第五十五話『安穏は常に脅かされ』
カサンドラや魔女、巨人らと別れて丸一日が経過した。その日はシヴィリィと出会って以来、久々に暇な一日だった。
ノーラは迷宮から帰ってこない。リカルダは都市統括官の別邸に行ったまま。ココノツは行方不明。まぁ死んではいないだろうが。
少なくともリカルダが帰らない以上状況は動かず、ギルドが出来るのかもさっぱり分からないままだ。
ただ待つだけの時間、久しぶりにシヴィリィと二人きりで過ごす事になった。思うと最近は随分周囲が騒がしかったな。
「ちょっと見て! エレクこれ見て!」
シヴィリィは属領民ギルドハウスの厨房を借りて、何故かパン生地を練っている。朝方のギルドハウスなんて誰もいないものだから、彼女は伸び伸びと過ごせているらしい。
「『破壊』を使うとパン生地が凄いよく切れるのよ!」
「お前もしかして馬鹿だったのか?」
うわ本当に切ってやがる。そりゃあ破壊する為のものだから、ごく僅かに使用すれば切断と似た事は出来るだろうが。
シヴィリィの手元ですぱ、すぱ、とパン生地が切り落とされていく。
勿論遊びでやっているわけではない。彼女が『破壊』を今後付与礼式としても用い続けるつもりなら、少しずつでも訓練してやる必要があった。最初は指先からと思ってはいたが。
パン生地を切り分けるのに使われるのは少々複雑だ。
「馬鹿じゃないわよ馬鹿じゃ。でもほら凄くない!?」
「分かった分かった。ならいっそこのまま次だ。身体が忘れない内にやっておけよ」
「ええと……じゃあ『魔弾』」
シヴィリィが丸くこねたパン生地に向けて詠唱すると、そのまま生地の真ん中にぐしゃりと穴が開いてドーナツ状の物体になった。うん。良い精度の魔力コントロールだ。
魔導なんてここ一か月の間に覚えたシヴィリィに、本来ここまでの精密なコントロールは出来ない。それを可能にしているのは第一には彼女の努力もあるが、身に着ける指輪の影響が大きかった。
カサンドラの遺物。五百年前の残り香だ。俺が持てない以上彼女に持ってもらう他ない。何の役にも立てないよりはこちらの方が良いだろう。
カサンドラはあれだけ莫大な魔力を緻密にコントロールし続けていた傑物だ。魔導具には、本来の持ち主の習性も刻み込まれるもの。カサンドラ程とは言わないが、その遺物の影響を受ければシヴィリィにも軽い魔力コントロールくらいは出来るようになる。
「ちゃんと行使出来てるな。この調子ならその内迷宮でも使えるんじゃないか」
「ふっふっふ。もう一つもちゃーんと覚えてるわよ。『爆散』!」
瞬間、比喩でなくパン生地が爆散した。同時に傍の小麦粉も跳ねて、辺り一面が真っ白に噴き上がる。
「いや何やってんだお前!?」
「違うのよ!?」
「何が違う!?」
結論、何も違わなかった。シヴィリィは涙目になりながら小麦粉を箒で掃いている。流石にこれを手伝ってやる術は俺にない。
しかし何処までも呑気で、平和な光景だった。ふと思う。
もしもシヴィリィ=ノールアートが普通の生まれで、普通の少女だったのなら。こんな日常を過ごしていたのではないだろうか。
日々は畑や都市に働きに出て、手が空いたならパンでも焼いてみる。大きなイベントは起こらなくても、細やかな幸せはあったのではないか。
それが今では迷宮で魔物を相手に殺し合いをして、都市の人間の侮蔑の視線を受けながら行動せざるを得ない。そんな人生しか彼女は選べなかった。
不意に、カサンドラの言葉を思い出していた。
――わたくしは悪い女なのですよ。地獄に落ちるべき女なのです。
きっと俺も、地獄に落ちるのだろうなとそう思う。自分の思惑の為に、他に取りえる手段のないシヴィリィを利用し続けているのだから。
「エレクエレク! 見ていて!」
「はいはい、何だ」
飛び散った小麦粉の整理を終えて、シヴィリィは再びパン生地にチャレンジしているらしい。それをドーナツ状にしたり、彼女が好きな丸いパンにしたりしてそのままパン窯に放り込んでいく。
先ほどのトラブルは別として、やけに手馴れているように見えた。
「よーし、完璧。後は待つだけね」
得意げに胸を張るシヴィリィに、ふと思って聞いた。
「シヴィリィ。そういえばお前、迷宮に来る前はどんな生活を送ってたんだ」
「ここに来る前……?」
第六層での一件で、俺は記憶を一部とはいえ取り戻して、自分がどういった人間だったかを思い出した。嫌な所も多かったが、自分の過去というのは案外大切なものだ。
だからこそ逆に思った。シヴィリィは果たして、どんな生涯を歩いてきたのだろう。
「どう、って言われても……。普通よ? 普通の属領民」
使った道具を片付け終わって、パンが入った窯にちらちら視線をやりながらシヴィリィが答えた。
「良い事は少なかったし、正市民には虐められたわ。食べ物は味もしないパンとか野草とか」
多少考え込みながらも、やはりそれ以上の事はないと言うようにシヴィリィは椅子に腰を下ろす。
「美味しいものなんて知らなかったし、甘いお酒に舌を付けた事もなかった。だから今は幸せよ。寝ても覚めてもね」
「……そりゃあ良かった」
「逆に、エレクは生きていた頃どんなだったの? 魔女や巨人の人たちとの事は聞いたけど、女の子に言い寄られたりしたのかしら」
シヴィリィの問いかけに応じて頷く。記憶にある限りのかつての自分の姿を、思い描いた。
そうしてゆっくり唇を開き、目を細めて言う。
「クソ野郎だったな」
「えっ」
「クソ野郎だ。ああはなりたくない」
「え、えぇええ!? な、何で!?」
シヴィリィが動揺したのか、言葉を探しているのか、何とも纏まりのない声を出した。
まさか俺が聖人君子だったとでも思っていたのかこいつ。そんなわけもない。
そうだな。例えばシヴィリィが言うように、女に言い寄られた事も確かあった。相手と面識はあって、それなりに関わりのあった間柄だったと思うのだが。
顔や瞳がどうしても思い出せない。しかし彼女が俺に想いを寄せてくれているのは知っていた。戦役の最中、彼女は確か俺の寝所に来たのだ。何か震える声で言っていたのを覚えている。
「それでかけた言葉と言えば。明日も早い、早く寝ろ、だ。頭の中が戦争でどうにかなってたんだな」
「……何となく複雑ね」
シヴィリィが言葉を唸らせながら眉を下げた。
まぁ、勿論それだけではない。口には出せない事もあの戦争では行ったし、善行とはとても言えないものを積み上げた。そういう意味ではまさしく、死んだとしても仕方がない人間だった。
そう思ったと同時、そういえば、と頭に浮かんだ。
俺は決して善人ではなかった。生前にも、似たような思いを持っていた記憶が僅かにある。
ならば俺は何故、生きようとしているんだ。五百年も世界に縋りつき、亡霊に成り下がってまで復活を試みているんだ。
――何か。成し遂げなければならない何かがあったような。
そう、思った時だった。パン窯からシヴィリィが丁重にパンを取り出し、その音に紛れるようにノックが鳴った。
まだ昼前。それに属領民のギルドハウスにノックをするような輩はそういない。マスターはシヴィリィに厨房を貸してそのまま寝てしまった。
「……はい、どうぞ?」
シヴィリィが促すように厨房から言った。
数秒して、よく軋む木造の扉がぎぃ、と音を立てて開かれる。
「良い匂いねぇ」
滑らかな声だった。鼻歌でも歌っているかのような軽やかさで、彼女はギルドハウスの中に入ってくる。長い頭髪と、切れ長な瞳。顔は出したままローブを羽織っているが、その内側に見える衣服はややも繊細な装飾が施されている。
正市民か。しかしシヴィリィに対して敵意や侮蔑のようなものはない。むしろふんふんと鼻を鳴らして、女は言った。
「とっても良い匂いじゃなぁい?」
「え、あーと。パンを焼いてたから」
シヴィリィが思わず応対し、焼き立てのパンを見せる。そうすると女はあっさり近づいてきて、シヴィリィに言った。
「一口貰っても良いかしらぁ。お腹ぺこぺこなのよぉ。お金は払うから」
もうすでに手を伸ばしかけているのは俺の錯覚だろうか。
シヴィリィがこくりと頷くと、女はパンを丁寧に指で切り分けて口にいれる。ほぉ、っと吐息を漏らして笑った。
属領民の作った食べ物、というような偏見はない輩らしい。
「美味しいわぁ。やっぱり何でも出来たてじゃないとねぇ。出来立てが一番よねぇ」
「良かったら一つ持って行ってもらっても良いけど。他にも作ってるから」
シヴィリィからパンを笑顔のまま受け取りかけて、そっと女は手をひっこめた。
それからぱんぱんと手を鳴らす。
「本当はそうしたいんだけどぉ。今仕事中なのよねぇ。つまみ食いはあんまりよくないわぁ」
パンを食べたのはつまみ食いに入らないんだろうか。
俺のそんな疑問を吹き飛ばすように、女は懐から一つの紋章を取り出す。
――教会に飾られていた紋章と、同じものだった。大騎士教紋章。
「悪いけどぉ。ついて来て欲しいのよねぇ。大騎士教の名の下に。――良いでしょう。シヴィリィ=ノールアートさん?」
女は口元をつり上げるようにして笑ってから、そう言った。
安穏な時間を吹き飛ばすような。そんな言葉と笑みだった。
本話をもって、第二章『迷宮戦争』は完結となります。
次話以降は第三章となり、更新に少々お時間頂くかもしれません。
申し訳ありません。
もしお気に召しましたら、ご感想など頂ければ幸いです。
皆さま本当に、お読み頂きありがとうございました。