稲穂城にて
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──稲穂城にて
「よく来てくださった、橘殿、黒姫様」
菅沼が稲穂城にて橘たちを迎えた。
「白姫が軍を進めて来たと聞いた。西川殿は挙兵を?」
「当然だ。岩陽が脅かされるのに黙っておられる方ではない」
「それは良いことだ」
それから橘が黒姫に視線を向ける。
「菅沼。化け狐の里の物の怪どもがお前たちに加勢すると言っておる。物の怪とともに戦うつもりはあるか?」
「物の怪でございますか?」
「しらばっくれるでない。知っておるのだろうが。わしらを向かわせたのだからな。物の怪どもも白姫の首が狙いだ。ともに戦えると思うが、どうする?」
「物の怪となりますと……」
黒姫が告げるのに菅沼が心底困った表情を浮かべた。
「味方は多い方がよかろう? 白姫の側にも物の怪がいる。物の怪は物の怪同士で、だ。お前たちも亡者になった化け狸など相手にしたくはないだろう」
「確かに物の怪の相手は苦労しそうですが、御屋形様を説得しなければいけません。そして、御屋形様にも立場があられますので、物の怪と同盟をなさるかどうかの断言は今のところはできませぬ」
「どこまでその態度が通るか見ものだな。相手は物の怪と亡者どもを引き連れておる。物の怪や首無し武士が率いる軍勢ぞ。まあ、今は認めずとも一度合戦をやってから考え直すことになりそうだな」
「そうなるでしょうね。現実として亡者が合戦を行うならば、それを現実として受け入れなければならなくなる。物の怪が人を化かして食うのではなく、槍や鉄砲で襲ってくるなら受け入れられるというもの」
「では、必要なのは人死にか」
「御屋形様の立場もありますので」
実際に物の怪や亡者によって兵が殺されなければ物の怪も亡者も現実味が得られないと菅沼は言っているのだ。
彼自身は信じているし、把握している。だが、彼の主君である西川友三やその家臣の武将たちはそうではないだろう。
彼らにとっては物の怪や亡者など御伽噺。
その認識を変えるには流血しかないと黒姫と菅沼は結論した。
「そのような余裕はあるのか? 厳しい戦になるだろう。犠牲は避けるべきだ」
「言いたいことは分かる、橘殿。こちらも最大限犠牲を避けるために努力する。私がまず先陣を切って出る予定だ。そこで他のものに物の怪や亡者が事実であると示すのだ」
「では、俺がそれを加勢いたそう。少なくともそなたの身だけは守る」
「それはありがたいが、橘殿には他のことを任せたい」
「というと?」
「敵も先駆けを既にこちらに送り込んでいる。それが落葉城に現れた怨霊であることを物見の兵が確認した。あれは我々の手には負えない」
「巴か……」
間違いなくそれは巴であろう。白姫は卑劣な手を平然と使う。
そう、卑劣だ。怨霊は人間の兵士では殺せない。
「おい。あれはお前でも殺せんぞ。分かっておるのだろうな、橘?」
「太刀筋は把握している。戦えないことはない。それに今回は椎葉殿もいる」
「やぶ医者はまだ化け狐の里にいるだろう。ここにはおらぬぞ」
黒姫は橘を巴と戦わせたくないようで渋い表情をしていた。
「足止めをしておく。被害が広がらぬようにな。やれることをやっておかねば」
「言うても聞かぬか。なら、好きにしろ。いざというときはわしも加勢してやる」
「助かる、黒姫」
ため息交じりに黒姫がそう言い、橘が礼を述べた。
「菅沼殿。そちらとしてはどう動くのかお聞かせ願っても?」
「もちろんだ。説明しよう」
橘が求めるのに菅沼が稲穂城とその周辺を描いた書を広げる。
「この稲穂城から西に行った場所に首塚平原がある。無惨川の支流が流れる平原だ。白姫の軍はまだ渡河を終えていない。よってここで白姫を待ち受ける」
「なるほど。川を渡り終える前に叩くというところか」
古来より水から上がる軍は弱く、上陸作戦と渡河作戦は大きなリスクが常に存在している。その手の作戦で構築される橋頭保とは脆いものだ。
白姫の軍勢が無惨川の支流を渡河しようとするところ叩けば、物の怪であろうと屍兵であろうと損害を出すだろう。
「白姫の軍勢が渡河する瞬間を叩く。兵法に則れば勝つのは我々だ。だが、相手は物の怪であり、そしてあの怨霊がいる。橋頭保を叩こうとしても失敗する可能性がある」
「そもそもその支流は渡河可能なのか? 渡河可能なだけ浅いと?」
「過去にも渡河が行われたことはある。流れも穏やかで馬も渡れる」
「なら、間違いないな。ここで失敗すると首塚平原は守りに向かない。数が多い方が圧倒的に優位だ」
無惨川の支流を渡った先に広がる首塚平原は何の遮蔽物も起伏もなく、守るには向かない場所だった。
この手の地形は大きな兵力が展開可能であり、自然的に物量戦となる。こうなると小手先の兵法ではどうにもならない。
「紅葉。化け狐の里に行って椎葉殿を呼んできてくれ。それから物の怪たちにも首塚平原の傍まで来るように、と。そうだな……」
橘は地図を見渡す。
「この血塗れ渓谷の傍でいい。今は西川殿たち岩陽の兵に見つからないように」
「はっ。確かにお伝えします」
そして、紅葉が稲穂城を発って化け狐の里へと急ぐ。
「菅沼殿。敵に渡河を妨害する意図を見せるつもりだろうか?」
「兵を展開すればおのずと敵に伝わろう。もちろん、迂回されることも想定している。だが、渡河できる地点は限られている」
「後は敵の指揮官の考え方だな。敵について分かっていることは?」
「ほとんどない。敵の指揮官については特に。敵は岩陰の旗ではなく、百足の描かれた黒い旗を掲げて進んでいるそうなのだが……」
「岩戸衆は探っていないのか?」
「もちろん探らせている。探らせているからこそ今回の進軍にすぐさま対応できたのだ。しかし、相手は物の怪と亡者。岩戸衆でも手に余る」
菅沼はそう橘に語った。
「それに岩戸衆も岩陰と白姫だけに使うわけにはいかない。周辺の国々がこの混乱に乗じて我が国を害するかもしれないことに備えなければ」
「確かに。しかし、情報がないのは困るな」
「それは私も同じだ。岩陰がどうなっているのかすら私にはさっぱり分からない」
岩戸衆は周辺諸国の動きを見張っている。
今は戦国。白姫も脅威だが周辺諸国もまた岩陽の脅威だ。
「何だ。そう悩む必要はないぞ? その川はわしが治める無惨川の支流なのだろう?」
そこで黒姫がにやりと笑ってそう言った。
「まさか」
「氾濫させてやろう。白姫めの忌々しい軍隊がわしの川を渡ろうと言うならば押し流してやろう。わしに任せておけい」
やはり黒姫の提案は無惨川の氾濫というものである。
「最後に無惨川が洪水を起こしたのは永正12年のことです。それによって5万の民が死にました。それと同様のことを引き起こされるというのですか?」
「戦に勝つためだ。辛抱せよ」
「冗談ではありません。お断りします。それでは戦に勝っても国が滅びます」
流石の菅沼も何万という民を犠牲に戦に勝とうとは思わなかった。
「黒姫。それでは白姫に滅ぼされるのと変わらん。お前は俺とともに戦ってくれ。岩陽のためでもなく、物の怪たちのためでもなく、ただ俺と一緒に戦ってくれ」
「よかろう。わしが加勢してやる。向かうか?」
「ああ」
橘はそう言って頷いた。
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