第五十七話『五百年前より至れり』
「エレク……」
シヴィリィの声を聴きながら、軽く頷いた。応接室の柔らかいソファが彼女の身体を支え包み、そのため息すらも呑み込んでしまいそうだ。
案内された騎士教会の一室は、驚くほどに清掃が行き届いた。最近泊まる部屋は大抵埃が積もっていたり軋んだりするから感覚が麻痺していたが、やはり清潔な場所は良い。まさしく心が洗われる気がした。
しかし問題は部屋では無く、シヴィリィの身体にあった。彼女の紅蓮の瞳がゆっくり手元におりる。
その両手を繋ぐ様に分厚い鉄製の手枷が噛み合わさっている。その手枷の影響か、シヴィリィの身体から驚くほど微弱な魔力しか感じない。過去にはこういったものは無かったのだが、魔力を抑え込む機構を有しているらしかった。お陰でシヴィリィの『体質』も影響をしていないのだろう。
絞り出すように眉間に皺を寄せてからシヴィリィが言う。
「私が間違ってたわ……ッ!」
「そうだな。完膚なきまでにな」
何なら部屋の窓にもしっかり鉄格子ついてるからな。部屋の扉も開かないし。監禁。いいやギリギリ軟禁だろうか。騎士教会に案内してきた女は、この部屋に通すとシヴィリィにあっさり手枷を付けて、そのまま部屋から出て行ってしまった。
いや、大した抵抗もせず手枷をつけられるシヴィリィもシヴィリィなのだが。
「こういうルールなのかと思ったのよ! こう、慣れてないからこういう場所!」
「俺が知る限り手枷を付けなきゃならないマナーは存在しないな」
「くっそぅ……。こんな事なら焼きたてのパンちゃんと食べて来るんだった……! 私の馬鹿!」
悔やむ所そこでいいんだろうか。
シヴィリィはなんというか。本当に緊急時以外は残念だ、色々と。どうしてこんな奴に一種の美しさすら感じてしまったのか。自分自身が悔やまれる。
「でももしかしたら、こんな良い所なら凄い美味しいパンが出て来るかもしれないわ。それなら私の勝ちよ!」
「お前は何と勝負をしてるんだ!?」
頭が痛くなってきた。
『大陸食らい』と、第六層という困難を踏み越えた影響だろうか。シヴィリィの極端な自信の無さは何処か薄れ始めていた。反面、元来の明るさと陽気さが全面に顔を出し始めている。それが良いのか、悪いのかははっきりとしないが。
魔導はよくも悪くも本人の資質と在り方にその効果を左右される事がある。もしかすれば、明るくなることが悪影響を及ぼす事もあるのだ。
「……」
いや、悪趣味な考えだった。シヴィリィが手枷をがたがたと振りながら表情を忙しなく動かしている姿を見れば、そんな事は到底考えられない。
地べたを這いつくばって、文字通り死に伏していた彼女が、こうして笑っていられるのならその方が良いに決まっている。
まぁ今はその彼女の所為で軟禁されているんだが。
シヴィリィが一頻り騒ぎ終えた頃だった。
こん、っと穏やかな音が扉を叩く。重厚な扉に相応しくない控えめな音だったが、こちらの返事を待たず相手は姿を見せた。
一瞬、亡霊の身体がざわめく。不意に呼気を吸い込むと、冷たい感触が喉にあった。亡霊の身体の癖に、冷たさだけは異様に感じるのだ。
「失礼をします。――こんにちは、お嬢さん。急にこんな所に連れて来られて、驚いたでしょう」
「え。ええ……まぁ驚いたのは間違いないんだけど」
年の頃合いは三十の後半。優男といった風体だった。鈍い銀色の衣服に身を包みながら、片眼鏡をくいと上げる。その瞳がまじまじとシヴィリィを見つめていた。
が、反対に俺もその男を見つめていた。四騎士や聖女カサンドラと出会った時はまた違う感触があった。魂がうずくのではない。ただただ、こいつに関して記憶が動いていた。本能がぼそりと告げる。
いやしかし、理性が拒絶した。そんな馬鹿なと、そう語る。
「レリュアードと申します。本日は、お話をお伺いしたく……」
柔らかな物腰だ。しかしシヴィリィが異様な手枷に縛り付けられている所には何も言及しない所を見るに、こいつもこれは承知済みなのだろう。
善良かと問われれば、首を傾げる。
「いやいや。なんじゃその枷は、おかしいじゃろ。罪人というわけでもあるまいに」
むしろその後に入って来た小柄な少女は、呆れたように言った。薄い肌の色をしながら豪胆に話す少女は、まるで可憐な花のような儚さと、雑草の如きしたたかさを両立しているように見える。
「しかしフェオドラ様。貴人の前で属領民の魔導使いを形式上だけでも自由にさせるわけにはいきますまい」
「たわけ。大騎士教の剣がなぁにを寝ぼけた事を言っておるのじゃ。魔導使い一人取り押さえられないとは聞いておらんぞ。解いてやれ」
レリュアードと名乗った男は一瞬皺を深めたが、しかし拒絶する気もないのかあっさりとシヴィリィの手枷に指を触れる。そうして数度指で手枷を叩くと、かちりと音が鳴って手枷が外れ、目の前のテーブルの上に手枷が落ちた。
「うむ。流石に手枷を嵌めた者と話す気にはならん。娘、念のため聞くが名前は?」
フェオドラと呼ばれた少女は小柄な身体をソファにぽふんと預け、肘置きにそのまま肘を突きながら寝転がるように問うた。何だかよく分からないが、随分とちぐはぐな二人だな。
男は優し気だがどこか杓子定規で、少女の方は粗雑だが奇妙な気遣いがある。しかし共通しているのは、どちらも正市民からすら一線を画した身なりをしているという点だ。
余計に嫌な予感がしてきた。生前も、権力者と名乗る連中が関わってろくな目にあった覚えがない。
「……し、シヴィリィ=ノールアートです」
「ノールアート? ああ、なるほど。妾はフェオドラじゃ。今はそれで納得せよ。そなたを呼んだのはこの眼鏡じゃが。妾も聞きたい事があってのう。同席と相成ったわけじゃ」
全くもって、話は全て相手のペースで進められてしまうらしい。分かってはいたものの、客人を迎え入れるという気配ではない。話を聞いてくれるという分、まだマシかもしれないが。
いいやしかし一点、そんな事よりも気になる事があった。じぃと、レリュアードという男を見る。やはり、似ている。
彼はソファに座る事なく、立ったままシヴィリィに視線を向けた。
「シヴィリィ=ノールアート。貴方は迷宮探索中。記録簿に記載されていない新たな魔導を手に入れられたとか。我々に、それがどういったものか教えて頂きたいのです」
「新しい魔導……?」
「ええ」
レリュアードはこっくりと頷いて言葉を続ける。
「全ての魔導は、我々大騎士教が管理すべきもの。迷宮より新たな魔導が持ち帰られたのならば、それを聞くべき義務と権利が我らにはあるのですッ。どのような事が出来るので?」
シヴィリィがごくりと唾を飲んだ。レリュアードの瞳は、炯々と輝き相手を食い入るように見つめている。温厚そうな男の顔は消え、全てを呑み込んでしまう巨獣の雰囲気すらあった。
「答えに気を付けろよシヴィリィ。変な事を言ったら、何をされるか分からない」
実際、それだけの気配がレリュアードにはあった。武具も持っていないというのに、一歩でも動けば相手を制圧してしまえるような威圧感が全身から満ち溢れている。
シヴィリィは緊張感に慣れていない素振りで、唇に指を当てて言う。
「……ぱ、パンの生地を切ったり。生地に穴を開けたり」
「パンの生地を切る」
「生地に穴を開ける」
レリュアードとフェオドラが順に言った。
俺が悪かったシヴィリィ。確かに下手な事を言うなとは言ったが、そういう意味ではない。
「後は小麦粉を吹き飛ばしたりとか……」
「おい待てシヴィリィ。それ以上はよせ」
相手が不憫になってきてしまった。違うんだ。何時もはこんなに残念じゃないんだ。今日はちょっと自分でパンが焼けて舞い上がってるだけなんだ。
フェオドラが笑いを堪えながら口元を手で押さえ視線を背ける。酷く意地悪い顔が浮かんでいたのは俺の気のせいだろうか。しかし反面、レリュアードは冷静だった。くいと片眼鏡を上げながら問う。
「失敬。聞き方が悪かったようですな。その魔導は、何という名なのです」
踏み込むように瞳が開く。
シヴィリィがあっさりと唇を、開いた。
「――『破壊』です、けど」
レリュアードの瞳が、見開いた。瞬間、その奥に光るものが見える。
鈍く、それでいて刺し貫くような光。
「なるほど、なるほど」
軽く片眼鏡をくいと上げる。唇の端をレリュアードが噛んだのが見えた。
そこでようやく、ああ、俺の記憶違いでは無かったとそう思ってしまった。その唇を噛む癖に、大いに見覚えがあったからだ。理性が有り得ない事だと告げていても、時に理性より本能の方が正しい事を告げる事もある。
レリュアードが唇を開く。
「シヴィリィ=ノールアート」
白くよく並んだ歯が見える。つりあがった口角は、冷笑的にすら見えた。
名は違う。着ている者も違う。身分も違う。しかしこいつは――。
「我々に、協力を頂きたい」
――五百年前にも生きた、魔族だ。




