第六十九話『竜人と王』
果たして、この世に化物は存在する。
かつてココノツは、一度地上で大淫婦ロマニア=バイロンを視界に収めた事があった。
いいや正確には、彼女が齎した『災禍』をだ。
数多の探索者や敵対者は彼女に近づくことすら許されず。全身から黒い血を吐き出しながら息絶えていく。あれはまさしく呪いに等しかった。
大淫婦という二つ名が、どういう行状から彼女に与えられたものかココノツは知らない。けれどその蠱惑的で侮辱的な響きからは一切かけ離れた脅威だけがそこにはあった。
その姿であって尚、迷宮の本体から分け放たれた分霊だというのだから、ココノツは嘆息するしかない。
あの日からだっただろう。ココノツは武威において正攻法というものを諦めた。
常軌を逸した魔導は血統により継承され、才覚は世界の寵愛を受けたものにしか与えられない。
そうして何より、同胞のオズワルドが言っていた言葉が重かった。
「あいつらは、壊れてるんだよ。常識か、倫理か、それとも理性か。言葉なんざどうでも良い。魔導や術を使う奴らにとって、それらは最低の敵だ」
オズワルドは確かその時も、酒を飲んでいた。もしかすれば酔っ払いの戯言かもしれないが、やけに重みを含んでいた。
「出来ないと決め込んじまえば、本来出来る事であっても出来なくなる。魔導はその最たるもんだ。諦めがそいつを潰すのさ。諦めるなよココノツ。こんな年寄になっても、諦めてねぇジジィもいるんだ」
確か自分は、その時問うたのだとココノツは覚えていた。
オズワルドは、何を諦めていないのかと。彼はくしゃりと皺を歪ませて、言った。
「自分が最高だって思える地点で死ぬ事さ。人生にそれ以外の目標がいるかぁ?」
この世界の壁は余りに多い。世界の君臨者たる四人の大騎士達。罪過と呼ばれた魔人達。魔導使いの中にだって、ただの探索者から超越者まで多くの者がいる。
その世界で、オズワルドは最高の地点に到達してみせると言った。彼の笑みは、ココノツにとって眩しいものだった。確か醜悪な竜の双角を身に着けた自分の頭を、優しく撫でて貰ったのだ。
けれど、自分は震えていた。罪過の在り方を見た瞬間に、ココノツの心は折れていた。
自分の想像を遥かに超えた化物と、怪物の戦争。
そう。互いに単騎でありながら、戦争としか形容できない災禍を生み出す騎士と罪過。
――自分はあそこまで到達出来ないだろう。
自然に、そう感じてしまっていた。
どうしても、自分の成長の先に彼女らの存在をイメージ出来なかった。一振りで地形を変えてしまうような武威を備える姿が想像できない。
ある意味それは、ココノツにとって変貌の機会だったのかもしれない。武の道を途絶し、隠密や他の道を探り始めた。ある種暗殺者と言っても良い道筋だ。
どれほど努力を尽くしても、自分の成長はどこかで止まる。必ず、到達できない地点がある。
例え才覚があろうと、血統を持たぬ者は二番手にすらなり得ない。
魔導を扱う為に必要なのは才覚だが、魔導そのものの強度は代々受け継がれ続ける血統にのみ現れるからだ。
――だから。シヴィリィ=ノールアートが例え才覚に恵まれたとしても、その限度は見えている。そのはずだ。
今回ココノツはただ、自らが見込んだシヴィリィを教導し、魔導すらも与えたという存在を改めてみておこうと思っただけだった。
それだけのつもりだったのに、
――どうしてあの日の記憶を、思い返してしまったのだろうか。
唐突に、化物という単語が頭に浮かんだ。あの日胸に宿った畏怖に近しいものが精神を焼いていく。
侮っているわけではない。力を抜いているわけでもない。罪過の一角たる聖女を打倒したのだと聞く。ならば相手に実力はあって当然だ。
とは言っても、指にかかるものくらいはあるだろうと思っていた。
槍を両手で握る。もはや槍を擲つかの如く突きを放ち、ごうという音を鳴らしながら空を抉った。
だがそれは当然のように、虚空を穿つ。それは承知だ。そのまま横なぎに槍を振るい、相手の背骨をへし折る覚悟すらもって叩き打った。
相手は素手。こちらを叩こうと思えば近づくしかない。そこを叩く。
「ココノツ」
けれど、相手はそんなココノツの思惑を見越したように。高速で動いているはずの穂先を足で踏みつけにしながら言った。
これはもう何度目か分からないやり取りだった。魔導も使わず、ただ素手の相手に翻弄される。先ほどまでと同じ身体であるはずなのに、どうしてこうも違う。
エレクが紅蓮の瞳で言う。
「竜人なら他にも手の打ちようがあるだろう。別に槍一辺倒にする必要もない」
「……ご教示感謝するでありますよ。ですがまぁ、あくまで手合せでありますから」
あっさりと竜人と呼んでくれるものだ。竜の角などという醜悪なもの、他人に見せたくもないというのに。まだ羊人と思われていた方がずっとマシだ。
ココノツは数度吐息を漏らした。強いのは分かっていたが、こうも届かないとは。
武威に拘っているわけではない。しかし得意の隠密も、相手が気を抜いているようにしか見えない瞬間にも見抜かれていた。
流石に御伽噺の王様そのものというはずもないだろうが。何者なのだ、このエレクという超人は。
「――」
踵が思わず地面を強く踏みつける。思わずココノツの口中で熱い呼気が漏れた。
本来なら、シヴィリィの傍らにこれほどの強者がついていたのは素晴らしい事だ。オズワルドも喜ぶだろう。エレクという名前も、彼女を担ぎ上げるには丁度良い題材だった。
一度オズワルドに報告し、引き合わせるべきなのは確実だ。
しかし、ココノツは唾を呑んだ。今ここで引いてしまうべきではないのでは、とそう思ったのだ。
「……エレク殿は、多くの魔導を知っておられるのでありますよね」
「それなりだな。必要なものはって言った方がいいか。探索用の魔導はそれほど知らんぞ」
「それを、貴方がシヴィリィ殿に教示したので?」
この世界において魔導とは、二つの学び方がある。
一つは、貴族らが受け継ぎ続ける血統継承。血を受け継いだものが、親より直接魔導を継承する。他の家に漏れる事がない、その一族だけの秘伝だ。
もう一つが、大騎士教会による教授。魔導自体は、社会を発展させるのにも、兵を作り出すのにも有効な手段だ。だが得られる恩恵は、生涯に一つだけ。そうでなくてはならない。
それ以上の力の保有を、大騎士教は許容しない。ゆえにこそ大騎士教は、自らが与える恩恵を厳密に管理している。
けれどシヴィリィが複数の魔導を使用しているのを、監視の中でココノツは見た。もしそれが、本当にこのエレクという人物から齎されたものであるならば。
それだけでシヴィリィに手を回す意味になる。
ココノツが唇を閉じたのを見て、エレクは指先で顎を撫でながら言った。
「そうだ。言っとくが、オレが善人だからってわけじゃないぜ。むしろ悪人だよ。オレはオレの都合のために、シヴィリィに魔導を教えているわけだ。オレは自分の身体が欲しい。彼女は生きるのに力が必要だった。その交換さ」
自嘲するようなエレクの呟きと表情に、ココノツは動悸を強くした。槍を握る手の平が熱くなる。
言動を聞いて、思う。
もしかすればもしかすると、エレクは自分の利用価値がどれ程のものかまだ分かっていないのではないか。いいや実際、彼女らは外界と関わる機会は殆どなかったはず。
ココノツが監視を始めてからも、目立って交流があったのはあの傭兵二人だけ。組織的な接触は殆どなかったはず。
それもそのはずで、彼女は単なる属領民。第六層の事で多少目立ちはしたが、その活躍を疑う者はまだ多い。大騎士教に見いだされているようだが、それも彼女の魔導に目を付けての事だ。
――彼女ら。シヴィリィとエレクの本来の価値に気づいているのは、今自分しかいないのではないか。
であれば、するべき事は一つだ。
「――エレク殿。それにシヴィリィ殿も、折り入ってお話が。お時間は大丈夫でしょう?」
ココノツは槍で軽く地面を叩いてそう言った。竜の瞳が、煌々と輝いてすらいた。




