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第九十八話『無謀と勇敢』

 無謀と勇敢の境界線を引くのは何だろうか。


 裏付けされた根拠か。当人の確固たる自信か。はたまた、周囲が認めるか次第か。


 ――かつて語った者は言う。どれも違う。


 根拠があるならば、自信があるならば、周囲が認めるならば。そんなものはどうだって良い。何一つ持たなくて構わない。必要なのは、自ら先の見えない暗闇に飛び込み――結果を、掴み取る事だ。


 結果だけが、この世全ての無謀を勇敢という名望に替える。愚者を智者に。貧者を富む者とする。


 シヴィリィが『鬼子』グリアボルトに向けて一歩を踏み出した事。これが無謀であるのか、勇敢であるのか。結果はまだ出ていない。


 アリナはシヴィリィに向けて、視線を一つ向ける。一秒にも満たない。

 

「そうか、庇えんぞ――」


 一言だけを言った。もう問答する余裕も、必要も無かった。


 アリナはシヴィリィを一人の戦士と任じている。未熟であれ、守護者に指が届かぬ存在であれ、戦士だ。


 ゆえに、ここを死に場所とシヴィリィが決めたのであれば、アリナは拒絶をしない。もしも彼女が自分は死なないと思っているのであれば、それは彼女が愚者であるだけだ。


 その決断を捻じ曲げるような真似をアリナは絶対にしない。生死に関わる決断だけは、人が唯一自由であるべき事柄だ。

 

「――ええ。私の好きにするから」


 無論、シヴィリィに死ぬ気はない。けれど退く気もない。それはアリナに対する感情もあるが、彼女なりの打算があるからだ。


 もしもここで本当にアリナが良くて相討ちにでもなってしまえば、その時点で大遠征はご破算だ。大騎士側にとって第一陣の目的は、元よりこの第七層に結界と橋頭保を築くことだった。


 それがこのような事態に陥って、更に騎士の一振りが落ちたとなれば、まず間違いなく遠征団は足を止める。強硬突破のような無謀な手段は取れなくなる。


 ――では大騎士が共にあって墜とせなかった浮遊城を、次シヴィリィが墜とせるのは何時になる?


 一年後か、二年後か、それとも更に後か。


 だからこそ、今シヴィリィは足を踏み出さねばならなかった。


 例えその先に、笑う鬼がいたとしても。


「ハ、ハ、ハ」


 グリアボルトはけらけらと特徴的な笑い方で声をあげた。


 恐ろしいのは、彼女はしっかりと笑っているのに、聞こえてくる声はそんなものに到底思えなかった事だ。臓腑を舐めとり、背筋を冷たく凍らせていく声。


 長い角がくいと夜闇を動く。


「好きにする? どうやってだい。ま、逃げなかったのは正解だよ。勇気を買って、先に相手をしてやろう、王の器」


「? ――が、ぁッ!?」


 音が聞こえた時には、中段の蹴撃がシヴィリィの鳩尾を抉り抜いていた。嗚咽を吐く時間すらない。中空に蹴り上げられた瞬間、膝でもって横になぎ払われる。


 『超化(オーバー)』を成した鬼の速度は、先ほどまで目にしていたものの比では無かった。逃げないのが正解というのは、こういう意味か。


 数秒の思考が過ぎ去って、ようやくシヴィリィは自分の身体が勢いよく民家に叩きつけられその壁を突き破ったのを理解する。


 全身が痙攣する。壁と柱を全身で押し破った感触の方が、鬼の蹴撃よりまだ優しい。全身の骨がへし折れたのではないかと思うほどの痺れが、頭蓋から足の指先までを覆っている。

 

「こ、の……っ!」


 口の中からたっぷり血の味がした。眼から溢れるものが涙なのか血なのかすら分からない。


 けれどシヴィリィに、呼気を吐く暇など無かった。


 ――鬼は、紛れもない神速をもってシヴィリィを見下ろしながら、拳を振り上げていた。


 先ほどの蹴りとは違う。明確な死の気配。ただの拳一つに、重々しいほどの死の圧力がある。


 魂を射抜かれるような、一目みただけで心臓を砕かれてしまいそうな。明瞭な死の現実感。


「が、ぁあァ――っ!」


 全身の骨が軋んでいたが、動かなければ死ぬという本能がシヴィリィを突き動かした。『破壊(ブラスト)』を纏った左手を渾身をもって振り抜く。


 構えは滅茶苦茶。基本もまるでなっていない振り抜くだけの拳。けれど人間の駆動の限界まで魔力によって引き出されたそれは、確かに攻撃の体を成していた。

 

「――んん、ん? 随分とか弱い。分かんないねぇ。今までどうやって迷宮を超えて来たんだいあんた」


 けれど、かろうじて攻撃に到達しうる一撃が、『鬼子』グリアボルトに通じるはずがない。


 グリアボルトの右眼がシヴィリィを睥睨する。


 振り上げられた、確固たる死の感触。それはシヴィリィの拳と相対し、


「ハッ! そんなら、這いつくばって寝てな!」


 ――そのままシヴィリィの左腕を砕き散らした。


 肉が裂ける。血が意気揚々と飛び跳ねていく。骨は無かったものかのように扱われ、白い身だけを見せて弾けていく。


「――――ッ!」


 声にならない絶叫が響く。


 死よりはずっとマシだけれども。自分の肉体がちぎれ飛んでいく感触は最低にもほどがある。


 それにシヴィリィが死なずに済んだのは彼女が頑丈だったからではなく、ただグリアボルトが加減をしていたからに他ならない。彼女が必要な情報源であればこその手加減だ。


 もはや、いいや思えば最初からグリアボルトにとって、シヴィリィという少女は敵ではなかった。彼女はただ、王の魔導を有しているだけ。警戒をし過ぎた程だ。


 グリアボルトの敵はただ、一人。

 

 ――騎士剣が、神速に追いついて背後より振るわれる。それは戦役の騎士もまた、一つ魔導を解放した証。


「ハハハ。最初からそうしてればいいのにさ」


「黙れ」


 周辺の家屋を、建造物を破壊しながら二つの強者が衝突しあう。


 置いていかれた弱者――シヴィリィはただ、血の沼に沈んでいた。左腕の感覚は無い。とはいえ他の箇所も無事とは到底言えない。満身創痍、生きているのが奇跡だった。


 この結果だけを見るのであれば、なるほど彼女は無謀だった。出来たのはアリナが魔力を解放するまでの数秒の時間稼ぎ。失ったものは自分の身体。


「……っ、ぐ……が……っ」


 思えば、これは然るべき結果だった。


 シヴィリィ自身が誰よりも理解している。


 自分にはエレクや大騎士といった英雄が持つような武技も、はたまた輝く才覚も持ち合わせていない。今こうして在れるのだって、自分が優れていたのではなくエレクという存在がいたからだ。


 彼の魔導があり、彼の教えがあり、彼に導かれて迷宮を潜り抜ける事が出来た。


 詰まる所、与えられたものだけで迷宮に挑み続けていたわけだ。


「は、は……」


 そうとも。今更思い出した。自分はか弱い小娘ではないか。


 理不尽が許せない? 何を馬鹿げた事を。


 今まで何度、理不尽を見過ごしてきたのだ。隣人が無意味に虐げられた時、震えて押し黙っていただけではないか。子供が冤罪で骨をへし折られた時、声をあげる勇気すら持たなかったではないか。


 ――少し智恵と力を持った程度で、調子に乗った小娘に何が出来るというのか。


 血が、瞼と口の中に入り込んでくる。久しぶりだった。久しぶりに一人で、シヴィリィはどん底の中にいる。


 大丈夫、何もないのには慣れたものだ。


 シヴィリィ=ノールアートにとってはむしろ、何かが在るという事がおかしかったのだ。期待や希望が裏切られるなど日常茶飯事ではないか。


 お前にはどうせ、何もできやしない。


 今までだって、何も出来やしなかったのだから。


 昨日は今日、今日は明日、明日は未来。そうして延々と繰り返されるだけだ。


 だから、もう――。


 瞬間、ふと、頭に言葉がよぎった。血だらけの思考の中に過ぎる声。随分と懐かしく感じられた。


 彼はそういえば、笑いながら言っていたな。

 

 ――俺だって何度も失敗はしてきた。大事なのはそこで足を止めない事だよシヴィリィ。人間はな、幾らでも変われる。変わりたいのならな。


「…………ぁ、ぐ」


 血だらけの呼気が、死体同然の身体から噴き出す。ぎょろりと、紅蓮の瞳が血に染まって動く。


 左腕の感覚は相変わらず皆無だ。全身はかろうじて生きているだけ。


 しかし、生きている。


 視界は血の所為で殆ど隠れている。何も見えないに等しい。身体も殆ど動かない。


 だがそれでも、出来る事がないわけじゃあない。


 ならばどうする。何を替わりにする。何を使って、私は生き残るのだ。足りない頭で考えてみろ。


 血管からは血が噴き出し、意識は朦朧とする。


 使えるものは、身体ではない、血ではない。


 ああ、そうか。そういえばそれも、聞いたな。

 

 瞬間、呼気を吐き出し、捩れた骨格を無理やり引き戻しながら人の形が立ち上がった。魔力を噴き上がらせ、まるで影でも纏うかのように黒く塗り染まった左手がそこにある。

 

 ――アリナの言葉を借りるのならば、人が最も学ぶのは必要に迫られた時だ。ならば彼女は、間違いなく学んだのだろう。


『――――』


 故郷の言葉で、シヴィリィが何事かを呟いた。それは彼女一人しか聞いておらず、すぐ血の沼に消えていった。


 シヴィリィの一歩が、無謀であったのか勇敢であったのか。


 その結果はまだ出ていない。

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