第九十七話『ここに戦場を』
グリアボルトの瞳が瞬き、眼前の剣を見据える。
しかし彼女は、それよりも他のものに瞠目して目を見開いていた。
本来であるならば、『鬼子』グリアボルトにとって高々探索者一人の魔導など通じない。戦役の騎士アリナがエルフ達の魔矢を易々と迎撃したように、指先一つで跳ね飛ばせる。
だがグリアボルトは、動揺してしまった。
――シヴィリィが放った二重魔導は、今の人類が失ってしまったはずの魔技。
それに、よりによって『魔弾』と『爆散』の組み合わせは、グリアボルトの信仰相手が愛用したもの。
一瞬の逡巡、思考。
その一秒にも満たない躊躇が騎士剣を避ける暇を失わせ、偉大な鬼人の英雄から左眼を奪った。いいやそれで助かった分、彼女の反射神経が人外染みて優れていたと言える。
騎士剣を振るったアリナは、間違いなく核たる心臓を抉り取ろうとしていたのだから。
「ッ。そうか。やっぱりそういうわけかい」
左目から零れ落ちる黒い血は、グリアボルトがもはや魔の者となった事を示している。
後方へと飛び跳ね、しっかりと両脚で地面を踏みつけにしながら残った右眼で敵を見据えた。
大部分の探索者は、アリナの声に応じて大通りの制圧に向かった。ここに残るのはアリナ本人と、シヴィリィを含む僅かな数だけ。
グリアボルトの眼が、シヴィリィをじぃと見据える。
彼女こそ、王が肉を手に入れるための器。それゆえに彼女は魔導を手に入れるに至ったのだろう。肉体を共有する上で王と知識が混じったのか。
よもや王が小娘一人に魔導を教えたという事はあり得まい。
「ふ、ぅ――」
「此度は逃がしはせんぞ、鬼子よ」
グリアボルトはアリナより距離を取り、呼吸を整える。両手の拳を合わせ、全身に魔力を漲らせた。
左眼は失った。魔力による復元は戦場では不可能。アリナとはこの状態で戦うしかない。
しかし、だからどうした。
「魔導戦役を生きたあたしが、この程度でどうにかなると思ったのかい。馬鹿言うんじゃないよ」
指をがちりがちりと鳴らし、グリアボルトは思考を巡らせる。
そうとも。こんなもの窮地でも何でもない。
故郷の草原を出て、魔族と魔物の軍勢を相手取り戦った時はもっと酷かった。もっと凄惨だった。
傍らで腕を失う者がいた。脳漿を弾けさせる者がいた。命が次々と砕けていった。
しかし誰もが、名誉と尊厳の為に戦ったのだ。自身達が生き延びる為、生きていける明日の為に。
「――恥も知らない裏切り者共が、ここで終わって貰う」
「……恥を知らぬ、か。すまぬな。己は、もうその記憶が曖昧だ。五百年前に何があり、何が真実であったかなど記録でしか知らん。ただ己の知る愛の為に走るのみよ」
グリアボルトは、眼前の少女の実直さに頬を緩めた。かつて同胞であったアリナ=カーレリッジにも、似たような所があった。
――グリアボルト! 己は未熟だ。だが負けはせんぞ。何せこれしかできんのでな!
そう言って、草原でともに刃と拳を交わし合った騎士はもういない。互いに夢を語った友は数百年も前に死に伏した。人類の英雄、戦役の騎士として。
彼女は最後に会った時、その剣を王の血で濡らしてグリアボルトに言い放ったではないか。
――ここが己の旅路の果て。いずれ己を殺しに来い友よ。これしかなかった、こうするしかなかった。嗤ってくれ。人間なぞ、こうも弱いものなのだ。
久しく感じていない草原の匂いを思い出しながら、グリアボルトは呼気を漏らす。
見据える敵は、二人。他は有象無象に過ぎない。
戦役の騎士、アリナ=カーレリッジ。
魔王の魔導を持つ者、シヴィリィ=ノールアート。
ここで、決着をつけなければならない。必殺の意志をもってグリアボルトは詠唱を開始した。
「鬼族の秘技を見るが良い。かつての友、王の器。ここであんた達は死に絶える。魔導解放――『超化』」
肉体に魔力を付与する『強化』が、その全力を引き出すためのものだとするならば。『超化』はただただ、全力を超越させるためのもの。
グリアボルトの全身に、血と神経に魔力が絡み合っていく。爆発力と瞬発力においては、巨人をすら上回る鬼人の渾身。
雄々しい角を奮い立て、咆哮しながら周囲を圧する。空気は神妙に唸り、空間そのものが鼓動を止めてしまった。
そこに、鬼がいた。人類の御伽噺で語られる、力は強く、骨すら小指で砕け散らす。悪たる象徴。
――第七層守護者、『鬼子』グリアボルトが魔力を迸らせながら呼気を放った。
「……貴君。動けるな?」
グリアボルトの間合いに入っているのは、アリナとシヴィリィの二人だけだった。シヴィリィのパーティは『軍団』の波に飲まれ、取り残された探索者はその多くが怪我人。
それは大騎士への信頼の現れだったのかもしれない。アリナがいれば、守護者すら相手にはならない。彼女がいれば、敗北はない。だからこそ進める者は皆、前へと進んだ。
「ええ、勿論」
シヴィリィは頷く。恐らくは、前に進めと言われるのだろう。本来の目的はそれだ。
しかし、出来うるなら周囲のエルフの射手は片付けてからの方が――。
「良い。ならば逃げ、ヴィクトリアを呼べ。鬼子は必ず己が止める」
「――え?」
意外な一言に、シヴィリィは思わず聞き返した。兜の中で、アリナはくしゃりと瞳を細めて言う。
「繰り返させるな。ヴィクトリアを呼んでこいと言ったのだ。本来は奴も暫く休ませたかったが致し方ない」
アリナの言葉は、何時もの意気揚々としたものではなかった。いいや、飾り気が失われただけで、本来はこちらが本質なのかもしれない。どこか人間味すら感じさせる。
だからこそ、シヴィリィは頬に汗を垂らした。
アリナの口ぶりは、勝利を確信した騎士のものではなく。むしろ、
「……それは負けるかもしれない、って話?」
シヴィリィには、人の話の裏を読むある種の癖があった。そうしなければ生き残れなかった属領民という立場ゆえか。
何故そんな発言をしたのかという動機を、何処かに求めていた。アリナは目で笑みを浮かべ、シヴィリィにだけ聞こえるように言う。
「負けはせん。曲りなりにも奥の手はある。しかしな、貴君。己ら騎士は、迷宮にある守護者を五百年の間打倒できなかったのだ」
アリナははっきりとそう告げた。虚飾も、虚栄もそこにはなかった。
多くの者が語ろうとしない事実だ。大騎士らは地上に出てきた分霊は殺せても、迷宮に存在する本体は殺せなかった。
階層の統治者も、守護者も。
何せ彼らは迷宮において魔力の供給と庇護を受けている。ここは紛れもなく彼らが率いる魔の世界だ。
そこに踏み入り、本体を討ち果たすなぞどれほど困難な事か。大騎士と彼らはかつて同格の存在に過ぎなかったのだから。
――詰まる所、地上には大騎士は四人しかおらず。地下には彼女らに匹敵する数多くの英雄が双眸を輝かせているのだ。
不死の軍隊、浮遊城。迷宮が失陥せぬ理由は多くあれど、本質の所はこれだった。
しかしそこを正常に認識できている人間は少ない。第六層が失陥した事実を、どういった事か理解できている者もそういない。多くの統治者ですら同じかもしれなかった。
けれどアリナという大騎士は、それを深く承知していた。だからこそ第六層を墜としたシヴィリィに、逃げろとそう語ったのだ。
この『鬼子』を前にして命を落とさない自信が残るほど、彼女は高慢ではなかった。けれどシヴィリィは逃がさなければならない。
浮遊城に向けてヴィクトリアを温存する為に夜襲をかけざるを得なかったが、やはり無理があったかとアリナは呼気を漏らす。
「……ちょっと、待ってくれない」
グリアボルトとアリナ。英雄二人の魔力の充填は完了した。
互いが切っ先を絡め合う瞬間に、シヴィリィが言う。唇がはっきりと震えていた。
「――私も、戦う。貴女が死んだら、全部終わりじゃない」
『破壊』を両手に纏わせたシヴィリィが、一歩前に出てそう言った。




