第九十五話『戦場を駆ける者』
夜闇の中を、炎が駆ける。
数多の探索者が、都市を蹂躙するように進撃する。
大淫婦ロマニア=バイロンは、浮遊城からその光景を見据えていた。銀縁眼鏡を輝かせ、眩しいものでも見るように表情を緩める。
懐かしいものね、と吐息を漏らした。
かつては自身も、人類と共にあった。魔物に抗い、魔族を憎悪し。渾身を振るって世界に宣戦を布告したのだ。
たった一人の王の下。人類も亜人も共にあり、共に駆けた時代があった。最も輝かしい時代。
今ではかつて地上にいた亜人の大部分は迷宮に潜り、僅かに残った同胞らは属領民として迫害される始末。
――誰がその根幹にあり、誰が裏切ったのか。
しかしロマニアにとって、もはやそのような些事はどうでも良かった。
世界は壊れ、幸福な結末は失われた。義務を果たす理由すらなくなった。
ならば、後に残るのは復讐だけ。
自身たちを地下へ押し込み、何もかもを失わせた地上の民共。三大国の末裔、そうして四人の騎士と魔族。
どちらが誑かし、どちらが誑かされたのかなど興味はない。ロマニアはただ、彼らを引き潰すだけ。
「潰して、潰して、引き潰す。それが君の望みでもある。そうだろう、君」
ロマニアは振り返り、豪奢に彩られた室内を見た。かつての城内を再現したそれ。
一度失陥したこの城を、魔導にて移転させたロマニアにはその程度の事容易かった。
広い室内の一つの椅子に、男はいた。
「……よく覚えてないな。それにどうでも良いと言えば、どうでも良い」
「ふふ。そうか。ならそれでも構わない」
ロマニアは長いエルフ耳をつんっと宙に突き立て、男に愛想のよい笑みを見せた。
黒い髪に、力強い同色の双眸。それになにより鋭利な顔つきは、間違いなくかつてロマニアが見た彼の姿だった。
「安心したまえ。記憶もいずれは戻る。この城は君の為の城だ。君の為の軍勢は失われてしまったが、己が幾らでも作り出そう。それに己らの騎士も、女神も失われてはいない」
彼女らも、用意は進めているはずだよ。そう続けながらロマニアは男の隣に座る。
もはや探索者の軍勢など、ロマニアの意識には残っていなかった。そんなものは――『鬼子』と『無尽』が押しとどめる。彼らの真価は紛れもなく、この夜だ。
「では、陛下。終わってしまった黄金時代を、今再び己らが作り直そう」
どこか泰然とした男に向かって、ロマニアは全てを捧げるような口ぶりでそう言った。
◇◆◇◆
探索者の『軍団』が、走る、走る。
いち早く敵を襲撃する為、いち早く敵の攻撃から逃げる為だ。
『軍団』が進軍できる大通りには、左右に三階建てほどの建物が居並ぶ。そこが敵によって占領されていたなら、左右から矢の雨を受ける事になるだろう。
それを承知の上で、『軍団』は駆けていた。この先にあるだろう、敵の本陣を叩くために。
通りの奥、大広場の前にはエルフらが陣を連ねている。鋭利な木の杭を重ね合わせた簡易陣地は、探索者の突撃を押しとどめる為のもの。
しかし――。
「――魔法礼式隊ッ! 吹き飛ばせッ!」
最前を行く朱色の騎士が、走りながら声を響かせる。駆け足の中でもよく響く声だった。
その声に応じて、数秒後には火花が飛び始める。魔法礼式の魔導、『火球』。多くの者が用いる魔導であり、一人では魔物一体を焼き殺す程度の威力だが。
数が揃えば、話は違う。
火花が重なり合い、空を震わせ夜闇を照らし火球は連動し――魔力の爆発へと繋がる。これこそが、複合魔導。
――簡易陣地を吹き飛ばして轟音が響く。土煙が敵陣を覆い、探索者の視界を曇らせた。だというのに『軍団』の者らは怯みもせず前へと出る。
より混乱しているのは敵の方だ。彼らは意味も理解できないまま、野兎のように怯えている。
ならば、今殺してしまうべきだ。奇襲において肝要なのは、最初の一矢。
「――ォオォオオッ!」
『軍団』の探索者の一人が、混乱のまま敵陣から飛び出してきた魔物を見た。飛び回る妖精が、鬼火を纏いながら移ろっている。姿は小型の人に近しい。
「――なっ!?」
妖精は驚愕の表情を浮かべたまま、斬り殺された。黒い血が噴き出し、探索者の頬を汚す。
それが至る所で起きていた。殺されぬ為に、生き残る為に。魔物、エルフ、そうして鬼人の軍勢に探索者は突撃を開始している。
シヴィリィも、その中にいた。
「っ、あ」
紅蓮の瞳が動揺に濡れている。幾ら魔物との戦いには慣れたとはいえ、戦場という場は特殊である。
普段の武技は人の波に封じられる。敵の攻撃はどこから飛んでくるか分からない。何も把握できずとも、死はやってくる。
血煙の中で、何時終わるかも分からない戦いを繰り返すのが戦場だ。
傭兵たるノーラやリカルダは即座に順応し武具を振るう。彼らにとっては慣れた場所。
ココノツもまた、長い槍を振るって魔物の首を叩き折った。彼女も東部から迷宮都市までやってきたのだ。こういった経験はあるのだろう。
だが、シヴィリィは違った。
彼女はただの少女だ。幾ら魔導を覚え、戦いを知り、意志を持つと言えど。この蛮勇と死者の渦を経験するのは初めてだった。
もしもエレクがここにいたのならば、シヴィリィを庇い自ら彼女の身体を使っただろう。
だが、彼は今ここにいない。シヴィリィは自らの力のみで、全てを克服しなければならない。
「――シヴィリィッ!」
ノーラの声が耳朶を貫く。シヴィリィの眼前には、夜襲に対応して飛び出してきた魔物がいる。
影のように黒い狼。ワーウルフの亜種。妖精族により近しい彼らは、不可視の牙を振り回し探索者の一人を屠る。その勢いのまま、シヴィリィに向かってきた。
シヴィリィは、指を軽く震わせるだけだった。ノーラが足を止め、彼女を庇う為に踵を返す。やはり、戦場ですぐに動く事などできないのだと。
――しかしシヴィリィは、全く違う思考を走らせていた。
不意に紅蓮が目線を周囲に巡らせる。やけに、何時もより鮮明に全てが見える気がした。そこでは赤い血と黒い血が飛び交っている。
魔物が死んでいく。エルフが死んでいく。正市民が死んでいく。属領民が死んでいく。
皆、理不尽に死んでいた。いいや思えば戦場だけではなく、戦うという行為そのものが理不尽なのだ。
力強き者が、力弱きを蹂躙する。戦えない者は、それだけで理不尽に蔑まれる。
そんなものは自然の摂理でも何でもない。しかしまるでそれが全ての道理かのようにまかり通っている。そうして――自分すらもそれに縋ろうとしている。
シヴィリィは思わず歯噛みしながら、それでも口を開いた。
「付与――『破壊』」
シヴィリィの唇が、軽く呟く。吐き気がしそうだった。自分でも嫌になる。けれど、戦わなければならない。
眉間に皺を寄せながら、両手に黒を纏わせた。
破壊の色がシヴィリィを覆っていく。ドレスの上から纏った具足が、彼女に心地よい重みを与えていた。
――黒い狼が、シヴィリィの首筋に食らいつこうと牙を伸ばした。
シヴィリィが篭手で不可視の牙を受け止めて、呼気を漏らす。
「――ごめんなさいね」
理不尽を憎悪しながらも、理不尽に力を行使しなければならない苦痛がシヴィリィの胸を走る。
それでも尚、生きる為に。いずれ理不尽を壊す為に。
――シヴィリィの腕が、黒い狼の胴体を抉る。
瞬間、黒い血が迸った。狼の身体が破壊されていき、肉の一片すらも散り散りになっていく。
そうして一歩を踏み出した。短く纏めたスカート、身に纏った具足。それらを血に染めながら、前へと進む。
それがある種、自らの意志と矛盾する事を知りながら。
エレクならば、何と言うだろうか。何と教えてくれるのだろうか。
シヴィリィは瞳にそれだけを宿しながら、夜闇に浮かぶ浮遊城を見据えていた。




