第七十二話『悪意は常に善意の顔をしている』
遠くに見える空は灰色をしていて、それだけでは昼なのか夜なのかはっきりと分からない。薄暗い雲の中で見える太陽の位置だけが時間の移り変わりは教えてくれた。
太陽が告げる事によると、シヴィリィは第七層の大広場でかっきり一日を過ごしていた。
ここが魔獣すらも現れない安全地帯というのは本当なのか、彼女が危険に脅かされる事はひと時もない。住人は他者への干渉を、自分の欲望を満たそうという時以外は行わないのだ。
しゃがみ込んだまま、整った唇が枯れた言葉を漏らす。
「……エレクは嘘をつくか、つかないか。つかない」
シヴィリィはそう口にした。自問自答は得意だ。何せ、何年もの間彼女の話し相手は自分一人しかいなかった。
さて、エレクは嘘をつかないのは間違いがない。属領民の自分にさえ彼は誠実だった。
しかし彼はすぐに戻ると言ったが、一日を経って尚戻ってこない。これは間違いなく『すぐ』の限度を超えている。
エレクが嘘をつかない以上――これは彼の身に何かがふりかかったのだ。戻ってこれないだけの何かが。
「シヴィリィ殿。ずっとそこでじぃっとされて、本当にどうしたのであります。まだエレク殿と話されているので?」
ココノツが殆ど不動のまま口をきかないシヴィリィに、幾度目かの声をかけた。彼女の表情は、不信というより不安にかられている。
そういえば、本来なら不安にかられたり、焦燥に身を焼かれてもいいはずなのに。どういうわけか落ち着いたままの自分にシヴィリィは驚いた。
じぃっと待っている時はともかく、エレクに何かがあったのだと考えついてもまだ思考は冷静なまま。
いいや違う。これは、彼の言葉を愚直に実践しているだけか。
考えてみろと、エレクは言った。シヴィリィは彼がそう言ったから、今も考え続けているだけだ。感情は思考に置き去りにされ、まだ湧き出ていないだけ。
さて、さて。シヴィリィは紅蓮の瞳を傾ける。
――では、考えよう。
間違いなく彼は浮遊城に接近した際に何かが起きて身動きが取れなくなった。果たして、それで彼が消滅してしまうだろうか。
否。そんな事が起こってはいけない。ならば起きていないと楽天的だとしても据え置くべきだ。
それでは自分には何が出来るのかと、シヴィリィは自らに問いかけた。
彼に出会うまで、死体を運ぶ事しか能のなかった私に何が出来る。
ノールアート家の連中にこんな身体にされ、泥に塗れるしかなかった属領民に何が出来る。
意志はあっても大望はなく、細やかな幸福に満足を見出す小娘に何が出来る。
ぐるりぐるりと、思考が頭蓋の内側を駆け巡る。紅蓮が煌々と輝き、シヴィリィの内側に眠る意志を示していた。
時間にすれば十分足らず。しかし数え切れぬ自問と自答を繰り返しながら、シヴィリィは指先を手袋の上から噛んだ。肉に痛みが這い寄る感触が今は心地よい。
そうしてからすっと立ち上がって、浮遊城を見た。彼を、奪ったもの。
『――私を、舐めやがって』
久しぶりに、故郷の言葉をシヴィリィは喋った。属領語と一括りに纏められるが、それは公用語と違い数多の言葉の集合体だ。ココノツには彼女が何と言ったのかは分からなかった。
金髪が、宙にはためく。
考えは終わった。
「ココノツ。空位派だっけ。会わせてくれない、いるんでしょう他にも仲間の人が」
「おや、エレク殿とのお話が終わったので?」
ココノツは、僅かに頬を緩やかにしながらも小首を傾げて言った。
さて、とシヴィリィはその表情を見て判断した。
彼女は私を粗雑にするつもりはなさそうだ、しかし最も重要視しているのはエレクらしい。何せ、魔導の知識はそう得られるものではないからだ。彼女が真に欲しがっているのは、エレクが持つ知識だろう。
「――ええ。話は終わったわ。彼も、賛成だって言ってる」
ならば――ココノツにエレクが帰ってきていない事を告げる意味はない。
シヴィリィは表情にすっかり笑みを浮かべて、気楽な様子で言った。
「でも聞かせて欲しいって言ってるわ。空位派が何をしようとしていて、何が出来るのか」
「ええ、ええ。勿論。道すがらでもお話致しましょう!」
どこか緩んだ表情を見せるココノツに向けて視線を細めながら、シヴィリィは思考を巡らせた。顔に張り付けた表情と、全く別の事を考えるのは死体運びの時に習得した技術だ。
考えろ、考えろ。考えをやめれば、途端に感情は自分を殺すだろう。どうすれば、自分の望みを果たせる。私に残った手札は何だ。
エレクの知識、大騎士教の魔族と大国スレピドへの伝手、都市統括官、第六層で手に入れた指輪、それにエレクが魔女と巨人から託されたものもあるが、あれは自分で扱うにはやや過大だ。
思考の方法はエレクに幾度も教えられた。戦い方よりもそちらの方に比重が寄っていたくらい。
移動をしようと、ココノツが双角を上向かせた瞬間だ。ふと自分の何かが振動した感触がシヴィリィにはあった。すぐに正体が分かる。魔力だ。微弱な魔力の振動と共に、声が聞こえてきた。
『――全ての探索者に、都市統括官ザナトリア=シルケーの名の下に伝令する。地上に帰還したまえ。新たに探索に関する布告を出す。繰り返す――』
都市統括官の声、いいや声というより振動が魔力に伝わってくる。
「ああ、統括官の魔導でありますか。天体礼式とは不可思議なものでありますなぁ」
ココノツが言うには、これ自体は都市統括官シルケーの魔導の応用でしかなく、本質ではないのだとか。
迷宮の入り口である英雄の門で探索者に印を付け、その印を目標として声を飛ばしているらしい。
けれどシヴィリィはそれ自体は大した情報には感じなかった。重要なのは、恐らくこれがエレクから伝え聞いたリカルダの合図であろうという事。
それは詰まり――都市統括官とリカルダの間で、何かしらシヴィリィの取扱について妥協と取り決めが交わされたという事に他ならない。
ならば彼らにも一度出会うべきだろう。シヴィリィはココノツを振り向いて言った。
「ちょうど良いわ。一度出ましょう。貴方の話も聞きたいけど、丁度良い提案があるのよ」
◇◆◇◆
第七層から上層へと戻るのは案外簡単な事だった。第五層から降りて来た際の扉を覚えておかねばならないのは面倒ではあるが、それさえ守っていれば後は単純なもの。どうやら第五層の大扉は簡易的な経路作成を行ってくれる固定魔導であるらしかった。
第四層以上に上がると、多くの探索者が地上へと向かっているのが分かる。誰もが、先ほどのシルケーの伝令を聞いて動きだしているのだ。
不意に、彼らがシヴィリィらを見た。多くの者は金髪紅眼のシヴィリィと、双角を持ったココノツに侮蔑と敵意すら籠った視線を向ける。
正市民が当然のように属領民に向ける視線だ。
しかしシヴィリィにとってはどうでも良い話だった。彼らは彼女の目的に入っていない。今下手にトラブルを起こす方が問題だった。
英雄の門まで戻ると、大勢の探索者達が賑わうように肩を並べている。しかしその中でも、シヴィリィが目的とする人物はすぐに見つかった。彼の長身はこのような時に便利だ。気の回る彼ならば、恐らくは迎えに来るだろうと当たりをつけていた。
「お帰りなさいませ、ええと――」
「――私よ。エレクは疲れたのかちょっと休んでるけど。一応、話は出来るから」
薄い笑みを向けるリカルダに頬を緩めて返し、シヴィリィはあたかもいつも通りであるかのように微笑んだ。その言葉には裏に何も存在しないかのようだった。
そのままシヴィリィは、言う。敢えて一瞬、言葉に迷うような素振りを付け加えて。
「ええっと……都市統括官、と会う予定なのよね? って言ってるんだけど」
「はい。話は通してあります。お疲れでなければこの後でも如何でしょう」
「うん、大丈夫」
そう言ってシヴィリィはココノツに目配せをした。勿論、こういう流れになるであろう事は事前に伝えてあった。
空位派のココノツにとっても、都市統括官シルケーの思惑が知れるのは良い事だ。シヴィリィがそちらへ赴くのを止めるはずもない。
だからシヴィリィはただただ、彼らの思惑を自分の手元で握りしめてやる事だけを考えていた。
エレクの言葉を、シヴィリィははっきりと思い出す。
――何処かの誰かの手を取るのは一つの手段だ。利用してやるのだって良い。
シヴィリィはココノツにああ言いながらも、空位派に所属する事など欠片も心にはなかった。無論、都市統括官に阿る気もない。
最終的に必要であれば何処かについても良いが。しかし例えば、誰かにエレクを救出するべく懇願するような真似は駄目だ。
主導権を相手に委ね、良い方向に物事が転がった事などシヴィリィには一度もない。無論、エレクを除いてだが。
事ここに至って、シヴィリィの胸中はシンプルだった。実にすっきりした気分だ。全能が一つの目的の為に注がれるのはある種の快楽だった。そこに迷いは訪れず、懊悩は存在しない。
そうして、皮肉にもエレクが傍らからいなくなってしまう事で、彼が言った大望にシヴィリィは指をかけていた。
思えばそう。シヴィリィが今まで抱いていた素朴な願望――良い生活をしたい、理不尽を敷いた相手を思い知らせてやりたい、栄光を手に入れたい。そうして、エレクと共にいたい。
その全てが、一つの大望によって終着するのだとシヴィリィはこの時確信してしまった。
――即ち、全ての相手が抗えない存在になれば良い。相手が理不尽であろうが魔族であろうが、全てを破壊できるだけの絶対者になれば良い。
それこそ、彼すらも。そうすれば、彼は何時までも私の隣にいるだろう。
論理の飛躍も、矛盾ももはやシヴィリィの思考では一顧だにされない。ただ彼女はエレクの導きに従うまま、それこそが是と信じた。
まるでそれが、唯一の答えだとでも言うように。しかし彼女にしてみれば、当然の帰結だったのかもしれない。
何故なら、半身を切り裂かれて生きていける人間などいないのだから。




