第八十二話『迷宮がその口を開く』
複数の集団で潜れば、迷宮は安全な地と化す。
かの迷宮が建設されてから五百年の間には、そんな考えを抱く者が幾人もいた。
かつてこの大陸を先人が開拓したように大地を切り開き、魔物を斬り伏せ、そこを人すらも生きれる地にしてしまえば良い。人間の領域を広げていけば、いずれは迷宮とて屈服する。数は人間の方が圧倒的に多いのだから。
しかし、いずれそれも幻想だと人は知りゆくようになったと、シヴィリィは歴史書の一節で読んだ。
――迷宮は足を踏み入れた人間より魔力を吸収し、再び魔物を生み出す。
幾ら魔物を殺しても、迷宮は魔物を産み落とし続ける。もはや形を成した災厄に近しい。
それでも時に人間が大遠征を繰り返すのは、かつて一度大遠征によって大騎士らが成果をあげた事があるからだろう。魔物を掃討し、一時的に世界に平和を与えた。
だからこそ地上で魔物の活動が活発化すれば、大遠征によって一掃をという直情的な言葉が出てくるようになる。
多人数で潜れば、魔物は躍動しより探索者は危険にさらされるというのにだ。
――しかしシヴィリィが見る限り、ことこの遠征に危険はないようにも見えた。
第五層。ゴブリンとアークウルフの群れが、探索者の集団に食らいつくが如く吼えかける。その牙は脅威であり、本来なら遠吠えすら人間の精神に変調をきたす。それの群れは、例え実力に勝る冒険者でも死を免れない。
かつて人間の優位は互いに集い軍勢を成せる事だと言った者がいたが、この迷宮においては魔物達すら軍勢を成す。まるで、人間に呼応するように。
しかし、されども。
「来るか、獣共。行けい!」
呼吸一つ、戦役の騎士の声色が響く。彼女は剣一つ振るわない。鞘から刃を出す事すらしない。
それをせずとも、成す者がいる。
戦役の騎士の軍団だ。勝利の騎士がバアルギルドを率いるように、彼女もまたギルドとは名ばかりの軍団を率いる。
エルゴーギルド。本来探索者のギルドとは多種多様な装備を身に着けるものだ。剣士もいれば、盾を持つ者もいる。弓士も、時には鑑定士だって。
だがエルゴーギルドの者達は違った。統制された装備と、そうしてほぼ変わらぬ練度を持って、次から次に槍の穂先でアークウルフとゴブリンを蹴散らしていく。
「……」
それを見て、シヴィリィは自分の性格が悪くなってしまったな、とそう思った。
少し前なら純粋に凄いと感嘆して、敬意の念すら抱いていたはずなのに。今は別の視点から物事を見てしまう。
要はこれはパフォーマンスなのではなかろうか、と。
大騎士に付き従うギルドメンバーが、第五層の魔物に苦戦するはずがない。しかし他の探索者らでは苦戦する相手だ。それらをあっさりと蹴散らしてしまう事で、大騎士としての威光を見せつけるための目的がこの大遠征には含まれているのではないか。
流石に穿ちすぎだろうか。大遠征の一団、その後方から紅蓮の瞳をシヴィリィが輝かせた。
「や。落ち着いてるね」
「へ?」
思わず、シヴィリィは声をあげた。声を掛けてきたのがパーティメンバーの誰でもなかったからだ。
数百を超える大集団、それに大騎士のお陰で殆ど危険もない。良い機会とばかりに他のパーティと交流を取ろうとするものは多いが、シヴィリィ達に話かけてくるものはまずいなかった。
そんな中、薄く赤い髪の毛をした女性が、シヴィリィに視線を合わせ声を続ける。腰元に複数のナイフが刺さっているのを見ると斥候だろうか。
「ああ。覚えてない、っていうか私死体だったしね。ほら、第六層でルズノーを助けてくれたんでしょ」
第六層、ルズノー。そこまで聞いてようやく思い至った。
第六層、巨人との決闘で死体となってしまっていたガンダルヴァギルドの一人か。当時は血塗れで顔が見えなかったが、とシヴィリィは目を丸める。
「無事だったのね。良かったわ」
「無事だよ、身体が残ってたからね。散財はしたけど生き残れた」
大騎士教が持つ神秘があれば、死体でさえも条件さえ整えば復活できる。元死体拾いのシヴィリィとしてはなじみ深い制度だ。当然、相応の金銭を寄付という形で迫られるのだが。
「ん~」
彼女はまじまじと、シヴィリィの顔を見てから言った。
「噂で聞くほど怖くないね。私はドゥゼって言うんだけど。ありがとうね、助けてくれて」
「怖い? 私探索者にも怖がられてるの?」
ドゥゼと名乗った女性は、赤い髪の毛を跳ね上げて苦笑するように言った。
「ちょっと、ううん。大分怖がられてるかな。一回オークの首引きずったりしてればそれはねぇ。それに、貴方の容姿もあるからさ」
正市民としては、随分迂遠な言い回しだなとシヴィリィは思った。
多くの正市民はここまでシヴィリィに気を使わない。助けられた恩義を感じているのか。
きっと彼女は、良い人なのだろうとシヴィリィは思った。属領民に助けられる事を恥と思う者も多くいるのだ。
「悪い意味じゃなくてね。綺麗だけど鋭い顔つきだし、それに……まぁ仕返しされるんじゃないかって内心思ってるんでしょ」
「なるほど、そういうものね。ちょっと分かったわ」
今まで迫害していた金髪紅眼の属領民が、素手でオークの首を引きちぎって帰ってくる。自分で考えても中々の悪夢だな、とシヴィリィは唇を綻ばせた。
エレクは自分の名声を上げようと思ってやらせたらしいが、それが悪鬼と呼ばれる所以になったと知ればどんな顔をするだろう。
「でも貴方は私と話してて大丈夫なの? だってほら、私は属領民だし」
「ん~。まぁこんな場だし。それに私は助けられた、貴方は助けた。探索者としてこの事実だけは見逃しちゃあいけないのよ」
ドゥゼは直接斬り込んできたシヴィリィに瞳を大きくしながら、軽く唸って応じる。
「こんな稼業やってる以上ね、やっぱり死ぬなんて事は普通にあるよ。どんなに気を付けてても、私達は未知に向かってるんだから。で、運よく助けてくれる人がいれば生き返れる事はある。お金なんて失っても、生きてさえいればなんとかなるもの」
噛みしめるように指先を折り曲げてドゥゼは言った。指先が器用にくるりと回ってシヴィリィの目の前に差し出される。
「だから、探索者として真っ当な連中は絶対に助けられた事実を忘れない。……ルズノーはちょっと口が悪すぎるけど。恩義は感じてるよ。改めてありがとう、シヴィリィさん。ガンダルヴァギルドはこの恩義を忘れない……ってルズノーが自分で言えないから私が言いに来た」
その律儀な様子を見るに、やはり良い人間なのだろう、そうシヴィリィは思う。誰かの為に動いて、こうも真っすぐに感謝をされたのは何時ぶりだろうか。
しかしルズノーはあれだけの重鎧を身につけた堂々とした素振りであるのに、自分で言葉を告げにこれないというのは面白かった。ドゥゼの手を受け取りながら、応じる。
「ううん。私も自分勝手な事しただけだし。次も同じ事が出来るかは分からない」
「それはこっちだってそう。でも、助けられるなら助ける。それくらいはする。そうだ、もう知ってるかもしれないけど第七層の事も私達多少知ってるよ。一応ガンダルヴァは戦役の騎士配下のギルドだからね」
その言葉にシヴィリィは思わず唇を固くした。ずっと話を聞いていたノーラが傍らから声をかけてくる。
「……それ大丈夫なの。戦役の騎士は属領民嫌いで有名でしょ」
「ははは。大丈夫大丈夫。末端の私達なんて知らないだろうし、それにそういう思想は持ってても、押し付けて来るような人じゃないよ。うん、まぁシヴィリィさんには良い話じゃないだろうけど。私達にとってはそう悪い人じゃないから」
そういうものだろうか。シヴィリィが思って、遠征部隊の先頭へ視線を向ける。ゴブリンとアークウルフの群れを駆逐し終わった軍団に、戦役の騎士が声をかけていた。
「よろしい! 鎧袖一触! 素晴らしい事だ。第七層においても、同様の活躍を期待しよう!」
威厳に満ち溢れる声。周囲を鼓舞するのに向いた声だった。
彼女がもしシヴィリィ達より先に第六層に入っていれば、軍団を率いて魔女たちと本当に戦争を始めてしまっていたかもしれない。
「……でもやっぱりちょっと気が張ってるね。第七層の罪過と守護者が相手だから、仕方ないけど」
「守護者?」
罪過はともかく、守護者とは何であろう。シヴィリィの呟きに反応して、ドゥゼが言った。
「ほら、第六層には魔女や巨人、それに大陸食らいがいたでしょ。各階層にはそういった、罪過に従う守護者がいる……っていう話」
びしっと指を立ててドゥゼは言った。なるほど恐らく第七層以降は彼女も伝聞頼りらしい。
しかし不思議だった。第七層にそんな存在はいただろうか。胡乱なまま欲求に従う人間と、空に浮かぶ城しか存在しない階層だった。それこそ丸一日滞在しても殆ど危険がない場所だったが。
「皆さん。ご歓談も結構ですが、そろそろ第七層に入るようですよ」
リカルダが上から声を投げかけて来るように言った。
第五層に設置された大扉。そこから第七層に侵入できる事は経験済みだ。大騎士の手によって開かれる大扉は、まるで従者のようにその声に応じる。
扉の中で、光が渦を巻いていた。
「皆の者。心せよ。この先我々は第七層に踏み入れる。この大遠征において、必ずや功績をあげねばならない。不退転と心がけよ!」
戦役の騎士の一喝。しかして大遠征の一団は、もはやそのような脅し文句で引く者はいなかった。
大騎士のギルドにのみ活躍の場所を取られ、胸中は高揚している。いざ自分こそがここで活躍を見せるのだという、英雄願望が彼らの足を支えている。
「――進軍ッ!」
戦役の騎士の言葉に従い、皆が扉の中に入り込んでいく。とはいえ流石の大人数、全員がすぐ様というわけにはいかない。特にシヴィリィはやや後方だったものだから、最前衛とは数分の差があった。
心臓の鼓動が鳴った。再び第七層に赴く。大騎士達の言葉ではないが、まさしく不退転を心掛けねばならなかった。都市統括官シルケーからの助力はすでに胸の内にある。後は、空位派の面々がこの中にどれほど紛れていてくれるものか。
必ず、エレクを取り戻す。浮遊城を陥落せしめてでも。
シヴィリィがその意志を固くし、扉を超えた瞬間――。
――血みどろの光景が紅蓮の瞳に映り込んだ。