第六十四話『白騎士のエスコート』
街中を、紅蓮の瞳が撫でていく。視線は目まぐるしく動き回り、時に弾んでいた。
それはきっと、人間が本来から持つ好奇心に突き動かされた動作だ。初めて見る光景、初めて見る世界は自然と人の視線を四方八方にうろつかせてしまう。
何せシヴィリィだけでなく、俺ですらそうだった。
第六層と変わらず、地下だというのに天は見通せぬ程に高い。相変わらず迷宮都市アルガガタルとは圧倒的に隔絶した空間だと告げている。
しかし言わば、第六層との共通点はそれだけだった。
石造りの街道を歩く人々は余りに多く、郵便屋が走り回り、荷物をもった男達が仕事に精を出している。第六層のような寝泊まりするだけの都市ではなく、ここには確かな生活空間が姿を見せていた。
勝利の騎士ヴィクトリアは平静そのものの顔で口を開いた。
「気を付けてください。零落の聖女――カサンドラはある種の放任主義でしたので第六層は世界としては未完成なものがありました。大淫婦ロマニアは快楽主義者であるものの、その点に関してはカサンドラと正反対です。
彼女は、自らが知る快楽を皆に味わう事を強制する。空気にあてられないでください」
亡霊の身体では分からなかったが、確かにシヴィリィの身体に纏わりついている魔力がぼぅと揺らめいている気がする。活性化というより、軽い暴走にも見えた。どうやらこの階層の空気には人の精神を高揚させるものがあるらしい。
シヴィリィがヴィクトリアに物怖じせずに言葉を発せたのも、そんな空気の所為だ。
「ここって、どんな所なんでしょう。希望の国だけど、狂気の国なんですか?」
「ええ。そうですね、しかし百の言葉で語るより、一度目にした方が早い事もあります。どうぞこちらへ」
ヴィクトリアはシヴィリィの手を離さないままくいと引いていく。その足取りには欠片の迷いもなかった。
「あ、あの。まだ来てない他の人は!?」
「大丈夫です。あの扉から入る時一緒でなければ、出る場所は毎回違うのです。合流点は別に定めていますよ」
本当に大丈夫なのかそれは。という事はココノツはたった一人で見知らぬ人間五人に囲まれている事になるのだが。
あいつ意外と対人能力が低いからな。少々心配になってきた。というよりそれなら、全員で一緒のタイミングで跳びこめば良かっただろうに。
シヴィリィが同じような事を問うと、ヴィクトリアは作り込まれた笑みで言う。
「二人でなければ、話せない事もあるでしょう。まぁ、それは後程」
「は、話せない事?」
蕩けるような声でそう言いながら、彼女はシヴィリィの手を引いた。殆ど引っ張りまわされるような恰好だ。
「この国はまさしく混沌の中で淫猥と欲望を満たし続け、繰り返し続ける国です。街並みを見て、ある程度は分かりますか?」
ふと見てみれば、確かに。
市場も賑わってはいるが、店舗を見渡してみると明らかに娼館や酒場が多い。まだ太陽が照っているというのに、多くの女達は脱ぐのと着るのとの境目のような恰好でうろついていた。
いいやそれは娼婦だけに限らない。普通に暮らしているような女ですら、露出の多い格好ばかりだった。俺も女は好きだが、こうも堂々とされると逆に視線に困る。
「だが、第六層の戦争を続けている光景よりはマシだがな」
思わず呟く。確かに異常と言えば異常だが、この程度は発展した歓楽街なら見ない事もない光景だ。
第六層はそのようなものではなかった。魔女と巨人が死に狂い、誰もが死に絶えるまで戦役を続ける地獄のような風景が繰り広げられていた。
それと比べれば第七層は、ずっと安穏とした情景と言える。
「でも、こう。何か変じゃない? 感覚だけど皆目の焦点が合ってないって言うか」
「よくお気づきになられましたね。その通りです。彼らの多くは、もはや欲望を満たすだけの入れ物です」
入れ物。その表現に食いつきヴィクトリアを見ると、そんなわけもないのに視線が合った気がした。
不意に彼女が、街を歩く女の一人を指さした。
ふらりふらりと、焦点が合わない視線で通りの奥を見ている。
「例えば彼女。もはや彼女は魂の大部分を食いつぶされています。カサンドラのように『堕落』させたのではありません、魔力の浪費が原因です」
なるほど。そこまで言われて合点が言った。第七層に漂う異様な空気。これはここに住まう人らの欲望を活性化させるためのスパイスなのだろう。結果彼らは酩酊するように欲望を浪費し、その魔力を吐き出していく。
「過去には随分と問題になったようですよ。探索者の中にも、第七層に移住する者が多く出たそうですから。何せ欲望を満たすのにこの都市ほど満ち足りた場所はない。言わば――ここは人を取り込む迷宮の檻なのです」
言いながら、ヴィクトリアは歩を進める。通りはより大きくなり、人はより多くなっていった。
手を引かれたまま、シヴィリィが唇を跳ねさせるようにして問う。
「あの、前からお聞きしたかったんですが」
「どうぞ」
「その……罪過の人達は、どうしてこんな事をしてるんでしょう。どうして出来る、というか。侵入されない為なら、別に普通の迷宮でも良いわけですよね」
「難しい問いですね。私も全てを承知しているわけではありません。が――敢えていうのであれば」
ヴィクトリアは一拍を置いてから、シヴィリィを振り向いて言った。
「夢を見ているのではないでしょうか」
「夢、ですか?」
ええ。とヴィクトリアが頷く。シヴィリィの戸惑ったような表情を真っ向から見つめて、その美麗な眦をつりあげた。彼女の独特の存在感が、その言葉すらも彩っている。
「ええ、夢です。罪過と呼ばれる彼女達は、五百年前の夢を見続けている。私も血が濃いもので、よく覚えているのですよ。時折今が現実なのか、それとも夢なのか分からない時があります。
そうして、彼女らが持つ王権は奇跡そのもの。王権があるからこそ彼女らは世界を作りあげられる。カサンドラも保有していたのでは?」
そう言われて、果てと首を傾げる。
罪過の者が王権を保有しているとは確かに聞いていたが、神殿の中にはそれらしい物は何も無かった。というより調べる時間もなかったというべきか。
シヴィリィがふと指輪に視線をやった。それもまぁ、カサンドラが保有していたものには違いないが。魔力の量としてはさほど感じない。
その指先が、不意に絡み取られた。白く細長い、ヴィクトリアの手だ。大きな瞳がじぃと顔を近づけて指輪を見ていた。
「そうですね。カサンドラの魔力の気配がしますが……こればかりは調べてみないと分かりませんか」
瞬間、ぼうとヴィクトリアの魔力が揺蕩った気がした。
意識が極端なほどにシヴィリィに向けられている。
――まるでそれは、獲物を前にした肉食獣のような鋭敏な気配。有り余る熱量が、その身体から発していた。
『――――えッ。何!?』
咄嗟に、シヴィリィの身体を借りてその場から跳びのかせる。
敵意ではない。だからこそシヴィリィは反応出来なかった。だがその捕食にも近しい強烈な気配が、俺に彼女の身体を振るわせていた。
頬から汗が伝う。生前は、こんな事はそうなかったはずなのだが。目線を強めてヴィクトリアを見ると、彼女は第五層で出会った時と同様、くすりと微笑をうかべた。心臓が跳ね上がる。
「冗談です。中々出て来て下さらないものですから。お会いしたかったですよ」
「……オレは別に会いたくなかったが」
「おや、意地の悪い事を仰るのですね。私はお話したい事が幾らでもあるのですが」
意地の悪いのはどちらだ。そう問い返そうとしたが、態々俺をつりだしてきたんだ。話があると暗に言っているのだろう。
「ではどうでしょう。この世界の要衝とも言うべき点もご案内しますよ。それまで私に付き合っていただくのならば構わないでしょう?」
ヴィクトリアはそう言って、手を差し出した。
「――」
何故だろう。確かに俺は記憶を思い出せず、ヴィクトリアが俺に対して何かしらの記憶を持っている以上、アクションを起こしてくるのはおかしな事ではない。しかしこうも執着されるような真似を、生前の俺はしたのだろうか。それも五百年前の四騎士に対してだ。
一瞬逡巡をしながらも、しかし選択肢はない。
『……ほどほどにしてね、ほどほどに!?』
「分かった分かった」
シヴィリィに答えながら、ヴィクトリアの指先を取る。
「ではエスコートしてもらえるかな、レディ」
「ええ、喜んで。――どうして我々が、この都市を陥落させられていないのか。直接お見せしましょう」
頬を揺らめかせるようにして妖艶な笑みを見せながら、ヴィクトリアは言った。




