第七十一話『彼女の求めるものは』
シヴィリィは、まるで悩む所なんてないような物腰で言った。
『それなら――別に、何処の話を受けなくても良いんじゃないかしら。だって今のままでも上手くやれているわけだし』
ああやはり、という感慨だけが俺の胸中に落ちていた。落胆でも、失望でもない。シンプルな感想だ。
シヴィリィは現状維持を選ぶだろうと、そう思っていた。彼女は誰の手も取らない。大騎士教も、大国スレピドも、空位派もはたまた都市統括官の手も。
何故なら彼女には――致命的に欠けているものがあるから。それは俺との決定的な違いで、俺と彼女が全く別の人間なのだと確信させてくれた。
俺はココノツへと視線を向けて、軽く口を開いた。暫く、どう答えたものか言葉を迷っていた。
「ココノツ。返答は何時までに、という期限はあるのか?」
「……ないでありますがなぁ。しかし、日和見をする者は足元を見られるのは常の事では?」
風見鶏のようにくるくると回るような真似は止めろと言外にココノツは告げていた。俺の考え方とは少し違うが、間違いでもない。
「分かった。じゃあ大遠征までにでどうだ。シヴィリィから返事をしよう」
『――エレク?』
シヴィリィが胸中で、不思議そうに呟く。どうして今答えてしまわないのか、と言うようだった。実際、俺がただ合理的であろうというのなら、答えてしまっても良かった。
けれど、俺はシヴィリィに生きる術を教えてやると一度言ってしまったのだから。
例えそれが俺の信義に反する事であっても、契約は守らねばならない。お前が決めろと言っておきながら、酷い不純さだ。
「ココノツ。シヴィリィと話をしたくてな。少しの間、二人にしてくれるか。この大広場なら見逃さないだろう」
勿論、とココノツは首を縦に振った。何時もの彼女とは違い、その瞳には何処か胡乱なものが映っていたがあっさりとした性格は変わらないらしい。
ココノツが十数歩ほど離れると同時、気配がかき消える。俺はシヴィリィの身体から離れて、彼女に肉体を返した。同時に、彼女の唇から疑問が零れ出て来る。
「どうしたのよ。別に私は空位派にも、どこにだって入る気はなかったのに」
そこに後悔や懊悩の色はない。シヴィリィは心の底から、そう思っている。紅蓮の瞳は躊躇など一つもしていなかった。
だからだろうか。
俺は彼女が無性に遠い存在に見えた。
「――そうだな。一つ質問をしよう。詰問じゃなく、質問だシヴィリィ。
例えばお前が言っていたように、お前を馬鹿にした連中を見返すのにも、もしくはお前が裕福になってより良い暮らしを目指すのにも。何処かの誰かの手を取るのは一つの手段だ。利用してやるのだって良い。勿論、お前が言うように誰の手も取らないのも手だ。
それでどうして、お前は誰の手も取らない事にしたんだ」
「? 言ったじゃない、今のままで良いもの。エレクがいて、探索も上手くいってる。なら別に――」
「なら俺がいなくなったらどうする」
シヴィリィが表情を、途端に固くしたのが分かった。
まぁ少々急いた話をしているのは確かだ。しかし、その未来は必ず来るのだ。
今でこそ俺はシヴィリィと共にいてやれるが、いずれ身体を手に入れるか、それともこの亡霊の身体が消滅するか。何かしらの手段で彼女とは離れる事になる。
それはきっとそう遠くない未来だ。
はっきりと言うならば。シヴィリィには輝かしい意志はある、しかし不動の信念はない。彼女の意志は空っぽだ。意志を成就させるために、未来を描くための道具を何も持っていない。
だからこそ、あっさりと今のままを望むのだ。
それは致し方ないのかもしれない。今までが不遇すぎた人間に、今より更に未来を見ろというのは酷だ。
しかしシヴィリィがこの先を生きていくために、俺は彼女にその術を教えねばならない。紛れもなく彼女には未来があるのだから。
「それ、って……どういう……?」
「そのままの意味さ。俺はそういつまでもお前と一緒にいてやれるわけじゃあない。お前はいずれお前一人で生きていく事になる。人間誰だってそうだ。自分の望みを果たせるのは何時だって自分だけだからな」
シヴィリィは言葉もないようだった。
彼女にこうも手厳しい事をいうのは初めてかもしれない。少々良心が痛みながらも、しかし言うべき事は言わねばならなかった。
「良いかレディ、望みのない人生など灰色だ。人間は信念を持って望みに手を伸ばすからこそ生きていける。お前の望みが何なのか、その為には何が一番良いのか。少し考えてみろ。その結果誰の手も取らないのはお前の決断だ。俺はそれを尊重するよ」
「えっ、あ。どこ行くのエレク!?」
地面を軽く蹴って、亡霊の身体を浮かせる。シヴィリィに視線を向けたまま、親指で空に浮かぶ城を示した。
「偵察がてら、警戒されない程度に見て来るとするよ。考えるのに少し時間があった方がいいだろ。ココノツも近くにいる。危険はないさ」
流石に内部にまでは見に行けないが、どこか進入経路がないかくらいは探してやれるだろう。それによく考えればシヴィリィは出会ってから殆ど俺と一緒だったんだ。年頃の少女なら一人になりたい事の方が多いだろうに。
「……すぐ戻るのよね」
やけに不安そうにする彼女に頷きながら、ひょいと身体を浮かせる。
さて。シヴィリィに偉そうな事を宣ったのだ。俺も彼女に道を示してやれるくらいの収穫があれば良いのだが。
◇◆◇◆
果て、どうすべきなのだろうか。
シヴィリィ=ノールアートは、久方ぶりの孤独な沈黙に困惑を覚えながら空を見上げた。
やけに静かに感じる。今まではずっと二人であったと言っても、夜にはエレクが寝ている間に本を読み漁っていた。その間はずっと静かだったはずなのだが、今は何故か何時も以上に静寂を孕んでいるように感じられる。
「そういえば、それでも隣にはいたものね」
あたかも彼に話しかけるような素振りでシヴィリィは言った。その場にしゃがみ込み、彼の言葉を反芻する。
――お前の望みが何なのか、その為には何が一番良いのか。少し考えてみろ。
そういえばエレクと出会う前、パンもろくに買えないような賃金で死体運びをやっていた頃は、どうせ死ぬのならちゃんとした理由を持って死にたいとそう思っていた。ただの消耗品のように、死んでしまいたくないと。
ふむ、と唇を指で撫でる。
他にも色んな望みはある。完璧になって理不尽を押し付けた連中を見返してやりたいという思いもあるし、エレクの名を広く皆に知ってもらいたい、栄誉が欲しい、という思いだって本当だ。
けれど、
「一番大きな所は、叶っちゃってるんだもの」
暖かなベッドで眠りたい、柔らかなパンを食べたい、綺麗な服が着たい、笑い合える仲間が欲しい。
――何より、話を聞いてもらえる人が欲しかった。
しゃがみ込んだまま、地面を指でつぅと撫でる。煉瓦の間に出来た道筋を無意味になぞっていく。
エレクの言う事は分かる。シヴィリィだって全てに満足とは言わない。しかし、現状全てを放り投げても前に進みたいかと言われると、答えに詰まってしまった。
この誰しもが欲望を発露させかねない都市ですら、シヴィリィは欲望をかきたてられない。
ノーラも、リカルダも、ココノツも。皆良し悪しはあれど望むもののために迷宮に潜っている。あの今一好きになれないヴィクトリアという騎士もきっとそう。いいや迷宮に潜っている者は、少なからずそうあるものだ。
しかしシヴィリィだけは、その胸にある種得体のしれない満足を抱いていた。それが良きにしろ、悪きにしろ。
もしかすれば、自分はもうこれで良いと思ってしまっているのだろうか。今こうして迷宮の奥地にまで潜っているのは、惰性に過ぎないのだろうか。
シヴィリィはそう自問する。そういえば、こうやってまじまじと自分の思いを考えたことはなかった。私はエレクと共にいて、一体何がしたいのだろう。
そう、考えた。
――歴史にもしという言葉はない。ないが、もしシヴィリィ=ノールアートという少女がここで全てを満足して、ある種の諦念に身を委ねてしまったのなら。
大陸の歴史の道筋は変わっていたのだろう。
しかし、そうはならなかった。
シヴィリィは紅蓮の瞳を細めながら、空を見た。
もう数時間は経ったはずなのに、エレクは戻らなかった。
それこそ、丸一日が経過しても。




