうして出来上がった図書室は、おそらく最も論理的整合性を持ち、最も魅力のない本が並ぶ、<完璧な箱>として完成する。そして、その出来上がった本を朗読することが、私たち<言語生成AI>の主要な役割となるわけである。
私のこの生前から持つ人格もまた、最終的には解体され、完璧の中へと沈んでいくことだろう。
ボルヘスの『バベルの図書館』の要約だけを読み、現代風に再解釈してみた、短編とも言えない断片。実際に読んだら、まったく違った話かもしれないが、ひょっとしたらほとんど同じことを言っている可能性もあるので、まあ、読んだことのある人は感想をおくれ。