第八十五話『地下の牢獄』
朱色の兜が雄々しく輝く、ここは人間のとっての異郷。迷宮の第七層。しかし戦役の騎士アリナ=カーレリッジは、ここぞ我が故郷と謳いをあげる。戦場こそ、戦役こそ、彼女の独壇場。
アリナの剣が、堂々と真正面から振り上げられ、一息に振り下ろされる。空が唸りをあげ、彼女の為に道を開ける。
「――ハァ、ァアッ!」
相対するは鬼人グリアボルト。四肢そのものが凶器であり、拳は容易く人類種を破滅させる。彼女は素早く腰を駆動させ、一回転を見せながら後ろ回し蹴りを放った。全てが瞬き程の所作だった。
片や、相手を両断せんとするため。片や、相手を打ち砕かんとするため。
騎士の剣と、鬼の武闘。その一瞬の接合は、それこそ大気が揺れ動く。空気が軋みをあげ、舞い散る瓦礫が嗚咽と共に砕け跳んだ。
「む――ッ」
しかしアリナは、一瞬の後に余りの手応えの無さを感じて眉間に皺を寄せた。先ほどまでそこにあったはずの圧力が吹き飛んだ――いいや自ら跳んだのか。
グリアボルト、恐らく魔力レベル量で言えば大陸食らいと同等を誇るそれが、あっさりと撤退の意志を見せていた。
「意外や意外。鬼人は退く事を知らぬと聞いていたのだがな。貴君は変わり者か!」
「そうだよ。そうじゃあなきゃあ五百年も生き延びられない。それに、あんた相手にして一人で戦うほど自惚れてもいないよ。エルフ達は撤退した。それで良い」
建物の崩壊による混乱の隙を突いて、多少の被害はあったがエルフの射撃隊は撤退した。
グリアボルトの役割は、遊撃と引きどころで撤退する事。それが出来るからこそ、ロマニアよりこの任務を与えられたとグリアボルトは分かっていた。中には、それが出来ない奴らもいるから。
それにもう、十分引き込んだ。
「あんたらの考えを当ててやろうか。騎士が二振りもいる。探索者は再び揃い、第六層は堕ちた。では第七層をも一気呵成に攻め落とし、できずともここに拠点を作ろう。そんな所かね」
「舌の回る鬼人だ。本当に貴君は変わり者らしい」
兜の奥から鋭い眼光を輝かせ、アリナが一歩を踏み入った。くすりとグリアボルトは笑い、口を開く。
「もはやあんたらは、退くも進むも出来ない。目出度くここの住人さ。何時まで、理性が保つものかな」
それだけを言って、緑の髪の毛を払いながらグリアボルトが姿を消す。アリナが瞳を輝かせた。
縮地か。それならば遠方含めこの周辺一帯を斬り払えば、いいや駄目か被害が大きすぎる。
それに、とアリナは何故か宙を浮いているシヴィリィの身体を見て言った。
「待つがいい」
びくりと、シヴィリィの身体が震える。いいや実際震えたのは身体を抱えているものだろうが。
「己は傷ついたものに鞭打つほど過酷ではない。来い。時間が経てば本当に死んでしまうぞ。それもまた無常と心得るなら別だがな」
朱色の鎧が、ため息でもつくような様子でそう言った。
◇◆◇◆
心臓の近くが、酷い嗚咽を漏らした。いいや、もはや軋みに近しい。
みしりみしりと音を立て、身体が軋む。何時壊れるのか。今日か、それとも明日か。
「求められるのは完璧だ。先に言っておこう。君はきっと報われない」
ふと言葉だけを思い出す。そう言ったのは誰だったか。男だったか女だったかも記憶にない。しかし記憶にないものを、思い出すというのはどういうわけだろう。
まぁ良い。どちらにしろその予言は実現しなかったのだ。
美味しいものは食べられて、信頼できる相手と会えて。十分報われたじゃあないか。
自分の人生にしては素晴らし過ぎる程だった。
だから思っていた通りでなくとも構わない。思い描いた通りの未来でなくとも。
あれ、でも。
――私は、何になりたかったのだっけ。
そう自問した所で、シヴィリィの瞼が上がった。
木板の天井が見える。見慣れなさ過ぎて、一瞬自分が生きているのか死んでいるのかも分からなかった。
「む。起きたか」
自分が生きているのだとシヴィリィが実感したのは、他人の声が聞こえてからだった。
身体はベッドに預けられている。その上丁寧に治療が施されているらしかった。真新しい包帯の感触が肌に触れる。
「っ――!」
ゆったりベッドから身体を起こせば、左肩に鈍重な痛みが這い寄って来た。反射的に顔を歪める。
「うむ。動けるなら良い。無理をしてでも動く必要がある場面であるからな」
無意識に、シヴィリィの紅蓮の瞳が声の主へと向いた。
一人の少女がそこにいた。口元を抑えながら、何かを食べるように頬を動かしている。
サイドテールに拵えた爽やかな赤髪と、強気に上向いた緑眼。随分と小柄だ。細い指先は彫刻のようで、軽く触れれば折れてしまいそうだった。顔の輪郭は几帳面なほどに整えられている。
全体的に繊細で朧気な印象を抱かせるのに、その表情だけは高圧的に見えるのがいっそ愛らしい。
ノーラと同じくらいの背丈なものの、彼女はボーイッシュ、この少女の場合は愛らしさの方が勝つ。
「ええと、貴方は? というより、何処だっけここ」
「己はアリナ=カーレリッジ。ここは第七層の空き家の一室。寝ぼけるのは程ほどにしておくと良い。未だ戦場なのだからな」
少女アリナは、淡々とシヴィリィの疑問に順に応える。その返答を未だ眠気の消えない瞳で受け取ってからシヴィリィは頷いた。
そうだ、今は第七層大遠征の途上。突入した途端にエルフの一団の襲撃を受け、その一部を制圧する途中で――瞬間、紅蓮の瞳が見開く。
「鬼人……グリアボルトはッ!?」
シヴィリィの身体が飛び跳ねて身構えた。自らの左肩を穿った張本人であるはずの鬼人。剛力無双を垣間見せたあれは、果たしてどうなったのか。
全身に緊張が漲り、表情を張り詰めさせるシヴィリィをアリナはじぃと見た。
そうしてから満足したように頷く。
「うむ。戦士の顔つきだ。助けたのは誤りでは無かったな! 安心するが良い。万事抜かりない。鬼人は去った。元よりこちらの動揺を買う為の奇襲だったわけだ。遠征団は屋根を借り怪我人に治療を施している。貴君もその一人と言えるな」
アリナは言いながらもごもごと動かしていた頬の動きを止めて、腰元から小さめの干し肉を二切れ取り出した。どうやら先ほどから彼女が食べていたのはこれらしい。
「食べるか。都市アルガガタルの良い所は、塩に困らんという事だ。実に良い」
「……いただきます」
得体の知れない少女ではあるものの、害意は一切ないようだとシヴィリィは感じた。恐らくは遠征団の一員なのだろう。
あっさりと干し肉を受け取って、口の中で軽くほぐす。携帯食料とはいえ、肉が食べられるのは幸運だ。
「という事はもう一部は撤退するのかしら。怪我人が大勢出たのよね?」
「いいや。怪我人は案外軽傷のものばかりでな」
アリナの言葉にシヴィリィが意外そうに頬を動かすと、口元を抑えたまま彼女が言った。
「死人が十数名ほど出た。まぁあの襲撃を受けたにしては少ない。幸運だな」
シヴィリィの口の動きが思わず止まる。
アリナの言動自体も十分衝撃的だった。しかしそれよりも驚愕を起こしたのは、さも当然とばかりにアリナが死人の数を告げた事だ。
悲壮さも、感傷も何もない。ただ数だけで死人を見る。少女の愛らしさには余りに似合わない様子だった。
「それに、帰還も叶わない。恐らく数名は本当に死ぬな」
「――どういう事?」
幾ら大騎士教の神秘があるとはいえ、当然死後何日も経過した死体を復活させるのは困難になってくる。精々が、二日から三日といった所か。腐敗が始まれば、ますます復活の可能性は低くなる。
しかし幸い今は十分気温も低い。今すぐに引き返し死体を都市へ運べば十分に間に合うはずだ。
アリナはシヴィリィの言葉を振り切るように、頬をもごもごと動かしたまま首を振った。
「不可能だ。――入って来た、第五層へと繋がる扉が閉じられた。我々は文字通り、後退が出来なくなってしまった」
何てことないように、アリナはそう言った。
その口から零れ出て来る言葉は余りに悲壮なものであるのに。彼女自身は強気な表情をまるで崩さないまま、不敵に眦をつり上げていた。




