第八十六話『止まらぬ足取り』
通常、迷宮第五層の大門から一度繋がった経路は閉じる事がない。いいや、正確には閉じたという記録が無かった。
ゆえに随分と前から、探索者達は第六層以降に大門を用いて進入してきたのだ。
無論各階層は連なった迷宮である以上、第七層から第六層へ上がる為の経路はあるのだろうが。記録は逸失して久しい。いいやそも、一度も使われていないのかもしれなかった。
何せ、大門の存在によって使う必要がなかったのだから。
「理屈は不明だが経路が閉じた以上、己らは突き進むしかない。魔導での拠点構築も出来ないまま第七層に居続ければ、狂うものも出て来よう」
アリナはシヴィリィに言って聞かせるようであったが、話す事を楽しんでいる風でもあった。内容は絶望的に過ぎるのに、強気につりあがった瞳は一切曇りを見せていない。
よほど楽観的なのか。それともこの状況でも尚、死なない自信があるのか。第七層特有の狂気にあてられている線も有り得る。シヴィリィは指先を軽く噛んでから目を細めた。
ここは狂気の国。その本質はまだ見ていないが、立ち止まってしまうべきでないというのはシヴィリィも同意だった。もしかすれば次の瞬間には、隣人が正気を失ってしまうかもしれない。そうして次には、自分がもう自分でなくなるかもしれないのだ。
立ち止まっていればその分状況は悪化していく。
「分かったわ。えーと、アリナ。私の仲間がどこかにいるはずなんだけど。知ってたりする?」
ぴょんっと跳ねるようにシヴィリィがベッドから立ち上がる。そうしてぐるりと左右の腕を順に回した。痛みはある、軋みは鳴る、違和感は十分。
しかし、動く。指先が凍傷に侵されてもいない。ならば良好だ。包帯を巻いたまま両手を絡ませて腕を伸ばす。
「おお。もう立ち上がるのか」
「私が属領民なのは見て分かるでしょ。私達は寝て待ってればご飯が食べられるほど恵まれてないのよ」
「……うむ。良い心がけだ! 走り続ける者は腐る事もないからな。
貴君の仲間だったか。ノーラ達であろう。幸い四肢がそのまま無事だったのでな、周辺警戒の任を受けている所だ」
「そう。なら良かった。じゃあ私も合流するわ」
ノーラ達の事も知っているのか、とふと思いながらシヴィリィは軽く肩を捩る。
椅子にかけられていたドレスに袖を通したが、左肩の辺りが破れたままだ。当然だったが、少しばかり見栄えが悪い。昔ならこの程度気にしなかったのだが。
そんな有様を見てだろうか。アリナがふむ、と軽く頷いてから言った。
「そのドレスはどうにかならんのか。魔導用の術服なのは分かるが、貴君は前衛にも出るのだろう」
「良いのよ。大事な人が似合う、最高って言ってくれたの」
「――なるほど、愛、愛ゆえか。それならば納得もしよう! が、暫し待っていろ。隣室を物置替わりにしていてな、適当なものを持ってくる」
そう言ってからアリナはごくりと干し肉を呑み込んで、部屋から出ていってしまう。愛。それはまぁ、確かにそうなのかもしれないが。
室内が静かになった所で、そう言えばアリナの事を何も聞いていなかったなとシヴィリィは今更ながらに思い至った。
随分と物を知っていたし、それに属領民でも差別をしない人間らしい。態々シヴィリィの様子を見守っていたという事は、衛生兵的な立ち位置を任されているのだろうか。
一人になった間に、シヴィリィはベッドに座りながら自らの身体の調子を再び見返した。と言っても、目で見るのではない。
――エレクの教えの通り、魔力で見るのだ。
初めは手の指先を軽く揃える。心臓から魔力が血液と共に循環し、指先にもう一つの管が伸びていく。それを肩、腹、両脚と全身に行き渡るまで続ける。傷にしたってこちらの方が治りが早い、らしい。
魔力でものを見る。身体を魔力の為の機関とする。身体は魔力の為の通り道でしかない。
深く呼吸をしながら、魔力を整え切った頃合いだった。大した遠慮もなく扉が開かれる。
「おっと。起きてたんだ。調子はどうシヴィリィ」
部屋への侵入者は、アリナではなくノーラだった。傷はないものの多少の疲れが見えるのは、任務からの交代後だからかもしれない。
「痛みはあるけど、もう大丈夫。そっちは大丈夫だった?」
「平気だよ。リカルダの矢が結構減ったのが辛いくらいかな。警戒任務ならココノツがいるからさ」
確かに。ココノツの斥候としての能力は周辺警戒にこそ生かされるものだろう。感知能力を有するノーラがいれば、恐らく奇襲はもう易々と受けない。
「下で二人とも待ってるからさ。良かったらこれからちょっと作戦会議……ってその恰好だと出れないか」
ノーラの言葉で、ようやくここが二階らしい事をシヴィリィは知った。
着替えを取ってくる、とそういって踵を返したノーラの背中に咄嗟に声をかける。
「ああ、いえ。アリナが何か持ってきてくれるらしいのよ」
そのシヴィリィの声に、ぴたりとノーラが動きを止める。
「……アリナ? って、その。赤い髪してる子?」
「そう。衛生兵の子よね。ノーラと同じくらいの背丈の」
途端、ノーラが非常に複雑そうな顔をした。眉を顰めたり、頬を歪めたり。言葉を出そうとして出せなかった顔だ。
百面相にシヴィリィが瞳を丸くしていると、開いたままの扉をこんっと叩きながらアリナが顔を見せる。
「おお、ノーラ。貴君も帰ったか。暫し待つがいい!」
「……あ、あの。君さ」
表情を複雑に動かしたノーラを後目に、アリナがシヴィリィに近づいてくる。彼女が持ってきたのは新たな服装ではなくて、どちらかと言うと装身具と言うべきものだった。
左右に合わせた篭手と、胸元を覆う軽鎧。使い古してはいるものの、十分使用に耐えうるものだろう。それに丁度左肩の肌も隠れる。
「前衛で戦う以上、最低限の備えはしておくべきだろう。本来術服と共に着るものではないが、デザインとしても悪くない。どうだ!」
言われて、シヴィリィはくるりと回って自分の姿を見返してみる。感触は着慣れないが、スカートを少したたみ込んで両脚を動かしやすくすれば丁度良いくらいの身軽さになった。
エレクに褒められたドレスも良かったが、鬼人の脅威を見た後ではこの程度でも備えがあった方が良いかもしれない
「うん、ありがとう。完璧よ。えーと、それで作戦会議だっけノーラ」
アリナからノーラへと振り向くと、相変わらず彼女は何とも言えない表情をしていた。しかし口を開かないまま、ものを語ろうとはしない。
「ほう! 作戦会議か。なら私も聞いていよう。もはや遠征団は一蓮托生だ。構わんだろう?」
「まぁ……僕は良いけどさ、うん」
やけに煮え切れない返事をするノーラを怪訝に思いながらも、シヴィリィを先頭に三人揃って階段を降りる。どうやら民家の一つをそのまま借り受けているらしい。とはいっても、住人は勿論誰かが住んでいたような形跡もまるで残っていなかったが。
これは最初からなのか、それとも最近になってからなのかがシヴィリィには気にかかった。
いいや、そう言うならばこの都市そのものに思うべきか。
思わず、シヴィリィが瞼を軽く閉じる。
だっておかしいだろう。ここは誰もが欲求に駆られる狂気の国。
しかしこの都市の人間誰もが自らの欲求を満たす為に動いているというのなら、そもそもこの都市の住居や街並みは誰が建てたものなのだろう? 流石に、住居を建てる事で欲求を満たせるという稀有な人間がそう何人もいるとはシヴィリィには思えない。
人間が全て欲求に従うのであれば、都市が成立する事自体困難なはず。だというのに、ここは国家として都市として継続し続けている。
上手く考えは纏まらないが、何処かおかしい。そんな想いを抱きながら、シヴィリィは一階の床板を足先で叩く。
一階ではリカルダとココノツが広いテーブルについていた。
「おはようございますシヴィリィさん。おや、そちらは?」
「アリナよ。私の面倒を見てくれていたの」
変わらぬ笑顔を浮かべたリカルダに返事をしながら、テーブルを囲むようにシヴィリィも席につく。ココノツは酷く疲れているようで、テーブルに突っ伏したまま口をきかなかった。
作戦会議というには小規模だが、しかし――ギルドとしてはこういった集まりは当然に必要だ。
「状況は大体聞いたけれど。これからどうするかって事よね」
「ええ。勝利と戦役の大騎士のお二人も、はっきりと明言はしておられません。情報収集後、行動に移るようです」
「うむ。情報無き戦場は目を隠して歩くに近しいのでな」
アリナが相槌を打つと、意外そうにしながらもリカルダは頷きながら言葉を付け足した。
「はい。そこで我々のギルドも、動き方を決めておくべきでしょう。前衛に加わるのも、後方支援に回るのもそれ次第です」
リカルダが両手をテーブルの上に置きながら、微笑のまま言う。恐らくは、本来エレクにも告げているつもりなのだろうか。シヴィリィに軽く目配せをした。
シヴィリィが応じる前に、またしても先に口を開いたのはアリナだ。
「む。貴君らはギルドをすでに組んでいたのか。そういった話は聞いていなかったが」
「ああ、殆ど出発の直前に通達を受けたから」
恐らく都市統括官シルケーは敢えてそういった手筈を取ったのだろう。
属領民を頭目としたギルドの設立が、余り騒ぎにならぬよう、大遠征に紛れ込ませるようにしたのだ。
如何にも彼女がやりそうな事だと、リカルダが苦笑したのがシヴィリィの記憶に新しかった。
「じゃあ、改めて。――ギルドとして初めての作戦会議を始めましょうか」




