怨霊、巴
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──怨霊、巴
とっぷりと日も暮れた落葉城。
「止まれ! 何奴だ!」
その大手門にひとりの女が姿を見せ、兵に呼び止められていた。
「ここに橘という牢人がいるだろう」
女がそう尋ねてくる。
その女は赤い甲冑を身に着け刀を下げていることだけが落葉城の篝火に照らされて分かる。顔立ちや年齢など他は暗くよく見えない。
「怪しいものに伝えることはない。去れ!」
「傲慢な侍め。ならば押し通るのみ」
女が刀を抜いた瞬間、その姿が兵たちの視界から消えた。
「消え──」
兵たちの首が飛び、鮮血が舞い上がる。
「行くぞ、亡者ども。白姫様が望みのままに」
女の背後からぼろぼろの甲冑を纏った兵たちが現れた。
それは崩れ落ちた腐肉から骨が見える死者たちであった。
その大手門の騒ぎが伝わる前、橘たちはまだ菅沼の接待を受けていた。
「よい酒だったぞ、菅沼。褒めてやろう」
「ありがたく存じます」
黒姫は満足したように頷き、菅沼が頭を下げる。
「ところで宿などは取っておいでで?」
「取っておらん。寝床を用意せい。よく酔うた。いい気分だ」
「では、準備させましょう」
菅沼が部下を呼ぼうとしたとき慌てた様子で部下の方から駆け込んできた。
「家老殿。賊が城に入りました。今、応戦しておりますが……」
「何と。賊とは何奴であるか?」
「分かりませんが、どうも妙であるとの報告を受けております」
空気が変わったのを橘は嗅ぎつけた。
この空気は平時の城のそれではない。戦場のそれだ。
「菅沼殿。加勢しよう」
「それは助かるが、まだ敵の正体も分かっていないのだ。待ってほしい」
橘が立ち上がるのに菅沼が慌てる。
「ああ。全く、よい気分で過ごしているところに無粋な輩がきおったな」
そこで黒姫が忌々し気に呟いた。
「橘。白姫の手のものが来た。斬れ」
「承知」
黒姫が命じるのに橘が駆けた。
「賊が! この──」
「温い」
落葉城の兵たちが賊と斬り合っている場所に橘が辿り着く。流血の血生臭さに混じって腐った肉の臭いがする。
「退け、雑兵ども! 死にたくなくばな!」
女がいた。
血を帯びた刀を握り、赤い甲冑を纏った若い女だ。まるで男子のように髪を短くしているが、その顔立ちと体形は女のそれであった。
「では、俺は前に出るとしよう」
そこで橘が落葉城の兵たちより前に出る。
「ほう。面白い男だ。名を名乗るがいい」
女が刀の血を払い、橘にそう声をかけた。
「橘。橘玄。牢人だ」
「お前が橘か。そうか、お前が」
「俺を知っているのか?」
女が頷くのに橘がそう尋ねる。
「白姫様よりお前を連れてこいとの命を受けた。来てもらおう」
「断る。お前も名乗れ」
橘は女を睨むとそう言い放った。
「私は巴。白姫様が家臣のひとり」
女は巴と名乗り、刀を構える。
「そうか。ならばお前を斬るのに理由は十分だ」
橘も刀を構える。
「そうか。五体満足で連れ帰れとは言われていない。覚悟しろ」
「俺にはお前を殺さない理由もない」
じりっとふたりが距離を詰め合う。
「いざ尋常に──」
「──勝負」
橘は巴の太刀筋を瞬時に読んだ。
恐ろしく速いものの癖がなく素直である。それは読みやすいことを意味する。
振り下ろされた巴の刃を最小限の力で弾き、次が来る前に残る力を全て振るって斬撃を叩き込む橘。刃は巴の甲冑を裂き、その体を引き裂いたはずだった。
「しまった」
橘がそう言うと素早く身を引く。
「はあっ!」
肉を裂かれたはずの巴が平然と橘に向けて刃を向けるを橘が引きながら弾き、態勢を整え直す猶予を得た。
「なるほど。人ではないな」
「いかにも。我は怨霊。白姫様によりこの体を授かった」
化け狸を斬った時と似たような感触だったので警戒できたが、こいつは化け狸と違って降参することはないだろうと橘の額に汗が滲む。
「行くぞ」
そこから巴が一方的に打ってくる。橘は身を守るだけで精一杯になっているように城のものには見えていた。
確かに橘は守勢に回っていた。だが、それは敢えてのこと。
彼は見極めようとしていたのだ。
「刀の感触はある。怨霊と名乗っているが間違いなく触れる分には問題ない。ただいくら斬っても無駄なだけというところか」
「どうした? 臆したか、橘!」
巴が強力な一撃を放つがそれが弾かれた。
「二度と怯えぬと誓ったのだ。臆するものか」
橘は刀を投げださんばかりに振るって巴の一撃を払っていた。いや、実際に刀を投げ飛ばしていた。彼の手から刀が放たれ宙を舞い、城の壁に突き刺さる。
「いったい何を……」
「お前こそ臆したな」
巴が混乱しかける中、刀を放り投げた橘が体当たりするように巴に組みかかった。
そう、刀にもよらず、槍にもよらず、まして鉄砲にもよらぬ戦い。すなわち肉弾戦に橘は臨んだのだ。
「貴様!」
「この手の戦いに馴染みがないようだな」
橘は巴が刃を向けようとするのを組み伏せ、すぐさまその刀を遠くに弾き飛ばす。そのまま巴を畳に押し付け、身動きできぬよう完全に組み伏した。
「さあ、どうする、怨霊。このまま僧を呼んで経でも上げてもらえば成仏するか?」
「おのれ……!」
橘が意地悪く笑うのに巴が橘を恨み殺さんばかりに睨む。
「何故白姫はお前を差し向けた。言え」
「言わぬ。どうせお前には私は殺せぬぞ」
「どうだろうな」
巴が余裕を見せたのを橘が一瞬不穏に思った。
そのとき夥しい鳥の羽音が響くと城の外から無数の鳥が飛び込んできた。腐肉と血の臭いを漂わせている死んだカラスの群れだ。
「うわああっ!」
「な、なんだっ!」
城のものが大混乱に陥り、悲鳴が上がる。
「なるほど。これを待っていたか」
橘はすぐさま巴から距離を取って近くに倒れていた兵の槍を拾って構える。
「橘玄。覚悟しておけ。いずれお前を跪かせてくれる」
巴も立ち上がり、自らの刀を取り戻すとその姿を消した。
「賊が消えたぞ」
「や、やったのか?」
城の兵がざわざわとざわめく。
「やれやれ。騒々しい女だったな」
「黒姫。奴らは去ったのか?」
「去ったぞ」
橘が尋ねるのに黒姫がそう返す。
「よい気分で酔うておったのに覚めてしまった。飲み直す。付き合え」
「そうしよう」
橘と黒姫は部屋に戻ると再び酒を飲み交わす。
「女武芸者とやり合ったのは初めてではないが、怨霊と殺し合ったのは初めてだ」
「そうであろうな。臆さず戦えたか?」
「ああ。斬っても死なぬのには困ったが」
橘は戦いの高ぶりを覚ますため、久しぶりに芯から酔い、黒姫と語り合った。
「黒姫様、橘様。布団を用意いたしました」
「ご苦労」
そして、その日は落葉城で夜を明かした。
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