第九十四話『善く生きる術』
第七層、敵陣への夜襲。
カールマルクから告げられたその言葉は、決して戯言でも言葉遊びの類でもなかった。大通りに出てみれば、戦役の騎士の軍勢が総出となって篝火を焚き、装備を整えながら列伍を作り始めている。
声は潜めているにも関わらず靴が地面を叩く音が鳴りやまず、どこか高揚した雰囲気が彼らの首を撫でていた。
紛れもない戦役の香りが、そこにあった。
「うーわマジだ。本気でやる気だよアリナの奴」
「ええ……。時に前言を撤回される事はあっても、やると決めた事はなさるお方です。厄介な事に……」
ノーラが呆れと共に吐き出した言葉を、律儀にカールマルクが拾った。眼の下の隈が、余計に深くなった気がする。
通りのどこを見通しても、『軍団』エルゴーギルドの人間達は戦役の準備に駆り出されている。これに今から加われと、アリナは言うのだ。シヴィリィは背筋に張り詰めたものがあるのが分かった。
「幾ら数が多いからって、自分達だけで動いて大丈夫なものなの?」
カールマルクに先導されて通りを歩くと、周囲からすぐに強い視線がシヴィリィに飛んでくる。
それは軽蔑の視線であったり、奇異なものをみるようであったり。あからさまに軽んじる言葉も聞こえてきた。
鬱陶しそうにシヴィリィは眉根を歪めながら、足音を鳴らす。
「ええ……。元々、この通りで一度に動けるのは二十名が精々……。百名と少しの我らでも、夜襲には十分とお考えです……。まぁ、間違いではないですが……」
カールマルクがため息をつくように頷いた。
無論、本当ならば遠征団全員で数に任せて一気呵成に襲撃をかけるのが一番良い。ただでさえ補給は途切れているのだ。戦力は逐次投入せず、未だ体力気力がある内に全力で叩き潰すがのが良策だった。
しかし、戦役の騎士たるアリナが言うのだ。
――今夜、『軍団』だけで夜襲をかけると。それが最も最善だと。
ならば『軍団』にとってそれが全て。それこそが是。一般論や正攻法など、大騎士の前には意味をなさない。彼女らには積み上げてきた一つの究極が宿っていた。
ヴィクトリアが個の武技で抜きんでるのであれば、アリナは戦場でこそ真価を発揮する。
「まぁ……無論アリナ様も思いつきだけで動かれているわけでは……ありません……多分。
第七層は長居をするには少々、厳しい環境です……。時間を惜しみ早々に逆襲に転じるのは、おかしな事ではないかと……」
怪我人が出たとはいえ大事を取って守り続けていれば、何時までも敵から攻められ続ける。補給を失った遠征団にとって、そのような事態は最も避けたい所だ。兵力が疲弊するだけでなく、精神を食い破られるものが間違いなく出て来る。
故にこそ、こちらのペースで攻めるのだとカールマルクは告げる。
彼の言葉にシヴィリィが頷いていると、その張本人が見えてきた。朱色の鎧が夜闇の中ですら、鈍い輝きを放っている。
カールマルクはため息を大きくついてから、ふらりと顔を上げる。
「……アリナ様。お連れしましたよ……」
「うむ、来たか。よくぞ来た、貴君ら!」
アリナは、最前衛にその身を置いていた。兜を被ったゆえに表情こそ見て取れないが、瞳が炯々と煌めいているのが分かる。第六層、神殿の前で浮かべていた瞳だった。
声はどこか高揚し、実に楽しそうにシヴィリィらを見て言う。
「さても、戦場だ。各々よく学ぶが良い」
「学ぶ、ですか」
リカルダが苦笑をしながら、受け答えた。
アリナはどこか、その雰囲気が先ほどまでとは変わって見えた。兜の印象だけではなく、はっきりとした声の重みがあった。
「ええと、あの。ちょっと状況が分かってないんだけ、どっ!?」
シヴィリィが言葉を言い終わる前に、アリナが腕でシヴィリィの頭を捕まえた。脇に抱え込むようにして、正面を向かせる。彼女は兜を僅かにずらして、その表情を見せた。
彼女は、笑っていた。
そのままもう片方の手で、真っすぐに大通りの先を指す。その先はまだ占拠が進んでいない。何時またエルフや魔物の奇襲を受けるか分からない地帯だ。
だからこそ、左右の建物を占拠しながら慎重に進めるべきだという探索者も多かったのだが。
アリナは、そのような意見を切り捨てるように言う。
「強く、なりたいのだろう」
シヴィリィの頬を引っ張りながらアリナが続けた。
「良いか、己らが最も学ぶのは、必要に迫られた時だ。貴君の服装やパーティでの立ち位置を見るに、師は随分と貴君に甘い。向いてないものはさせないでおこう、という考えなのだろうがな」
エレクの事を突き放すように言われ思わずむっと表情を歪めたが、しかしすぐにアリナの言葉がシヴィリィの胸を突き刺した。
「だが、向いていないから。才能がないから、という理由で物事を拒めるほど世界は優しくもない。己らはどう足掻いても、手元にあるものを用いて生きるのだ。
――ではシヴィリィ。最も善く生きるとは、何だと思う」
シヴィリィの名をはっきりとアリナは呼んだ。今この一瞬だけには他者の介在できない、二人の女だけの時間があった。
どうしてだろうな、とシヴィリィは思う。生まれは勿論、生き方も思考も目的も何もかも違うアリナが何が言いたいのか、すぐに分かってしまった。
唇を跳ねさせて、言う。
「自分が信じられる生き方をする、って事かしら――」
「――そうだ。その為にありとあらゆる手段を学ぶ。それが己の全てだ。貴君に、学び方を教えてやろう」
朱色の兜を被り直して、アリナはシヴィリィを手放す。そうしてから背後の『軍団』を振り返った。
『軍団』の面々は、すでに大部分が準備を終えているようだった。シヴィリィと共に来たパーティメンバーも、否応なしに武器を引き抜いていく。
「……本当に、強引な事を……。ま。聞いていませんね……」
カールマルクがため息をついたのと同時、アリナが剣を空に掲げて言う。
「良いか、諸君。戦場であるッ! 良く学び、善く生きるのだ! それこそが、この世に生れ落ちた意味よッ!」
アリナの声は大通り一帯に鳴り響く。この夜襲の存在を知らない探索者達にすら轟いた事だろう。
しかし、これで終わりではない。ここから、始まるのだ。
大音声が、再び響いた。
「――全軍、進軍せよッ! 今夜中に敵を食い破るッ!」
同時、雄たけびと共に篝火を持った百名を超える部隊が突撃を開始する。その大部分が統制の取れた者らであった事が奏功したのか、歩みは早い。アリナが全探索者を集っての突撃を待たなかったのは、この速度をこそ尊んだのかもしれなかった。
しかし、それにしても。
「もうちょっと、説明があっても良いと思うんだけどなぁっ!」
ノーラが叫ぶように言いながら足を駆けさせる。そういえば、この夜襲の趣旨や目的についても、全てカールマルクから聞いたものでアリナからは何も無かった。
恐らくは多くの『軍団』の者らも、同じような立場なのではないだろうか。それでも彼らを動かしてしまうのは、アリナの持つカリスマかもしれなかった。
とはいえ、シヴィリィにしても――いち早く敵の本拠に辿り着きたいというのは同じだ。手袋をはめ直しながら、後ろに目線をやって言った。
「――私達も行こう。功績は待っていて転がり込んでくるものじゃないでしょ」
それに、戦う為に第七層に来たのだ。今更否応はない。その点については、リカルダやノーラも同じだ。
ココノツだけは未だ渋々といった感じを隠さなかったが、それでも槍の穂先は鋭い。足先に魔力を集中させて――宙を駆けるように、シヴィリィは跳ね飛んだ。
夜の帳の落ちた街並みが、大きく口を開けて待ちわびていた。