第七十六話『統括者』
不味い。
シヴィリィは紅蓮の瞳をぐにゃりと歪めて、不相応に大きな椅子に座るナツメ=ヌレハネを改めて見なおした。
「どうしたのよシヴィリィちゃん。生きてこの世に生まれ落ちた以上、一秒たりとも無駄に過ごすなんて世界に対する冒涜ってものよ。目を開いて一度鳴いたからには時間の端から端まで楽しまないと」
「遊びではありませんぜ、統括」
「もぉー分かってるわよ。でも私に緩い所がオズワルドの良い所なんだからさぁ。言葉の綾くらい許してよ言葉の綾。わかる?」
二房に分けられた淡い栗色の髪の毛を揺らめかせ、不機嫌に唇を尖らせてナツメは言う。とはいえ、どこか心地よさそうな面もあったのでオズワルドとの関係は良好なのだろう。
オズワルドも顔に刻まれた皺を深めてこそいたが、不服そうなものは浮かんでいなかった。
そのまま当てはまるものでもないだろうが、一目みるだけなら祖父と孫のようにすら思える。
シヴィリィがココノツから聞いていた話し相手は、オズワルドのみだった。性格は豪放だが、彼ほど頭の良い人間を見たことはないとココノツが腕を組みながら言ったのが印象深い。
オズワルドは空位派に複数存在する頭目の一人だ。大陸全体に跨って活動をする彼らは、地方毎に頭目を有し彼らが空位派の面々を管理する。
しかし今、オズワルドは座することすらなく立ってナツメを迎え、彼女は椅子に座り込んでいる。
「その、ナツメちゃんってどういう人なの……?」
「……まさかご説明すらされていないので?」
オズワルドがシヴィリィの言葉を受けて、その皺を大いに歪めさせた。嘆息が唇からこぼれ出る。
反面、ナツメは愉快そうに口を開いた。美麗な顔つきは笑い顔となってもまるで造形を失わせない。
「はっはっはっはっは! 良いじゃないこれくらい遊び心よ遊び心。ココノツが来ると思ってたからさぁ、驚かせてやろうと思ったのに来ないでやんの。あの子って珍しく私の事を怖がらないから面白いのよ。あ、いやいや脱線したね脱線」
どうやら、時折言葉を繰り返すのがナツメの癖らしかった。相変わらずきょとんとしたままのシヴィリィに、彼女は頬杖を突いたまま口を開いた。
その瞳が、じぃとシヴィリィを見据える。言葉遣いは軽薄でどこか掴み辛さすら感じるのに、その表情と瞳の奥にある魔的な感触が、彼女の存在に重みをもたせている。
ああ、この人も純粋な人間ではない。シヴィリィの直感がそう応じた。
「初めまして? まぁ初めましてでいっか。ナツメ=ヌレハネ。空位派の統括と呼ばれているわ。姫って呼ぶやつもいるけどね。空位派は数多くの頭目を持つ組織だけれど、形式上はそいつらを私が取りまとめる事になってる。まぁ皆好き勝手やってるけど」
気軽にナツメちゃんと呼ぶがいいわ。そう付け加えて、ナツメはふふんと胸を張った。
空位派の頭目を束ねる統括、姫君。つまりそれは――空位派にとって紛れもない頂点に位置する人間なのでは。
冷たいものがシヴィリィの背中を這っていく。吐息が口から漏れ出そうになるのを必死に抑えた。オズワルドがもう一つあった椅子を用意してくれたが、それに座る動作がぎこちなくなったかもしれない。
空位派と取引をする上で一定の考えはあったものの、流石に頂点が出てくるとは想像もしていなかった。シヴィリィは目を丸くしたまま、呼吸を整えてから口を開く。
「ええと、どうしてその。ナツメちゃんみたいに偉い人が……」
ここにいるの、そう問おうとしたシヴィリィの言葉に挟み込んでナツメが言った。
「そうよね、思うわよね。私がどうしてここにいるのって。やっぱり私って罪な女だわ。世界すらも私が動くことで動揺してしまうんだもの。そう思わないオズワルド!」
「ええ、まぁ。そうですな」
ナツメの言葉の意味は全く分からなかったが、オズワルドが簡単に目くばせをして一歩前に出る。彼は老齢ではあるもののがっしりとした体格を備えており、まるで衰えという印象を抱かせない。
ナツメに翻弄され続けているシヴィリィに視線を合わせるようにしながら、オズワルドが言った。
「お前さんとの交渉は本来は俺の役目だったんだがな。色々と準備が台無しになっちまった。
――端的に言おう。ウチの姫君は、お前さんをそれだけ見込んでいるんだとよ。それで是非自分の目で見たいってんで、飛んできちまった」
「は、はぁ。見込んでいる?」
「その通り!」
オズワルドが説明する最中にも長々とした言葉を語っていたナツメだったが、不意に言葉を区切ってシヴィリィへと目を向けた。
不思議な少女だった。語っていることはどこまでも滅茶苦茶で駆け引きも何もあったものではないのに、いつの間にか周囲が彼女のペースに巻き込まれている。
「迷宮の第六層を踏破したのでしょう。聖女カサンドラの本体を殲滅し、大騎士らを出し抜いた。大騎士教は認めたがらないでしょうけどね。私はしっかりと知っているわ、聞いているわ。この世の中、一度起こった事実はそう簡単に消えないのだもの。
だから私が称えましょう! ――シヴィリィ=ノールアートは格別の評価と偉業に値すると!」
大きな椅子から身を乗り出して、ナツメがまるで全てを見てきたような素振りで言う。恐らくはココノツが情報源だろうが、彼女が知るよりも情報が詳しい。もしかすれば、それ以外にも情報網があるのだろうか。
シヴィリィはじぃと瞳を細め、唇を固くした。
評価されているのは良い要素だ。交渉をするにしても、相手方に差し出せるものがないと動きようがない。相手がこちらに価値を認めるのは交渉の第一歩と言える。
しかしこのままではいけなかった。完全に場の主導権を握られてしまっている。求めるものを引き出すためには、シヴィリィが自らで場を制さなければならなかった。
「――ありがとうございます。評価して貰っているという事は、そちらが私に求めるものもある、という事ですよね」
「頭がいい子は私大好きよ。この世の中、じっと黙っていて評価されるのは宝石や華くらいのもの。諸人は欲しいものがあれば手足か口を動かすしかないのよ。
シヴィリィちゃんが欲しいものは、そうねぇ。第七層攻略への助力って所? 迷宮の最深部を目指しているんでしょう」
「いえ、実は他にお願いがございまして――」
「ああ、敬語はやめましょ。シヴィリィちゃん、ナツメちゃんの仲じゃない。私堅苦しいの嫌いなのよ。というか敬語なんて考えだしたの誰なのかしら。嫌になっちゃう。そいつ百年くらい死刑になってくれないかしら」
強要されているだけで、仲が良くなったからちゃん付けにしているわけではないのだが。
シヴィリィは少し頭を重くしながら、ナツメのペースに絡めとられないよう、呼吸を落ち着けてから話を切り出す。
シヴィリィが空位派に求める事は、シルケーに求めたものとはまた別種だった。シルケーに求めるものは、自分たちの正当さの担保と助力。しかし反面、空位派は裏側から手を回して貰わないといけない。
それこそ、シルケーや大騎士達が立ち止まれなくなる程度には強烈に。
「分かった。分かりましたナツメちゃん。私はね、貴方たちに一つやって欲しい事があるだけ。これから都市統括官は大遠征を開始する。その目的地は、第七層になる予定」
「へぇ?」
そう応じたのはオズワルドだった。顎鬚を弄びながら、目元の皺を深めている。彼と、そうしてナツメに視線を配ってからシヴィリィは言葉を続けた。
「貴方たちには、そこで――」
シヴィリィがはっきりと言葉を並び立てて、要求を告げた。オズワルドは顎鬚を今一度撫でて。ナツメの様子を伺う。表立って反対する様子は無かったが、この場で決定権はナツメにしかないのだろう。
「ふぅん。それをすると私たち思いっきり都市統括官の敵ねぇ」
「今でもそうなんじゃないの?」
「はっはっは! ええその通り。ん~そうねぇ。即断即決、私が踊れば誰もが踊るが座右の銘の私としてはすぐにすぱっと答えてあげたいのだけれど――」
ナツメは頬杖を突きながら、僅かに声のトーンを変えた。別に重みを加えようとしたわけではない。迫力を見せようとしたわけでもないだろう。
何故なら、ナツメにはそのような小細工は不要だった。
シヴィリィが自然と息を飲む。ナツメが自分を見つめる瞳が、奇妙なまでに鋭さを増していた。
「――見返りとして、当然シヴィリィちゃんは、ウチに列席してくれるのよねぇ。まさか、他の勢力と私たちを競合させたいだけなんて、そんな事は言わないでしょう?」
薄い、それでいて空気を一変させるだけの笑みが、ナツメの表情に張り付いていた。




