第六十二話『昔々の御伽噺』
迷宮の第四層。
不思議なものだ。本来は血と命を取引する場所であるはずなのに。俺は迷宮に入り込む事に、一種の安堵すら感じ始めていた。
それは俺だけではなく、シヴィリィもまた同じなのかもしれない。
シヴィリィにとって、外にいても迷宮にいても、周囲は敵だらけだ。彼女は迫害されるために存在し、その容姿は敵を作る事に事欠かない。
けれど、迷宮の外と内で異なるただ一点がある。
――迷宮では敵は殺しても構わないと言う事だ。
「――『魔弾』」
シヴィリィが短く詠唱を唱える。魔の弾丸は、ぎゅるりと空中を巻き込み飛び跳ね、哀れなゴブリンの頭蓋を打ち砕いた。脳漿と黒い血が、何処までも跳ねていった。湧き出た魔力が、そのままシヴィリィに吸収されていく。
今日はノーラはいない。彼女はまだ戦役の騎士に連れられたままで合流出来なかった。リカルダは言わずもがな。要するに今日は一人――のはずだったのだが。
「ほほ~。いやいや、それが……新しく覚えた魔導という奴でありますか」
ココノツは一つに纏めた黒髪を迷宮で揺らして、槍でこんこんっと地面を突いた。
別に呼び出したわけでも、むしろ連絡を取ったはずもないのだが。シヴィリィが迷宮に入り込もうと思った瞬間には不意に英雄の門に現れたのだ。
というより、無事だったんだなこいつ。第六層では唐突に消えた癖に。
「ええ、何かこう。凄いでしょう!」
「何かこう、凄いでありますよ!」
駄目だ。ココノツと一緒にすると影響でも受けてるのかシヴィリィが馬鹿になる。
正直、丸一日迷宮に潜っていなくてはならないのだからパーティがいるのはありがたいのだが。もうちょっと会話がマシにならないだろうか。魔力だって無尽蔵ではないというのに。
そう思いながらも、俺はシヴィリィに口出しする気にはならなかった。
どうにも、ココノツと話している時のシヴィリィは楽しそうなのだ。ノーラやリカルダを相手にしている時、俺と話す時とも違う。明らかに朗らかな笑みを見せる。
シヴィリィの境遇を振り返れば、それも致し方ない事なのかもしれなかった。
今まで彼女には、友人と呼べる人間がいなかったのだ。感情を共有できる人間など、得た事すらないかもしれない。
何だかんだと言っても、ノーラやリカルダは正市民だ。本質的な部分で、シヴィリィの境遇を理解する事は出来ない。勿論、俺自身も。
けれどココノツは、その頭に生えた双角を見れば分かる通り紛れもない属領民。年齢もそうシヴィリィと変わらない。
笑顔を浮かべ、他愛ない話に華を咲かせ、話題を共有する。そんな日常の一面を、シヴィリィはココノツ相手に初めて味わっているのなら、それを押しとどめるべきではないだろう。
それにカサンドラの指輪のお陰で、魔力の消費は抑えられている。少しくらいなら構わない。
「ふぅ~むしかし不思議でありますなぁ」
「不思議って?」
「通常、魔導を習得できるのは一人一つのみでありましょう」
そういえば、ノーラだったか誰かがそのような事を言っていた気がする。
本来は剣や弓といった武具のように入れ替えて使用するはずの魔導を、現代の人間は一つしか習得出来ないのだと。
ココノツは僅かに、見た事もないような煌めきを黒瞳に浮かべて問うた。
「――シヴィリィ殿は、一体どうやってその魔導を覚えたのでありますか?」
僅かに、違和感があった。今までの無邪気さや、ただの好奇心からの質問というよりも。ココノツの言葉には何かしらの思惑が見え隠れしているように見えたのだ。
とはいえ、それは一瞬で掻き消えてしまう程度のものだった。シヴィリィが言葉に迷いながらも応じる。
「ええと、もう一人の私に教えてもらったのよ」
「それは、あの。第六層の男でありますか。ふぅむ、大人物でありますなぁ。名前も昔話に出て来るでありますし」
「昔話?」
シヴィリィが聞き返したように、俺もその言葉には声を漏らしてしまった。とはいえ、ココノツには俺の言葉は聞こえていないのだが。
ノーラやリカルダの反応を見る限り、俺の名は大して広まっていないか、もしくはレリュアードの奴が言っていたように『魔王』なぞという悪名に塗れているはずだ。
しかしココノツはそんな素振りを欠片も見せずに言う。
「御伽噺の類でありますよシヴィリィ殿。自分の故郷は辺境も辺境でありまして。そういった話だけが余興になるのであります」
迷宮の第四層から第五層に降りながら、ココノツはぽつりぽつりとシヴィリィの反応を伺いながら言う。
「昔々、まだ大陸に五十以上の国があった時代でありますな。偉大な王様がいたのであります。王様は小国の貴族だったにも関わらず、祖国を救うために立ち上がり、数多の国を自分の支配下としました。人々は偉大な王様の下、平和を享受したのです。
――けれどある日、王様は消えてしまいました。殺されてしまったのか、それとも別の大陸へ渡ってしまったのか。強大であるがゆえに恐れられ、人々に追放されてしまったという話もあるであります」
本当にそれは昔話、というより御伽噺の類だった。
よくある形式に押し込まれた取るに足らないお話。しかし唯一、かつて五十以上の国があったというのは俺の記憶と同じだったが。
頬を汗か何かが伝っていった。何故かと言われると、少し困る。ただココノツがこの時ばかりやけに神妙な顔をしたからかもしれなかった。
第五層に足をついて、ココノツは苦笑を漏らしながら言った。
「……ここからは蛇足なのでありますが。王様がいなくなった所為で、王様に忠実だった人間は次々に追い出されたのであります。両腕と呼ばれた人間も、王様が誇った軍勢も、王様が愛した民達も。
――それこそが今の属領民であり、我々は偉大な王の忠臣なのである! 王はいずれ帰還し、我々に寵愛を与えるだろう! ……なんて、言わば自分達を慰める為の逸話でありますよ」
迫害され、抑圧される民達が、自分達の苦しい現況を肯定する為に物語を作り出すというのは実際よくある話だった。珍しくもない。
ココノツは言いながら自嘲をした。しかしその語り口調に熱が籠っていたのは、彼女は物語に過ぎないと思っているのに、思い入れもまたあったのかもしれない。
シヴィリィが、不意に俺を見る。その紅蓮が俺に問うていた。何か記憶はあるのかと。
俺は首を横に振ろうとした。したのだが、ぴくりと、瞳が跳ね上がる。
思う所があったのだ。
かつて俺が殺した魔族であるはずのレリュアードは、悠々と迷宮の外で君臨している。だというのに、俺と共にあったはずの聖女カサンドラ、そうして魔女侯エウレアと巨人将軍ガリウスは迷宮の中で貶められていた。
――何故だ?
彼女らは最期まで、それを語らなかった。いいや、語れなかったとすら言って良い様子だった。
ココノツが語った御伽噺には俺の失った記憶が、影のようにひっそりと忍び込んでいるのではないのか。そんな事すら思い浮かび、瞳が固まる。
「でも。私は良い話だと思うけど。救いがない物語より良いじゃない。それに私物語って殆ど知らないし」
シヴィリィが、数秒間を開けてから言った。ココノツは再び苦笑を見せながら受け取って、そうでありますなぁ、と簡単に応じる。
けれど、ココノツの言葉に反応したのはシヴィリィだけではなかった。かつりと音がして、第五層に俺達以外の人間がいる事を不意に伝える。
声がした。透き通るようで、それでいて心臓を鷲掴みにする声だ。
「――ええ、私も結構な物語だと思います。良い話ではないでしょうか」
亡霊の身体が、僅かに歪んだ。それは第五層の奥から、入り込んできたばかりの俺達をはっきりと直視していた。待ち受けていたのか、それとも偶然だろうか。しかしココノツとシヴィリィの姿を、あちら側は平然と受け入れていた。
白色の鎧。勝利の騎士。――ヴィクトリア=ドミニティウスが笑みを浮かべながら、そこにいた。
「第六層を、踏破されたのでしょう。喜ばしい事です。本当に」
微笑。それ以上の感情を何一つ含まない表情で、彼女は言った。




