第七十四話『交渉とは小さな戦争である』
――属領民の小娘は、一体何を見て、何を聞いたのか。
都市統括官シルケーは蒼い瞳をぎょろりと大きくして、眼前のシヴィリィを覗き見る。彼女はおどおどとした様子を隠さず、しかしはっきりと言葉で続ける。
「ヴィクトリアはエレクの事を気に掛けているようで。身内に引き入れようとしているのかもしれません。彼女から、貨幣も受け取りましたから」
「貨幣?」
傍らのノーラが生返事で問いかけると、シヴィリィはゆったり頷いた。
伸ばされた金髪がぱさりとソファの上に優しく落とされ、彼女が懐を漁る。数秒、時折手元を止めながら彼女は一枚の金貨を取り出した。
シルケーは思わず瞠目した。
金貨自体は珍しいものでもない。むしろシルケーにとっては商人達に支払うのは専ら金貨であり見慣れたものだ。
問題なのは、勝利の騎士ヴィクトリアがそれを属領民にすぎないシヴィリィに受け渡したという事。
「興味深いな……それを見せたまえ。取るような卑しい真似はせん」
「はい、閣下」
シルケーもシヴィリィの言葉全てを鵜呑みにしているわけではないが、彼女の言動に嘘があるようには見えなかった。
手渡された金貨は、悪貨や偽貨ではない。上流階級の間で取り交わされる良貨だ。幾ら探索者とはいえ属領民が手に入れられるものではない。それに、彼女には別段嘘を吐く必要性がないのだ。
よってシルケーはこう判断する。勝利の騎士ヴィクトリアもまた亡霊の価値に気づき、それを手中に収めようとしているのだろうと。
勝利の騎士が所属するのは大国スレピド。公女フェオドラから情報が入っていてもおかしくはない。金貨をシヴィリィに返してから、シルケーは眉間の皺を深くした。
状況は率直にいって最悪だ。
数多のギルドを巻き込んだ大遠征を開催する事を強いられ、それだけでも迷宮都市は多大な散財をしなければならない。魔物討伐への報奨金は都市側の持ち出しだ。
その上大遠征においては騎士、公女、大騎士教がどのような手を打ってくるかまるで分かったものではなかった。下手な真似をすればシルケーの立場そのものが危うくなる事もありうる。
「ヴィクトリアは、第七層の攻略を目指すと言っていたのだな」
「ええ。浮遊城の攻略を第一目標にすると」
浮遊城の事まで知っているとなると、第七層まで赴いたのは確実だ。シルケーは蒼い瞳をちらりと細めて、シヴィリィを見た。
金髪紅眼の属領民。艶やかな髪色と炯々と煌めき紅蓮は、過去に人類種を裏切った罪過の一人と同じ。裏切り者の象徴。
けれどその姿は唾棄されながらも、ある種の輝きを放っている。その裏側をよく知っているシルケーは口内でため息を吐きながら、思った。
――本当ならこのような厄介な存在は、処刑してしまいたい。
理由などあってもなくても同じようなもの。シルケーは迷宮が正常に『稼働』していればそれで良く、そこに異端を持ち込むべきではない。
シヴィリィという名の属領民も亡霊より薫陶を受け、魔導を覚えているという。
エレクが本当に魔王であれ、それを名乗るだけのものであれ、シヴィリィが危うい存在である以上は消してしまうのが最も手っ取り早い。
しかし、もはや情勢がそれを許さなくなっていた。シヴィリィという存在は、シルケーが隠しきれる範囲を超えている。
「事情は分かった。では次は亡霊に聞きたい。――こちらに何を求めている。貴様は何を差し出す」
シルケーの問いかけに、シヴィリィがその問いかけを復唱するように繰り返す。亡霊に伝えているのだろう。
「それで、ええと……何、エレク」
まどころしいやり取りではあったが、逆に有難いともシルケーは思った。
相手はもしかすれば、五百年前の魔王だ。人類種と魔族、魔物達の頂点に君臨した者。そうして、一度は人類種を救いながら人類種に排斥された者。
そんな彼が、自分にどのような態度を取ってくるものか分からなかった。
反面、属領民を介してのやり取りであればこちらも下手に取り繕う必要がなくなる。それに、亡霊の制御は出来ずとも属領民の小娘の制御は出来るかもしれないではないか。
そういう意味で言えば、シヴィリィ=ノールアートにも亡霊の錠前としての価値は確かにあったのだ。
しかし、シルケーには奇妙な違和感もあった。
「――閣下。彼が求めるものは二つです。ギルド設立の許諾、それと大遠征の目的を第七層の攻略としていただく事」
「ほう?」
違和感。そう、違和感だ。ノーラからもリカルダからも、エレクと名乗る亡霊は何処か傲慢さを含ませた相手だと聞いていた。
しかしシヴィリィの口から語られる言葉に、シルケーはそういったものをまるで感じなかった。要求もさして大したものではない。属領民の小娘がそのように翻訳しているというわけか?
まさか。いや、しかし。
蒼い眼が怪訝そうに姿を歪める。
「……だが取引というのは、差し出すものが必要だ。間が抜けていてもそれくらいは分かるな?」
「はい。エレクは、閣下が必要とされるのであれば。閣下に魔導の知識をお話しても良いと」
ぴくりと、シルケーが指先を上げた。
それが確約されるのであれば、大きな約定とも言える。
シヴィリィが大騎士教管理外の魔導を使用したのは確認済みだ。その知識は大騎士教を出し抜くためにも是が非でも欲しい存在だった。
しかし、
「一つ聞こう。第七層を大遠征の攻略目標とさせたいのは何故だ?」
「彼の目的は、迷宮を探索し自分の肉体を取り戻す事です。その為にも、第七層の攻略が進められるのは良い事だと」
シルケーはゆっくりと頷いた。道理は通ってはいる。肉体を取り戻す事の是非は別としても、理屈や論理の矛盾は存在しない。それに第六層が陥落した今となっては、次は第七層を標的とするのは順当な流れとも言えた。
だがシルケーには一つの懸念があった。それは第七層を誰が攻略するかという話だ。
第七層を攻略対象と決めたならば、その為の道筋は解放させられる。大遠征という建前があれば、大騎士教も協力せざるをえない。
しかしそれでも、他のギルドが大騎士を出し抜けるとは思えなかった。大遠征の結果、最も成果をあげたのが大騎士という事になればむしろシルケーの影響力は落ちる事になるだろう。散財した結果、都市の管理権を失うのでは馬鹿らしいにもほどがある。
出来る限り大騎士の影響力を削ぎつつ、自らの影響力を増大させたい。そんなシルケーの思いに、するりと入り込むように言葉が滑り込んできた。
「――当然。我々も第七層に潜ります。必要がございましたら、閣下にお力添えを致します」
シルケーは、蒼い瞳を剥いた。
神経質に爪をがちりと噛み、シヴィリィを見る。気味が悪いとそう思った。
属領民の小娘の言葉にあからさまな嘘はない。おかしな点も見当たらない。しかし余りに、こちらの望みに沿いすぎているような。
それこそ――第六層攻略という実績をもったシヴィリィらを援助する事を後押しされているような。
そんな、奇妙な違和感。
シルケーは誇り高い女だった。他人の言葉を丸々受け入れるような真似は好きではない。相手が正市民だろうが属領民だろうが構わないが、自分より物事を円滑に進められる者はそういないと信じているからだ。
しかし今、シヴィリィは提案をしてきているのではなかった。ただただ、シルケーの期待に沿うような言葉を唇から漏らし続けている。
これは亡霊の差し金か。いいやそれとも――。
十秒、無言の時間が続いた。シルケーは砂糖を一杯紅茶にいれて、飲み干してから言った。
「――良かろう。追って連絡する。しかし無碍にはしない。こちらは、必要なもの、使えるものは必ず管理し使用する」
そうして、不要になれば伐採するのだ。
シルケーは一つ、眼前の小娘――いいや少女をある意味で買った。それが亡霊によるものであったとしても、少女によるものだとしても使える相手であるのは間違いがない。
それに、シルケーに損になる取引ではなかった。ならば多少の奇妙さは呑み込んでやっても構わない。
シヴィリィは笑みを浮かべたまま、礼を言った。
「ありがとうございます閣下。エレクも礼をと」
そう告げた胸中の中で、シヴィリィは呟いていた。
――さて、次は。空位派か。