第八十一話『役者は揃い門は開く』
都市統括官シルケーが全てのギルドを地上に引き上げさせた後、都市全域へ出した布告は迷宮都市アルガガタルを騒然とさせた。
――ほぼ全てのギルドを巻き込んだ、迷宮への大遠征が再開される。
その裏側にある思惑など知らないで、市民たちは歓声をあげた。
都市統括官シルケーが、いいや三大国と大騎士教がようやく本腰を入れたのだと。
私達の五百年続いた畏怖の時代はようやく終わるのだ。
属領民達だけでなく、正市民達にとってもこの世界は脅威に満ち溢れている。街道には魔物が溢れ、時に迷宮から顕現してくる罪過と魔物の軍勢は、人々を駆逐する。
死は隣人であり、滅びは決して未知の友ではなかった。
オークは勿論、ゴブリンですらただの市民にとっては死の塊。無論、四騎士と各国の兵は魔物の掃討に日夜明け暮れてはいる。
しかし所詮、大地に蔓延る彼らは幻影にすぎない。言わば水面に映った月を斬るようなもの。全ての本体は、迷宮の中に。
迷宮を攻略しない限り、平和は訪れない。
「聞いたか。第六層も大部分が攻略されたとよ」
「どこまで本当かは分かりませんが、噂で持ち切りですよ。零落の魔女は倒れ、大遠征は第七層が目標ですとか」
「きっと騎士様がやってくれたんだろう。ざまぁ見ろ、魔女の奴め」
市民たちは希望に浮かれ、次々に口に出して騎士を讃えた。迷宮を攻略する者がいるのなら、騎士しかいないのだ。いいやそうでなくてはならない。
属領民の救世主など、彼らは望んでいないのだから。
「パンを一つ、頂けるかしら」
不意に、少女が雑談の最中にパンを買い求めて銅貨を差し出してくる。彼女が属領民なのは一目瞭然で、黄金の頭髪が視界に入って来た。
「うるさいね、銅貨二枚だよ」
彼女の方を見もしないで、女店主は言った。属領民と店主であれば、圧倒的に店主の方が立場が上だ。どうせ奴らはそう簡単に物を売ってくれる相手を他に見つけられないのだから。
しかし金髪の彼女は、くすりと笑うような物腰で言った。
「嘘ばっかり。銅貨一枚って書いてあるのに」
その、聞き覚えがある言葉に女店主は思わず振り返って視線を向けた。
金髪の少女はため息をつきながら、しかし笑みを浮かべて銅貨を一枚投げ渡す。
金髪だけでなく、輝かしい紅眼が見えた。それは間違いなく、死体拾いをしていた属領民であるはずだ。
無力と思っていたが、何時しか迷宮に潜り落ちオークを縊り殺した凶悪な金髪の悪鬼。
シヴィリィ=ノールアート。
「っ。さっさと消えな! 属領民!」
「言われなくてもそうするわよ。パンが欲しかっただけだもの」
「……悪鬼が」
いつの間にか、少女からは属領民訛りが消え失せていた。それ所か随分と金回りがよくなったらしく、身支度は整えられ銀と黒を基調にしたドレスを身に纏ってすらいる。
その紅蓮の瞳には、かつてあった弱弱しい光が消え失せている気すらした。それが余計に、彼女の迫力を増している。元々彼女の顔の造形は、人を威圧するに十分なものだった。
「――シヴィリィ。君、本当にパンが好きだよね。わざわざ買う程?」
踵を返し、ごった返した人の群れに戻るとすぐにノーラがシヴィリィの腕を引く。
「いいえ。不味いわ、とっても。自分で作った方がよっぽど美味しい」
「じゃあ何で買うのさ」
不思議そうな顔をしてノーラはシヴィリィの顔を覗き込む。
質の悪いパンは舌ざわりが酷く、殆ど味を感じない。シヴィリィはパンを数口食べて、そうして最後まで喉の奥に無理やり詰め込みながら言った。
「あの頃に戻りたくないって、実感するため。エレクがいなかったら、私はまだこのパンしか知らなかったんだから」
命を賭けて死体を拾い、僅かな銅貨だけを手にして美味しくもないパンだけを食べる日々。寝床もろくに持てないあの頃にだ。
「エレクは、絶対に取り戻すわ。ノーラ」
人込みの中、呟くようにシヴィリィが言う。
「それは勿論。今更あっさりいなくなられても困る。けど、出し抜く相手は彼女らだよ」
そう応じてノーラは、くいと顎で人込みの先を指した。
英雄の門の前。集った探索者らの波の頂点。
迷宮探索者とは、即ち彼女らを指す。
――勝利と戦役の大騎士。
原則的に、大騎士らが揃って迷宮に潜るのは避けられて来た。もしも彼女らが全員迷宮に潜ってしまった時、地上を守れるものがいなくなる。大騎士という大剣は極大の攻撃機能であり、防衛機能でもあるのだから。
その大騎士が此度の大遠征では、二振り振るわれる。
「――さて、皆さん」
大騎士筆頭。勝利の騎士ヴィクトリア=ドミニティウスが言う。その言葉一つが、やけによく通った。
周囲が一斉に静かになり、全員の呼吸が揃えられていく。迷宮前のクロムウェル大通りに集った探索者ギルド達は、ある種燃え滾る感情を瞳に宿しながらヴィクトリアを見た。
当然だ。大騎士配下のギルド以外は、第五層までをその縄張りとしている。しかし今回道が開かれるのは第六層、第七層。そこには大騎士配下ギルドが占有していた素材も、もしかすれば新たな神秘だって見つかるかもしれない。
何時だって迷宮に求められるのは、希望と財宝なのだ。それに、大騎士と共に迷宮を探索できる機会などそうありはしない。
「我々は、第七層を目指します。数多のギルドが集い、数多の探索者が集った我ら」
クロムウェル大通りには、数百をゆうに超える数の人類種が集っていた。ギルド単位で集まっている者もいれば、個人で参加しているものもいるのだろう。
それらの有象無象に向けて、ヴィクトリアが宣言する。
「――敗北も、撤退も許されません。勝利こそ義務と心得なさい」
ヴィクトリアが冷徹でありながら、それでいて心の内側を沸かせる言葉を全体に放つ。
その傍らでもう一人が、前に出る。朱色の騎士鎧が、陽光に強く反射していた。
「勇者たちよ、奮闘するが良い! 全身全霊、己が汝らを愛そう!」
朱色の騎士の言葉に呼応するように、群衆が吠えた。どうやら二人とも、大した人気があるらしかった。宗教の中での象徴であるのだから当然と言えば当然だ。
しかし二人とも、当然人気だけというわけではない。
その身体には、遠くからでも感知できてしまうだけの膨大な魔力を有している。第六層を超えたシヴィリィでも、ノーラでも届かない。
あれを、超えなければならない。
改めてシヴィリィはそう意識して彼女らを見た。一瞬、ヴィクトリアと視線があった気がする。
指先を鳴らして、自分の手元に集中した。そうしなくては、空気に呑まれてしまいそうだ。
「大丈夫よ、正面から戦うわけでもないし」
「誰と戦うのでありますか?」
人込みをかき分けて、ひょっこりと顔を出したのは黒い瞳。ココノツだった。その美麗な双角はシヴィリィだけでなく周囲の視線をも引き寄せる。
何せただでさえ目立つシヴィリィと、角を持ったココノツががともにいるのだ。
そこにあからさまな侮蔑の視線が混じってもおかしくはない。それが暴力ではなく視線だけで済んでいるのは、シヴィリィの悪鬼という悪評が浸透し始めていたのと、ココノツと殆ど変わらずリカルダが合流してきた影響があるだろう。
「合流できるか不安でしたが、杞憂でしたね。流石に久しぶりの大遠征、人の賑わいが違います」
「久しぶりっていうと、前回って何時なのさ」
「この規模で行うのは百四十年前と記録に残っていますよ」
百四十年前。シヴィリィにとっては気が遠くなるほどの過去だ。とはいえ、エレクはその更に前を生きた人間なのだが。
「――でも、その大遠征でも成果はあげられなかったんでありますよね。その割には盛り上がっているというか、逆に第六層が陥落したって話の盛り上がりが薄いというか」
リカルダは苦笑をしながらココノツに応えた。
「時間が経ちましたからね、今度こそはという思いがあるのでしょう。第六層については、実感が湧いていないのだと思います。何百年も陥落しなかったものが、急に落ちたといっても納得が出来る者は少ないでしょう。シルケー閣下は、この大遠征で成果があがったと喧伝する用意をしていますがね」
なるほど、とココノツと一緒にシヴィリィが得心して頷く。
確かに、唐突に誰かによって第六層が陥落させられたというのでは今一真実味にも欠ける。このように大々的に遠征をおこない、その結果として第六層を攻略した事を広く告げる方が受け入れられやすく、そうして盛り上がりも出る。
――その場合恐らくは自分や彼の成果ではなく、他の者の成果にするのだろうが。
何、その程度の事は慣れっこだ。属領民にとって珍しい事でもない。自分の目的はもっと遠い所にある。
吐息を整え、シヴィリィは指を鳴らした。手袋は幾度も魔力を練り込んだ事で強度が増している。用意できるものといえば、装備と魔力のため込みくらいのものだった。指輪が陽光に揺らめくように光を帯びている。
さて、では。
シヴィリィが決意し、そうして踏み出そうとしたのと全く同時に。勝利の騎士ヴィクトリアが宣言した。
「では、大遠征を開始します。――役者は揃った、門を開け!」
あらかじめ決められた段取りだったのか。
その声を合図に、英雄の門が開かれる。
迷宮が、憎悪と暗闇に塗れながら大口を開けていた。