第七十九話『大淫婦』
銀縁の眼鏡が輝き、大淫婦ロマニアの鋭い双眸が俺を貫く。大淫婦と蔑まれる事になった所以は知らないが、そのエルフには珍しい女らしい体つきが一助となっているのかもしれない。
どうしてだろうか。雨など降ってもいないのに、彼女には雨が似合うと思ってしまった。ぎゅぅと眉間に皺を寄せ、記憶を探る。
数秒の逡巡。記憶の奥底を手探りでかき回しながら、必死に何かを繋ぎとめようと指先を伸ばす。
その先に、何かがあった気がする。聖女カサンドラの時にも気づいた、何か。
――しかし、駄目だ。やはりどうしても、彼女に対する記憶もぽっかりと抜け落ちてしまっていた。
奇妙だった。この城にしろ歴史にしろ、記憶が薄れていても印象くらいは覚えているもの。
けれど四騎士と罪過の連中達は、魂がこれを知っていると語るのに、俺の記憶は彼女らを完全に喪失してしまっている。
何故だ。まるで記憶が、彼女達を思い出す事を――強く拒絶してしまっているかのよう。
「どうかな、君。これも何か思い出す所があるんじゃないのかい。我らが議論を交わすときは、常にこの卓を用いていたものだ」
「……この卓自体には、覚えはあるがね」
浮遊城の内部、軍議室。ロマニアは俺の右腕に繋いだままの鎖を自らの腕にも絡みつけ、そのまま城内を散策でもするような気軽さで回った。
城内に人はいなかった。存在したものは彼女と同種のエルフ達だけ。しかし地上に闊歩しているエルフ達より、ややも儚い印象を抱かせる。彼女達は俺と視線を合わせる事はなく、無言でロマニアの指示に従うだけだった。
俺はロマニアが手の平を置いた横長の円卓をじぃと見ながら視線を動かす。
「――だが、お前らと会話した事は思い出せない。
ロマニア、いい加減こんな遠回りな事はやめてくれ。カサンドラもそうだ。お前は俺を知っていて、俺に何があったのかも理解しているはずだ。それをそのまま教えてくれれば良い」
「それは出来ない」
ロマニアは迷う事すら無かった。即断即決。彼女にはある種施政者に求められる果断さが身についている。
しかしその意図がまるで分からなかった。俺に記憶を呼び起こさせるような真似をしておいて、それでいて自分は何も語らない。
どうしてそんな迂遠な真似を好むのか。
「カサンドラは語るべき事を語り封じられた。ゆえに己も、語るべき事だけを語ろう。君の記憶を語る事は、君との約束を反する事になる」
『約束』と、ロマニアが言った。そういえばカサンドラも、同じ言葉を語っていたな。
――申し訳ありません。言えませんわ。約束ですもの。陛下が手を取られるまで、何も言えません。
あれは生前の俺との約束だったのか。では俺は生前彼女らに何を語り、何を約束した。
長い緑色の髪の毛が、俺の間近で揺れ動く。
「――己らは愚かだ。いいや時に誰しも愚かになる瞬間がある。そうなれば、君に致命的な間違いを伝えてしまうかもしれない。己も聖女も、騎士や女神でさえ。
ゆえに、己らは君と約束をした。君が自ら知り、想起し、そうして判断をしない限り何も語らないと。これは魔導による契約だ。決して破る事は出来ない」
魔導による契約。それは全てを縛り付ける絶対遵守の誓約。人類種であれ魔族であれ、一度魔導により契約を結べば道を外れる事は出来ない。
契約は個人そのものではなく、世界に存在する魂そのものを縛り付けるからだ。俺個人であれば契約をものともせずとも、魂はそれを拒絶する。そうして誰しも、魂を失っては生きていけない。
「そういうわけか。まぁ、おおよそは理解したよロマニア」
「……そうか、ならば良かった」
軽く頷いて応じる。
確かに最も重要な真相は未だはっきりとしない。しかし今確認できている事実から読み取れるものもある。
それは詰まり、俺の生前にはやはり何かがあった。かつての俺自身、そうしてカサンドラやロマニア、彼女らが誓約を交わす程の何かだ。
もしかすればそれが、この迷宮の存在を作り出す根源なのかもしれない。
俺は数秒を置いてから、ロマニアにもう一つ問うた。事情を知っていそうで、尚も語れそうなのは彼女しかいなかった。
「じゃあ別口の話だ。――どういうわけか地上に魔族がいた。何故だ。あいつらは討滅したはずだ。全員、例外なく滅んだはずだろう」
瞼の裏に、大騎士教の剣とまで呼ばれていたレリュアードの姿を映し出していた。
彼らはとうの昔に滅んだはず。それが過去の人類種と魔族との間におきた生存競争の結果であり、人類種の天敵であった魔族の末路だった。
だというのに、どうして奴らがのうのうと地上で蔓延っているのか。それも人類種の社会に溶け込んで。
ロマニアは瞳を固くしながらこちらを向いた。エルフが有する神秘的な美貌が、彼女が纏う空気に隙の無さをもたらしていた。
「それも言えない」
知らないのではなく、言えない。
それだけで全て分かった。詰まり魔族の連中が蔓延っている原因も、俺が失っている記憶に根本があるわけだ。物事はより単純であるほど素晴らしい。楽で良いじゃないか。
要は魔族の連中を再び駆逐するにしろ、不明瞭な謎の正体を突き止めるにしろ、記憶を取り戻すのが一番というわけだ。
「ロマニア」
「何かな君。もっと名前を呼んでくれても構わないよ」
俺には彼女の記憶はない。しかし、カサンドラと共に並び立っていたような薄っすらとした光景の覚えだけはある。もはや推察するまでもなく、彼女もまたかつて俺の味方だったのだろう。
それにカサンドラはやや異常さを見せていたが、ロマニアは――俺を鎖で縛りつけている、という一点を除けば正常な様子に見えた。
だからこそ、言う。
「俺は迷宮の奥地にまで潜るつもりだ。身体と記憶を取り戻す為にな。お前はそれに協力してくれるか。それとも、お前も敵に回るか?」
形の良い唇を動かして、軍議室の中でロマニアは言った。
「――まさか。己が君の敵に回ったことがあったか」
覚えていないと言っているだろうに。しかしエルフというものは誠実なものだ。誓約がなくとも通常言葉を違える事はない。
これならば本当に、第七層の主人を味方に出来るかもしれない。
そんな淡い期待を、あっさりと断ち切るようにロマニアは言う。
「素晴らしい事だ、君。万事己に任せておくが良い。己は全てを彼らに与えよう。全ての彼らに呪いをかけよう。――外の連中なら、幾らでも滅ぼしてやるさ」
ロマニアの見事な緑の瞳が、黒く染まりゆくのが分かった。
それは、悪意と呼ぶのだろうか。それとも憎悪と名付けるべきだろうか。
ありとあらゆる不吉な感情の結晶のように思えた。
思わず、奥歯を噛み込む。
それはカサンドラと同じ様子だった。彼女らは理性を保っているように見え、話が通じるように見え、最後の所で全く話が噛み合わない。
全人類を憎悪し、恨み抜き、全てを殺し尽くすまで絶えないような情動を彼女らは抱えている。
記憶はない。しかし、彼女はこうではなかったのだと魂が語っていた。こうも人に理性をも失わせる感情を抱かせる事実とは、何なのだ。
――俺は何を、忘れている?
茫然と、いいや一瞬の驚愕をもってロマニアを見た。
同時、指を鳴らして魔力を集中させる。霊体が実体化するほどの魔力がこの城内にはあるのだ。ならばこの身体でも、多少の魔導は使えるはず。
確信する。必ずロマニアは俺達の敵に回るだろう。そうして、シヴィリィではこいつに勝てない。
嫌な予感がしていた。理性は否定していても、ここにシヴィリィが到達してしまうような光景が瞼に浮かんでいたのだ。
ならば俺が、始末をつけておくべきだ。こいつは五百年前の生き残りなのだから。
魔導の知識は数少ない俺の武具。それで鎖から抜け出す隙を作り出すくらいならば――。
だが、ロマニアは感情のはっきりしない瞳で俺を見た。
「己を誰か忘れたのかな、君。いいや、忘れていたのだったね」
ロマニアの顔が、吐息すらかかりそうな間近に近づいていた。彼女の指先が魔力を込めた俺の片腕を絡みとる。
瞬間、霊体に彼女の魔力が入り込んでくる。まるで見えない数多の杭が身体に打ち込まれるかのように、次々と体躯を縛り付けていく。
「ならば己が大淫婦と蔑まれるようになった由来を、今一度教えてあげようじゃあないか。全て任せておきたまえ――エレク」
ロマニアは妖艶とすら思える笑みを間近で浮かべたまま、そう言った。




