第九十二話『案内人なる者は』
アリナの殺意が、シヴィリィの頬を打つ。恐らくは敢えて分かるようにそうしている、脅しの殺意。
しかしオークと対面した時よりも、大陸食らいと食らい合った時よりも。その殺意は濃密に感じ取れた。
普通ならば手足は震え、顔面は蒼白になる所。大騎士の殺意は、そう安いものではない。気の弱い者ならば、それだけで卒倒してしまう。
だというのに、シヴィリィは不思議と自分の頭が冴えているのに気づいた。オークの時も、大陸食らいの時もそうだった。
免れない死の気配が、平時にはない冷静さをシヴィリィに取り戻させる。それが生まれながらのものなのか、それとも何処かで得た大胆さなのかは分からない。
一拍を置いてから、唇を開く。
「――いいえ。魔導と智恵はここにあるけど、本人はいないわ」
シヴィリィは自分の頭を指して、詩でも口ずさむみたいに言った。
嘘はついていない。今は、エレクはここにいない。真っすぐに背丈を伸ばし、弱弱しい声など欠片も出さなかった。
堂々とした振舞いで、アリナの視線を押し返す。
「ふぅ、む」
アリナは柄に手を触れさせたまま、瞳を上下させる。
シヴィリィを推し量り、言葉の調子に至るまでを勘案している。その瞳の奥にあるのは、年若い娘ではなく五百年の歴史だ。騙しの手管など味わい尽くしている。
その瞳を一度強く閉じて。彼女はすぐに、身体を弛緩させた。
「委細承知。ならば良し。信じよう、今の所は」
「……今の所は、ね」
そう言って、アリナは椅子に座り直す。シヴィリィの言葉を全て呑み込んだわけではないようだったが、剣を納める気にはなったらしい。
思わずため息を漏らして、シヴィリィは胸をなでおろす。手の平にじっとりと汗をかいていたのに気づいた。
今、自分の命が失われていたかもしれない。その実感が身体を強く脈動させる。
「失敬。話が逸れました。では改めて、二点目。――この階層についてお伺いしたい。大淫婦は何を目的とし、何をしているのか」
ヴィクトリアがあっさりと話題を切り替えて、エルへ声を投げかける。早く場全体の空気をすり替えてしまいたいかの様子だった。
エルは退屈そうに短髪を軽く指で弄っていたが、片目を閉じたまま言う。
「言っただろう。迷宮そのものは、一人の為に造られた。なら彼女も、その目的に沿っている。聖女が死霊へと堕ち、彼に捧げる軍隊を保持していたように。彼女はただ、彼に捧げる為の城を守っているのさ。――やり口は、まぁ自分で一目見てみるんだね。すぐ分かる」
城――つまりは、浮遊城。あれそのものが、エレクへと明け渡す為のもの。
そうだとするならば、やはりエレクは消滅していない。囚われているだけだ。シヴィリィは口元が緩まないように抑え込むのに必死だった。指先をぎゅうと握り込む。
ヴィクトリアはエルの言葉を呑み込んで、もう一つ付け足す。
「なるほど。侵入経路や、城の者らがどのように行き来しているかは?」
「ちょっとちょっと。私がそんなの知るはずないだろ。私はあくまで迷宮の住人。浮遊城の住人じゃあないんだ」
水を口に含んで「なんだお酒じゃないのか」と残念そうに言いながら、エルは再び頬杖を突いた。
「どうしても浮遊城に入りたいっていうのなら。それこそ翼でもつけて飛んでいくか、城の方を落とすしかないんじゃないのかな」
それが出来るのなら苦労はしない。シヴィリィは表情を歪めたが、大騎士の二人は腕組みをしたり顎に手をやったりしながら、それぞれ思案をし始めた。
……思えば、先ほどヴィクトリアは空の敵にあれだけの大立ち回りを演じたのだ。空に浮かぶ城の一つや二つ、何とかする手立てがあるのかもしれなかった。
でなければ、そもそも第七層への大遠征など実行されないだろう。
「エルとやら。もう暫し貴君の話を聞きたい。迷宮は未だ謎だらけだ。金貨が欲しいのであれば、欲しいだけ斡旋しよう。地上へも同行を願う」
「それは出来ない」
エルならば飛びついてしまいそうな話題だったのに、彼女はあっさりと袖にして水を最後まで飲み干した。アリナの鋭い瞳に貫かれても、彼女のふてぶてしい表情は変わらない。
「私は迷宮の案内人だ。迷宮の住人でなくてはならない。外に出る事も出来なければ、君たちにずぅっと付き従う事も出来ないのさ。お分かりかい?」
「ふむ」
当然、アリナは承知していなかった。
彼女は視線を強めたまま、態勢を僅かに上げる。エルをここから逃す気はないらしい。扉から最も遠い席に座らせたのがその証左だ。
実際、エルの存在がどれほど貴重かはシヴィリィにも理解が及ぶ。未知と危険が溢れかえる迷宮の中で道先案内人が出来るのは、暗闇で一筋の灯りを得るに等しいだろう。
しかしその状況にあっても尚、エルはにこりと飄々とした笑みを浮かべた。
「不可能だよ。不意に現れ、不敵に笑って、不気味に影もなく消えていく。――迷宮の案内人っていうのは、そういうものなんだ」
「なっ!?」
音もなく、予兆もなく。エルの姿が透き通っていく。流石のアリナやヴィクトリアも反応が遅れた。手を伸ばす頃には、すでにそこには影すらなく、ただ声だけが残っていた。
「――ではまた会おう、君ら。迷宮の中でね」
声の後には、何一つ残るものがなかった。エルがそこにいたという証拠は、コップに入った水が失われているという一点だけしかない。
茫然としながら、アリナが言う。
「魔導、ではないな。魔力行使の気配があれば己の眼が見逃さん」
「同感です。エルフの形をしていましたが、別種の特性を持った生物と思った方が良い。魔物、いや魔族に近いのでしょうか」
ヴィクトリアが言葉を受け継いで鋭く息を吐いた。両者とも逃げられた悔しさのようなものは見えず、むしろ今の現象の解析に躍起になっている。
これは彼女らの習性と言って良い。彼女らは、自分の記憶や経験も次代に受け継がれると知っている。だからこそ不知なものを可能な限り塗り潰す。
例え今回躓いても、次代で躓かなければ良い。次代で躓けば、更にその次で躓かなければ良い。故に彼女らにとって、不知はむしろ喜びに近いのだ。
いずれそれは――自身の血を『完璧』なものに引き上げてくれるから。
しかしそれは到底、生物的な在り方ではなかった。どこか致命的な点で、彼女らは生物から隔絶している。それこそが、転生者と呼ばれる血統を引き継ぎ続けるものの特性かもしれない。
「何にしろ、ああいった者がいると知れたのは収穫です。浮遊城へは、次善の策を取りましょう」
ヴィクトリアは思考を一度回してから言い切る。そうしてシヴィリィを見てから、
「シヴィリィさん。貴方は私のパーティと行動を――」
そう、言いかけた所だった。
ぐいとシヴィリィが左腕を引かれる。思わず身体がふらりと揺れた。相手は当然、アリナだ。
「いいや待て。彼女は己の部隊に入って貰う。大遠征の人間に対する勧誘は、早い者勝ちだ。己は先に彼女に声をかけていた。だろう、貴君」
「ふぇっ!?」
唐突に求められた同意に思わずシヴィリィは目を白黒させた。声をかけられていた、という言葉だけを取ればその通りかもしれないが、別に部隊への勧誘を迫られた覚えはない。
第一、自分にはもうパーティがいるわけで。別にどちらのか部隊に入らなければいけないなんて事は。
そう言いかけた所で、アリナが囁いた。
「強く、なりたいのだろう」
どくんと、心臓が鳴った。それは間違いなくその通りで、今何よりも求めている事だ。
アリナはその想いを絡めとるように、言った。
「何、一先ずは大遠征の間だけだ。それに貴君から目を離す事は流石に出来ん。己かヴィクトリア、どちらかというだけの事。己ならば、貴君の望みを叶えてやれるやも知れんぞ」
確かに、魔の王の魔導を持ったシヴィリィを放って置く事は出来ないだろう。この閉鎖環境において大騎士の監視下に置くのは理解が出来る。となれば、自分の目的を果たす為には――。
シヴィリィが数秒、唇を閉じた。そうして意を決したように開く。
「――分かった。アリナの部隊に合流する」
強い言葉で、そう言い切った。




