第八十三話『少女の目覚めとその一端』
血が惑い、鉄の匂いが鼻孔を突き、慟哭と咆哮が混じり舞う。
この光景をシヴィリィは知っていた。迷宮の中、いいや来る前にすらみた光景。
あの時は、もっと酷かったな。
「シヴィリィ殿ッ! しっかりとなさってください! 戦場ですよ!」
ココノツの叫びが、シヴィリィの意識を舞い戻らせる。そうして、紅蓮の瞳が現実を受け入れた。
遠征団が出たのは、街角の一つ。左右に建物を構えた、通りの一つだ。遠い正面にはあの浮遊城と大広場が見えていた。
これ以上ない、これ以上ないほどに分かりやすい隘路。殆ど最後尾に近しいシヴィリィらが足を踏み入れた瞬間には、それは行われていた。
よもや、この出入口すら彼らに誘われたものではないのかと思いたくなる。
――左右に構えられた建物から、魔導の矢が雨となって並び撃たれていた。
黒く、中空で幾つにも分かれる魔矢は、もはや矢というよりも弾丸に近しい。
実に効率的に、探索者の群れを殺していく。まさか大騎士やその側近は死にはしないだろうが。押し詰めになった状況で有象無象の探索者らが無事とは到底言い難い。
頭を穿たれ脳漿を垂らし、体躯を射られて臓腑を吐き出す。灯が次々に消えていく。
阿鼻叫喚が、シヴィリィの眼前にあった。
「ん、だよこれ――ッ!」
「どいて、どきなさい!」
特に死体と探索者の群れで動けなくなった一団はまさしく悲劇だった。余りの惨劇に、引き返そうとするものと進もうとするものが衝突しあってその中でも人が死んでいく。
それにしても、統制が取れていなすぎる。誰もがまるで自らの欲求に応じるように――。
「――ああ、そっか。第七層だものね」
第七層。希望の国。混沌と淫猥が蔓延る、狂気の国。ヴィクトリアの言葉を、シヴィリィは思い出していた。
戦闘とは、敵と争う前にまず自らの欲求との闘いだ。
生存したい、逃げ延びたい、楽になりたい。そんな想いを噛みしめて殺し、勝利するための道理を掴まなければならない。
しかしこの第七層において、そんな抑制はそう効かない。
「待て、押すんじゃねぇ!」
「てめぇらがこっちくるなよ!」
欲望は暴走し、彼らは統制を知らず、ただ穿たれて倒れ行く。
素晴らしく、戦場だった。シヴィリィが知っている戦場だった。
「シヴィリィさん、ここは一度退いて――」
リカルダの冷静な声が聞こえた。彼はまだ思考を保てているらしい。しかし時間が経つごとにそれは崩れて行くだろう。
シヴィリィは深い呼吸を一つ、そうしてから考えた。
さて、一度退いて態勢を整えるというのは正しい。しかし、エレクならばどうしただろう。彼ならばそのような事するだろうか。
いいや、しないだろう。するはずがない。ならば、ならば。
やはりシヴィリィとて、第七層の影響は免れていなかった。思考はより欲求に従い、考えろと彼が語った言葉を何度も噛みしめる。
歪だった。数多の者が逃げるか、死に惑うかとする中で、彼女だけが全く別の事を考えていた。
紅蓮が見開く。
――ここにエレクはいない。ならば、私が彼にならなければならない。シヴィリィは指先を鳴らした。
「いいえ、退かないわリカルダ。まずはココノツ、貴方が射手を見つけて。隠れながら出来る?」
「無茶を言うでありますなぁ。やるでありますがぁ」
ココノツが姿を消したのを見送ってから紅蓮の瞳がぎょろりとノーラを向く。彼女は僅かに表情を歪めながら頷いた。
「僕にも何かしろってわけだね」
「ええ。まず聞きたい。大騎士は、この状況を打破できるわよね。私達はどれくらい持たせればいいの」
「なるほど」
ノーラはククリナイフの双剣を抜き取りながら言った。
「五分。魔導を発動して、敵を駆逐するまでそれくらいでやるよ、彼女らなら」
「なら私達は五分生き残れば良い。ノーラが感知して、リカルダが矢で相手の矢を打ち落とす。これ、出来そう?」
「……撃ち漏らしは出ますよ。装填の時間がありますから」
リカルダが慎重そうに、しかしはっきりと言った。詰まりある程度は打ち落とせるというわけだ。それに言葉を上乗せしたのはノーラだった。
「大丈夫。その程度なら僕も捌けるから、さッ」
言いながら、跳ね飛んできた魔矢をノーラがククリナイフで捌き落とす。間一髪のように見えたが、彼女にとっては当然の芸当なのだろう。汗一つかいていなかった。
「それにシヴィリィに貰ったものもある。何とかもたせてみせるよ。君は?」
「私は――」
一通り周囲を見渡してから、シヴィリィは口を開く。
彼女には、エレクが言ったように武芸の才能はない。ココノツのように身を隠す事も出来ないし、ノーラのように刃をもって魔矢を捌く事も、リカルダのように撃ち落とす事なんてますます出来ない。
魔弾を使っての迎撃などよほど運が良くなければ上手くいかないだろう。
ならば、彼女が敵を打破する為には。手段は一つしかない。
「――直接左右の建物に乗り込んで、ココノツが見つけた射手を叩く。これが最善だと信じるわ」
それに、上から見下されるのは嫌いなのだ。シヴィリィはそう語って、地面を叩いた。
◇◆◇◆
エルフの一団が、魔矢を探索者の一団へと降り注がせる。血を躍らせ、肉体を汚し、死を孕ませる。
その射線の中には、僅かと言えど同族――エルフの探索者らも混じっている。
しかし、そのような事彼女らには意味がない。
五百年もの間、迷宮の外でのうのうと暮らしていたかつての裏切り者に湧く情などあるものか。外に生きる亜人は、かつて迷宮に追放された自身らを裏切り、人間側についた者らではないか。
「乱れなく射よ。後数分で撤退する。あの騎士共は抑えきれん」
エルフの射手の一人は、角を生やした指揮官の言葉と共にちらりと窓の外を見た。
美麗な白と朱の騎士鎧。それを見るだけで、背筋に冷たいものが走った。かつて自分達を地上から駆逐し、迷宮に押し込めた者ら。たった一人の王を裏切り、迷宮に墜とした者の末裔。
それが死の形をして、そこにいる。
魔矢を装填して、エルフの射手は一瞬、騎士を狙い定める。もしもここで、あいつらを殺せれば――。
――そんな一瞬の願望が、次の瞬間に途切れる。埒外の轟音が、室内を唸った。
扉が崩壊し、ばちり、ばちりと魔導の弾ける音がする。その場にいた指揮官を含む十数名が、咄嗟に振り替える。ここは隠蔽の魔導が仕掛けられていたはず。有象無象の探索者に見つけられるはしない。
だから誰もが、咄嗟にそちらを見てしまった。あり得ない事があり得た事に動揺してしまった。
「流石、ココノツ。エレクも言ってるけど、斥候としては一級品なのね」
「いやぁ、照れるでありますなぁ」
影は一つ。しかし声は二つ。
影は少女だった。金髪で紅蓮の瞳で、両腕を黒く染め上げながらそこにいた。
エルフ達の動揺が加速する。
だってその姿は、我々の騎士の証であって。その身に纏う魔導は王の証で。
「悪いけど、エレクの為にどいてもらうわ」
彼女は王の名を語りながら、破壊を纏った両腕を振りかざした。動きこそは素人芸そのものだが、エルフが咄嗟に放った魔矢は破壊の余波に無残に壊される。
当然だった。その魔導は、魔導の天敵として作成されたもの。魔導を自由自在に操る魔族を壊す為に設計されたものなのだから。
少女は、そのまま地面に片腕を勢いよく叩きつける。それだけだ。それだけで良い。
――床板が壊れていく。エルフの射手らが一階下に叩き落とされ。誰もが態勢を崩した。
「が、ぁっ!?」
馬鹿な、とは思わなかった。床板も当然魔導にて固定化していたものだが、破壊はそれすらも破壊する。どうする、どうすべきだ、そも彼女は敵なのか。
そんな逡巡が、エルフの中に生まれた時だった。
「――捕まえた」
少女が、エルフの腕を掴み取っていた。




